マタイ伝二十六章とマルコ伝十四章には、イエス・キリストの頭にナルドの香油を注いだベタニヤのマリヤとイエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの記事が前後して記録されています。二つの福音書の記者が、文脈をふまえ、意識的にこの二つのエピソードを並べたと理解することができます。
この二人は二つのことではっきりその対比が示されています。
先ず、金額が両者のエピソードには出てきます。マリヤがささげたナルドの香油は三百デナリの価値が有るということでした。三百日分の日当にあたる金額ということですから、大雑把に言えば、今日、年収という言い方が当てはまるところです。ユダは、このささげ物を「勿体無い」こととして憤慨します。そして、直後に、密にイエス・キリストをユダヤ人の指導者に売り渡す約束をした時には、銀貨三十枚という条件を承諾するのです。これは、奴隷一人分の値段と言われます。そして、それをデナリの単位で表わすと、百から百二十デナリぐらいだということなのです。イエス・キリストに注いだナルドの香油を「勿体無い」と憤慨したくせに、師であり、主であるイエス・キリストを売る時には、商品であるナルドの香油よりも安い値段で構わないという態度であったわけです。そういう理解をすると、ユダが大変イエス・キリストを軽く見ていたのではないかという印象になります。
次は、二人の信仰の姿勢とイエス・キリストによる評価の対比です。マリヤはイエス・キリストに香油を注ぎ、埋葬の用意をしたということで、「福音が語られるところでは、どこでも、この女のことも語り告げられるでしょう。」という評価をされます。以前も書きましたが、その理由は、マリヤがイエス・キリストの復活を信じていたと考えられる部分に有ります。福音の中で、イエス・キリストの復活は大事な要素です。マリヤはイエス・キリストご自身が語られた死と復活の予告をしっかり信じていたと思われます。でなければ、このエピソードが福音の語られるところではどこでも語り告げられる意味が有りません。一方、ユダの方は、イエス・キリストに対する信仰を持っていなかったと考えられます。そうでなければ、金蔓としてユダヤ人の指導者たちに売るという発想は有り得なかったでしょう。当然復活も信じてはいなかったでしょう。信じていた上での行動であったならば、後悔して自殺することは考えられません。イエス・キリストの評価は、「そのような人は生まれなかった方が良かったのです。」という大変残念なものになっています。
二人の福音書の記者は、明らかに、キリスト信仰、復活信仰の有無をはっきり対比させる意図を持ってこのエピソードを直に並べて記録したと考えられます。
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二人の福音書の記者は、明らかに、キリスト信仰、復活信仰の有無をはっきり対比させる意図を持ってこのエピソードを直に並べて記録したと考えられます。


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