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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ベタニヤのマリヤとイスカリオテのユダ

2017-04-09 21:41:34 | 奥義書講解・福音書
マタイ伝二十六章とマルコ伝十四章には、イエス・キリストの頭にナルドの香油を注いだベタニヤのマリヤとイエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの記事が前後して記録されています。二つの福音書の記者が、文脈をふまえ、意識的にこの二つのエピソードを並べたと理解することができます。

この二人は二つのことではっきりその対比が示されています。

先ず、金額が両者のエピソードには出てきます。マリヤがささげたナルドの香油は三百デナリの価値が有るということでした。三百日分の日当にあたる金額ということですから、大雑把に言えば、今日、年収という言い方が当てはまるところです。ユダは、このささげ物を「勿体無い」こととして憤慨します。そして、直後に、密にイエス・キリストをユダヤ人の指導者に売り渡す約束をした時には、銀貨三十枚という条件を承諾するのです。これは、奴隷一人分の値段と言われます。そして、それをデナリの単位で表わすと、百から百二十デナリぐらいだということなのです。イエス・キリストに注いだナルドの香油を「勿体無い」と憤慨したくせに、師であり、主であるイエス・キリストを売る時には、商品であるナルドの香油よりも安い値段で構わないという態度であったわけです。そういう理解をすると、ユダが大変イエス・キリストを軽く見ていたのではないかという印象になります。

次は、二人の信仰の姿勢とイエス・キリストによる評価の対比です。マリヤはイエス・キリストに香油を注ぎ、埋葬の用意をしたということで、「福音が語られるところでは、どこでも、この女のことも語り告げられるでしょう。」という評価をされます。以前も書きましたが、その理由は、マリヤがイエス・キリストの復活を信じていたと考えられる部分に有ります。福音の中で、イエス・キリストの復活は大事な要素です。マリヤはイエス・キリストご自身が語られた死と復活の予告をしっかり信じていたと思われます。でなければ、このエピソードが福音の語られるところではどこでも語り告げられる意味が有りません。一方、ユダの方は、イエス・キリストに対する信仰を持っていなかったと考えられます。そうでなければ、金蔓としてユダヤ人の指導者たちに売るという発想は有り得なかったでしょう。当然復活も信じてはいなかったでしょう。信じていた上での行動であったならば、後悔して自殺することは考えられません。イエス・キリストの評価は、「そのような人は生まれなかった方が良かったのです。」という大変残念なものになっています。

二人の福音書の記者は、明らかに、キリスト信仰、復活信仰の有無をはっきり対比させる意図を持ってこのエピソードを直に並べて記録したと考えられます。






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イエス・キリストの物断ち(マタイ伝二十六章二十九節等)

2017-04-04 22:06:44 | 奥義書講解・福音書
イエス・キリストが聖餐の制定をされた時に、その締め括りに

あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。 (口語訳)

ということを言われました。

よくなされる解説は、この過ぎ越しの祭りの祝いの宴の次は、小羊の婚宴と呼ばれる神の国の到来の宴で、それまではどのような宴の席にも着くことは無いというようなものです。


しかし、もう一つの理解を加えることが、私達の信仰の糧としては大事な部分ではないかと思います。イエス・キリストはここで、誓いを立てて約束をされたのです。使徒パウロを殺すまでは、食事をしませんと宣言したユダヤ人たちがいたことが使徒行伝に記されています。「~するまでは、・・・をしません、食べません。」という誓いの立て方がユダヤ人たちの間には有りました。日本人も願掛けをしている期間はお茶を飲まないという誓いを立てる人がいます。それをお茶断ちと言ったりします。その誓いの形式をお用いになったということになります。イエス・キリストはここで、ぶどうの実から作ったものを飲むことをしないという物断ちの誓いを立てられたのです。

ユダヤ人たちの間では、この誓いは必ず成就させなければならないという強い気持ちによって立てられました。イエス・キリストが必ず成就させることは何でしょうか。文脈から直接的につながりの有る事柄は、聖餐式の意味になります。聖餐式はキリストの死とよみがえりを宣言することにあります。ですから、イエス・キリストの誓いの中心は、復活に有ったと考えて良いと思います。勿論、復活に伴う全てが含意されるでしょうけれども、先ず目を向けるべき部分は復活に有ると言えます。

イエス・キリストご自身の復活は成し遂げられ、使徒たち及び聖徒たちの証言を通して現代の忍者である我々にまで伝えられました。同時に、この誓いは、イエス・キリストに連なる聖徒たちも必ず復活に与ることになる、復活させるという約束、宣言になっています。神である方がその誓いを立てたのだから、必ずそうなる、というわたしたち現代の忍者たちの信仰を奨励する部分があり、それが大事な点になっています。



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行って実をむすぶ 付録

2013-06-29 12:38:43 | 奥義書講解・福音書
少し前にヨハネ伝十五章十六節について書きました。それは、最後の晩餐でのことでした。しかし、イエス・キリストはそれに通じることを既に六章でも述べておられたなと思いましたので、そのことを書き加えておこうと思います。

六章の状況
六章には五つのパンと二匹の魚で五千人を養った奇跡の物語が記されています。その後、イエスの一行が湖の反対側に向かうと、群衆がおいかけてきました。そこでキリストは自分が命のパンである、天からくだってきたパンであると語り始めます。その言葉に群衆は躓きますが、キリストは「互いにつぶやいてはいけない。」と言って続けて語られます。その中から、十五章の中でも見出すことができる内容や原則を確認してみたいと思います。

共通点一
五十六節には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」ということが書いてあります。この「おり」と訳された語が十五章で「つながっており」「とどまり」「うちにいる」と訳されたのと同じメノーという語です。当然と言えば当然でしょうけれども、六章においても既にこのことは述べられているというわけです。葡萄の木と枝の例えは用いられていませんが、師弟の間柄を示唆し、関係は同じと言えるでしょう。
 そのつながりの説明が、今回は、「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む」ということによってであるとされています。現代の私たちにはそれが聖餐式を含意することがわかりますが、当時それを聞いた人達には異なった聞かれ方をしたことでしょう。直接的に聞いてしまった人達が、「 これはひどい言葉だ」と言っています。しかし、それを比喩的に捉えることができれば、食べ物が自分の血肉となることと関連付けて、キリストそのものと言えるような、教えの中心を心に留め、信じ、自分のものとすることであると考えることはできたのではいないかと私は思います。
 十五章に示されている通り、キリストの教えを守ることによってキリストにとどまるということが、ここでも示されていると理解できます。聖餐式の示唆まで考慮に入れると、キリストによる死と復活を信じ、証する信仰までを含んでいると考えられるでしょう。この時点では、十五章のまとめで示したように、生活の心配もゆだねる神への全き信頼、自分の力や義を誇らないこと、互いに愛し合うことなどを考えることになると考えてもいいと思います。


共通点二
五十七節には「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」と書かれてます。十五章との共通点は、キリストが常に言っていたことではありますが、天の父の御心を伝えてきたということの確認です。十五章十五節に「わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」と有る通りです。


共通点三
少し飛びますが、六十三節には、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」と有ります。十五章との共通点は、三節に「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。」と有るように、キリストの「言葉」です。六章までにキリストが教えてこられた神の国の福音が、十分に人を生かす霊の力が有るということです。これもまた、十五章で確認したキリストの言葉と教えに通じていると考えて良いでしょう。肉はなんの役にも立たないという部分は、十五章五節の「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」とも関連付けて考えることができるでしょう。


大きくまとめてみますと
1)キリストを信じ、その言葉を守るということがキリストに留まるということ。
2)キリストの言葉に留まることは、父なる神の言葉に留まるということ。
3)キリストに留まることによっていつまでも残る実、命が得られること。
というような共通点を見出すことができると思います。






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行って実をむすぶ(ヨハネ伝十五章一~十六節)

2013-06-09 01:26:39 | 奥義書講解・福音書
 ヨハネによる福音書十五章十六節の理解を深めたいと思い、調べてみました。実を結ぶというつながりから考えると、一節からつながっていると考えることができます。前後を読みますと、互いに愛し合いなさいという戒め、聖霊が来ることとその働き、イエス・キリストが弟子を選んだなどのつながりで、もっと聖書箇所のまとまりを広く設定することもできるように思いましたが、葡萄の木の例話のつながりに限定しますと、このまとまりで理解しても良いと考えました。

 ターゲットの十六節を確認する前に、最初の方からポイントを確認して行きたいと思います。

 二節と三節は互いに似通った事柄を扱っていると言えそうです。父なる神が農夫のように、クリスチャンを枝として取扱います。手入れをしてきれいにするというのは、剪定をするという意味のギリシャ語が使われています。実を結ばせるためには、余計な栄養分を吸収して結実を妨げるような小枝などを切り落とす必要が有ります。
 そして、その霊的な取扱いを今度は弟子たちに当てはめて語っているのが三節と考えることができます。手入れをするということが、弟子たちの場合は、イエス・キリストの語られた言葉によってなされ、すでにきれいになっているというのです。きよくされていると訳された語は、きれいで純粋であることを意味する語です。実際にきれいなことも、倫理的に清潔であることも意味することができます。
 弟子のそのようなきれいさは、イエス・キリストのこれまで語って来られた言葉によってもたらされたものです。具体的にはどういうことであったのでしょうか。イエス・キリストが福音書を通して絶えず語って来られた霊的な原則を確認してみます。中心的なものは、1)山上の垂訓に示されるような、自分の生活を心配しない神への全き信頼、2)パリサイ人や弟子たちに繰り返し警告した、自分の行いを頼みとせず、間違った自尊心やブライドという罪から離れること、3)互いに愛し合うことの三つにまとめることができると思います。
 これらによって霊的に養われ、不信仰やプライド、高慢を捨てるように整えられた弟子たちは、すでにきれいであるということであると理解して良いと思われます。 

 次に、四節から六節も共通の原則でまとめられていると考えられます。枝は木もしくは幹に結びついていなければ養分を受けて成長したり実を結んだりすることができないように、私たちはイエス・キリストに霊的に結びついていなければ、神の国の法則にしたがって生活の中で、また霊的に実を結ぶことができません。キリストから離れては実を結ぶこともできないし、何もできないとイエス・キリストは言っています。自分の力で義となろうしてきたユダヤ人の指導者達への戒めや挑戦を、弟子たちに思い起こさせていると考えられると思います。イエス・キリストにない義を追い求める者は、結局滅びに向かうということを6節は結論付けていると考えられます。

 その次は七節から十一節までが共通の原則でまとめられていると考えることができると思います。それは、弟子たちとイエス・キリストがつながっているということが、どのようなことであるかということです。
 七節では、弟子たちがイエス・キリストにつながっているということが、彼らの中にキリストの言葉がとどまっているということで確認されています。それは、三節の、キリストの言葉によって弟子たちがすでにきよいということと関連付けて理解できます。また、十節に有る弟子たちがキリストのいましめを守るということが、キリストの愛のうちにとどまるということであるという記述も、同様の原則を述べていると理解できます。
 この箇所では、すでに述べられたことに加えて、キリストにつながっているならば何でも求めれば与えられるということ、天の父が栄光をお受けになるということが示されており、これらのことが語られたのは、キリストの喜びが弟子たちの中にとどまり、弟子たちの喜びが溢れるためであるとされています。
 ここまでの「つながっている」「とどまっている」「うちにいる」という語は、原語ではすべて同じメノーという語が用いられています。含意されるのは、「場所的にとどまる、離れないということ」、「時間的に続くこと、滅びないこと、生き延びること」、「同じ状態にとどまり、異なった状態に変化しないこと」などです。キリストとの関係が、人間的な価値観によって変わったり後戻りしたりせず、永続的であるべきであることを考えています。

 その続きは、十二節から十五節までが、「いましめ」と「友」というキーワードでまとまっていると考えられます。
 「いましめ」という語は一度しか出てこないではないかと思われるかもしれません。その後に出てくる「わたしが命じること」という表現の中の、命じるという動詞が「いましめ」と訳された語と同根なのです。
 この「いましめ」と「わたしが命じること」の内容は十二節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」ということです。
 続いて十三節から十五節に「友」という言葉が繰り返しあらわれます。十三節は、イエス・キリストが間もなく十字架で命を人類のためにお捨てになることを含意しています。そして、その愛が弟子たちにも向かっていることを十四節で「友」の定義をすることでキリストは示してくださっています。キリストはこの箇所で弟子たちに向かって「わたしはあなたたちのために命を捨てる用意ができているのだよ。」と語りかけていることになります。同時に、キリストのいましめを守る者がキリストにとどまる者であり、キリストの友であるということを示しています。また、キリストの友であるというもう一つの要因は、父から聞いたことをみな弟子たちに知らせたからであるとしています。そのことは、節で見た、キリストの語った言葉によってすでにきよいという部分にも重なってくるようです。
 ここまでが、ターゲットとなる十六節の前までの部分の確認です。それでは、これらの理解を前提として、十六節を確認していきたいと思います。

 さて、ターゲットとなる十六節です。

あなたがたというのは、残った十一人の弟子たちのことです。わたしというのは、イエス・キリストのことです。弟子たちがこの人こそメシアだと思ってついて行ったのではないし、ましてや特別な十二弟子には自ら選んでなれた人はいないのであって、どちらもイエス・キリストがお選びになってお立てになったのだという、キリストご自身の権威あるお言葉なわけです。
 その目的が次に語られます。ここで注目するべきだと思うのは、「行って」と訳された語です。「行く」という動作には、多くの場合はアペルコマイという語が用いられるようですが、ここではフパゴーという語が用いられています。フポという前置詞とアゴーという動詞から成っています。フポは、「傍に、下に、周りに」という意味が有り、誰かの権威の下、直ぐ近い立場で従う状態を表しているということです。アゴーには「導く、連れていく、案内する、行く」という意味が有るということです。全体的な意味としては、幾つかの辞書を見ると、「くびきをかけられた馬の様に、厳しく何かの下に導かれる。自分自身を引っ込める、立ち去る、出発する。」という意味を示しています。
 目的の一つは実をむすび、それがいつまでも残るためであると述べられています。しかし、そのためには、まず「行って」ということが必要になります。それは単に出かけて行くということではないのです。いや、もしかしたら、そういう意味において行くことは中心的な意義ではないのかもしれません。ぶどうの木と枝という例話との関連から考えると、枝は木から離れて「行く」ことはできませんし、そんなことになれば枯れてしまいます。ですから、ますますこの語が用いられたことに意味が有るのではないかと思われます。先に確認したことから考えると、実をむすぶために先ずすることは、父なる神とイエス・キリストの権威の下に遜って自分を隠し引っ込めて導かれていくということだと考えられます。その土台となるのが先に確認したイエス・キリストの教えやいましめで、全き神への信頼、プライドという罪を捨てること、互いに愛し合うことです。私たち忍者は使徒ではありませんが、それでもこの土台は共通です。実をむすぶ生活の基本だということです。どこかに出かけて行って宣教をするというようなことではなく、もっと基本のところをしっかり守って行くということが大事なのであると思います。言い換えれば、この基本が全ての始まりであり、確実に実を結んで行く大事な要素だということになります。 この大事な要素が確立されているならば、それはその次の目的にもつながります。すなわち、イエス・キリストの権威に従って天の父なる神に求めるものは、何でも天の父が与えてくださるためであるということです。わたしの名によって、つまりイエス・キリストの名によってというのは、イエス・キリストの権威の下で、それに従っている者として、そのお墨付きによって求めるということです。それさえ外していなければ、与えられるというのです。その確認のためには、先に述べた神への全き信頼。プライドという罪を捨てること、互いに愛し合うことという教えといましめの法則によって生じた求めであるかということを吟味すれば良いし、そうしなければなりません。
 私たちは使徒ではありませんが、弟子ではありますし、この法則は十一人の弟子のみならず、我々にも適用されると考えて良いでしょう。


繰り返しになりますが、ポイントを箇条書きでまとめておきます。
1.私たちは、天の父なる神の御心によって語れたイエス・キリストの言葉によってきよくなっている。すなわち整えられている。
2.その言葉、教え、いましめは、神への全き信頼、プライドという罪を捨てること、互いに愛し合うことである。
3.イエス・キリストの権威の下に遜って自分を引っ込め、導かれていき、2.を実行することによって我々は実をむすぶ。その過程と法則によって生じた求めは聞かれる。



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覚えていないのですか マタイによる福音書十六章五節~十二節

2012-04-23 00:24:04 | 奥義書講解・福音書
 友人の少忍が説教していた箇所から、自分も異なった角度からの語り掛けを受けましたので、あまりうまくまとめられませんでしたが、ここに書き留めておきたいと思います。

 この箇所はキリストによる「パリサイ人やサドカイ人のパン種に注意しなさい。」という警告で始まり、弟子達がその意味を理解したということで終わっています。しかし、もっと大きな括りで16章を確認すると、この箇所の中心的な意義は、寧ろキリストが発した発言や質問で確認される事柄に有るのではないかと思います。あまり手際の良いやり方ではないかもしれませんが、順番に確認してみたいと思います。

パリサイ人とサドカイ人たちのパン種
 先に述べましたように、この箇所の始めと終わりはこのパン種の話になっていますので、先ずはその部分をはっきりさせておきたいと思います。このことに関する結論は、12節に出ています。ここで言うパン種というのは、パリサイ人やサドカイ人たちの「教え」のことであるということでした。では、その教えはどんな教えのことでしょうか。
 16章にもパリサイ人やサドカイ人たちは登場しますが、その内容は彼らの教えには直接関係無いと言えます。彼らは旧約の力強い預言者エリヤが「私が神の人ならば天から火が下るだろう。」と言って、実際に火が下った故事に従って、キリストが神の人である証として天からの火を呼び下して見せろと迫ったと考えられます。エリヤの故事をもとにしているならば、その火で自分達が焼き殺される恐れが有るはずでしたが、そんな様子は微塵も有りませんから、これまでのキリストの奇跡の数々を全く無視し、お前がキリストなわけがないだろうという態度であったのかもしれません。あるいは、彼らは自分が神の側に居るから自分に害が及ぶことは無いと考えていたのかもしれません。とにかく、この部分は彼らの態度の記述ではありますが、教えに関する記述は無いのです。
 そこで、更に戻って彼らの教えに関係の有る記述を探しますと、15章1節から20節までのまとまりに見出されます。ここに出てきますのは、パリサイ人と律法学者です。ではサドカイ人がいないではないかと思われるかもしれません。律法学者というのは正確に律法の写本を作るのが仕事で、主に祭司がその仕事をしました。サドカイ人はその祭司であることが多かったのです。
 パリサイ人や律法学者の教えとは、モーセの律法の後から付け加えられた掟や伝統をきっちり守ることでありました。そして、それを守ることを誇りとし、自分を義と認めて思い上がっていました。そして、キリストの弟子達はそういう教えを守っていないと言って責めていました。しかし、そういう態度は無駄である、それは、神の教えではなく、人の教えを教えとしているからだということをキリストはイザヤの預言を引用して語られています。そういう教えと態度に、キリストに従う者達は気をつけなければならないのです。
 先に確認したように、十六章の始めに彼らがキリストに天からの印を求めたのは、キリストをメシアと信じ受け入れていないということでした。直接教えには関係無いことではありますが、その態度は警戒するべきであり、倣ってはならないものでした。彼らは自分達こそ権威であると考え、メシアさえ自分達の認める権威の中から出てこなければならないという思い上がった気持ちを持っていました。自分達の教えを最高のものとし、自分達を権威有る者とし、キリストをメシアと信じることができない不信仰の態度は、キリストが弟子達に語りかけた「覚えていないのですか」という問いにつながるところが有ると思います。

キリストの質問とその意味
 弟子達がキリストの発した「パン種に気をつけなさい」という言葉を聞いて弟子達がパンを持って来なかったことにいて議論を始めたことをもって、キリストは弟子達を「信仰の薄い者たち」と評しました。パンが無くても、キリストがいればそういう問題は解決していただけるのです。しかし、弟子達はそういう信仰に立って考えることができませんでした。ですから信仰の薄い者達ということになるのです。
 弟子達はその事実をすでにその身をもって体験していました。キリストはその事実を、質問をもって思い起こさせ、信仰に結びつけさせようとなさいました。五つのパンで五千人を養い、七つのパンで四千人を養っただけでも大変な奇跡ですが、その必要を超えて十二の篭、七つの篭に集める程の余りが出たのでした。それはただ奇跡であるだけではありませんでした。ユダヤ人の理解においては、民にパンを与える力が有る者がメシアとして来るという理解が有りました。しかも、キリストはそれを十二分にお示しになったのでした。この二つの奇跡は、キリストのメシア宣言でもあったわけです。
 ここにおいて、信仰が薄いというのは、キリストがメシアであり、民にパンを与えることができる存在であるということを忘れて、比喩的な表現を現実的な食物の備えが無いという問題として捉えた信仰の姿勢のことでした。それはキリストのメシア性をどこかで信じ切っていなかったということではないでしょうか。そして、キリストが弟子達に警告したかった、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつける」ということにもつながりました。彼らはキリストを信じて弟子となった立場でありましたが、キリストのメシア性を明確に信じていなかったのであれば、パリサイ人たちと変わるところが無い状態でありました。また、パリサイ人たちは、自分の行いによって義を得ようとし、自分の力で解決を得ようとしましたが、パンが無いことで議論して、いかにその解決を自分達がしなければならないかとか誰に責任が有るかなどを考えた弟子達も、同じような態度であったと考えられる部分が有るように思われます。

まとめ
 「覚えていないのですか」というキリストの質問が最終的に指し示すものは、キリストはメシアであるということであったと言えるでしょう。直後の13節からのまとまりは、キリストが弟子達に「あなたがたは私をだれと言うか」という質問をすることが中心となっています。そして、その答えは、ペテロによる「生ける神の子キリストです」という返事に見出されます。この二つのまとまりは、キリストはメシアであるということでつながっているのです。
 私達は、この箇所からどういう神の御心を心に留めなければならないでしょうか。「覚えていないのですか」という問いにその鍵が有ると思います。神はすでに私達の信仰生活の中にその恵みを現し、神が生ける主であることを示してくださっています。そのことを、きちんと覚えておく必要が有ります。詩篇百三篇においては、「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべての恵を心に留めよ。」ということが記されています。神がしてくだったこと、必要を満たしてくださったこと、罪から贖い出して下ったことを覚えておかなければなりません。霊的な必要ばかりではなく、生活上の必要も神は満たしてくださる救いの神です。このことをはっきり心に留めて告白し続け、信仰しつづけることが大事なのです。
 私達は、リストラに遭ったりします。生活の不安を抱えている場合も有ります。しかし、キリストは、生活の必要をも満たし下さる主です。キリストはそういう部分にまで届いてくださる神であることを、この「覚えていないのですか」という弟子達への語りかけを通して、現代の私達にも語りかけてくださっており、信仰を促してくださっておられます。人間的には、そのような信仰に立つことは難しく、不安で心が満たされることも有るでしょう。しかし、辛抱強くキリストが「覚えていないのですか」と語りかけてくださっています。私達も、そうだ、覚えている、このキリストに委ね、信じきり、賭けて生きたいと繰り返し告白し確認する姿勢を保ち続け、自らの力に頼るだけの生き方から少しでも抜け出して行けるようになりたいものです。






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