「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           エチオピア王妃になりかかった日本女性

2012-02-20 07:25:09 | Weblog
先日、私立御茶ノ水図書館で戦前の婦人雑誌を調べていて、僕は幼児時代の遠い記憶の中にあった黒田雅子さん(故人)の記事に出くわした。黒田雅子さんは戦前、エチオピアの王族へ嫁ぐということでマスコミで大きな話題になった女性だ。僕が図書館で読んだ「主婦の友」(昭和9年3月号)の記事(写真)の見出しには”子爵のお譲さんが遠いエチオピアへお輿入れ。黒人国の妃殿下となる黒田雅子さん”とある。

昭和9年といえば僕はまだ3歳で、もちろん黒田雅子さんの名前は覚えていないし、詳しいことなど知らなかったが、なぜかエチオピアという遠い黒人国の王様のもとへ日本の女の人がお嫁に行くことは覚えていた。

改めて黒田雅子さんについて調べると、雅子さんは大正元年、千葉県の旧久留里藩(現在の君津市)の藩主だった黒田広志子爵の次女で、昭和8年来日したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの従弟にあたるリジ・アリア王子との間の結婚話が進み、ご成婚寸前までなった。「主婦の友」の記事はその時のものだが、結婚は結局、当時の国際情勢や日本の宮内庁の反対があって破談となった。

歴史には、そうすれば、とかそうしたらといった”レバタラ”はないのだが、、かって「シバの女王」と「ソロモン王」の後裔といわれたエチオピア王家は戦後1974年、軍のクーデター倒れ、王家も廃絶となった。黒田雅子さんはその後日本人と結婚され平成2年亡くなられている。歴史の流れに翻弄されかかった日本女性の一生であった。

     ”南洋で百貨店を開くまでの夫婦奮闘記!岡野繁蔵氏の記録

2012-02-19 07:05:55 | Weblog
昨日、主婦の友社に隣接する私立御茶ノ水図書館へ戦前インドネシア独立の志士、ウスマン氏と結婚した長田周子さん(日本名)=ジャカルタ在住=(97歳)の戦前の資料を探しに行った。残念ながら資料は見当たらなかったが、副産物として戦前ジャワで手広く百貨店を経営していた岡野繁蔵氏(故人)に関する貴重な記事(「主婦の友」昭和9年3月号)を発見した。

岡野繁蔵氏は戦前今のインドネシアのスラバヤを中心に当時の蘭印各地に”日本人最初の百貨店、しかも商品全部が日本品で、外国品一品も影を見せぬという、珍しい百貨店「トコ・千代田」を開いた”(前記「主婦の友」)経営者である。静岡県青島町(現在の藤枝市)の生まれで、大正の初期、20歳の頃ジャワへ渡り、裸一貫、巨万の富を築いた立志伝中の人で、戦前のインドネシアについての研究者にはよく名前が知られている。

平成15年、僕は岡野繁蔵氏が戦前、蘭印各地で撮影した16ミリフィルムが60分カセットにして32本もNHKアーカィブにあることを知り、関係者と一緒にその一部を見せて貰った。当時、日本ではカメラでさえ珍しかったのに、岡野氏は16ミリで撮影していた。研究者にとっては大変貴重な記録である。今回、僕が御茶ノ水図書館で見た記事は、岡野氏がスラバヤに「トコ・千代田」をオープンした翌年の記事で、その見出しには”水車屋の貧乏少年が雑貨王となる”とあり、岡野氏が百貨店を開くまでの夫婦の奮闘記が記されている。

大正時代に流行した「流浪の唄」の一節に”流れ流れて落ち行く先は北はシベリア南はジャワよ”とうのがある。落ち行く先であったかどうかは別として、戦前,蘭印各地には岡野氏の「トコ・千代田」と同じ形の日本人経営のトコ(店)が各地にあったし、写真館、薬屋、自転車屋など沢山の日本人が在住していた。戦争のため、ほとんんどの日本に引き揚げてきた。戦後その関係者が「じゃがたら友の会」を結成し、資料の保存や会報を発行して活動している。幸い岡野氏の16ミリフィルムはNHKで保存されているが、他の資料も一か所にまとめて後世に残したいものである。

           1円玉の鋳造停止と消費税の増税

2012-02-18 07:01:30 | Weblog
1円のアルミ貨幣が昨年は一枚も鋳造されなかったという。電子マネーの普及と市場での需要が減り在庫が充分あるというのが中止の理由のようだ。鋳造コストが額面以上かかるというから当然といえば当然なことだが、消費税の増税が言われている現在、将来はやがて消えてゆく運命にあるのだろうかー。

「1円玉の旅カラス」という歌がある。(荒木とよひさ作詞 弦哲也作曲)
♯ 1円玉の旅がらす ひとりぼっちでどこへ行く 1円玉の旅がらす あすは湯の町港町
  1円だって1円だって恋もしたけりゃ恋もする
  あすは出世街道どこへ行く
いつの時代かと調べてみたら平成2年(1990年)の作である。その前年の1989年税率3%の消費税が施行され、バブル経済がはじけ始めた。思いだしてみると、消費税の前、1円玉はスーパーなどで細々と流通しているだけで、厄介者あつかいにされていた。おそらく、この「1円玉の旅がらす」は、それを卑下した歌だったのだろう。

「戦前昭和」の時代、1円は高額貨幣だった。当時子供だった僕は1円紙幣などみたことはなかった。正月に貰うお年玉は最高50銭銀貨であった。ふだん駄菓子屋で使う小遣いは1銭で、時にはまだ5厘銅貨もあった。たしか紙芝居も1銭ではなかっただろうか。

戦争と敗戦直後の天井知らずのインフレで、1円貨幣はあっという間に少額貨幣に成り下がった。昭和28年には当時流通していた1円黄銅貨も廃止となり、現在のアルミ貨に変わった。そのアルミ貨も製造中止である。民主党政権で検討されている消費税、増税が実施された場合、1円アルミがどのような運命にあるのか、素人の僕にはわからない。

        ”古いアルバムめくり有難うとつぶやいた”

2012-02-17 07:36:33 | Weblog
”古いアルバムめくり有難うとつぶやいた”(涙そうそう)-昨日の誕生日、なにか無性に過去が恋しくなり、仕舞っておいた古いアルバムを持ち出した。そのうちの一冊は亡父が僕の誕生を記念して作ったもの(写真)で、昭和6年から18年まで毎年、誕生日に僕を写真館へ連れてゆき撮ったものを年代順に貼ってある。48歳という遅い子持ちだったので、亡父は子供を持った親の喜びがよほど大きかったのだろう。

「戦前昭和」の時代、一般の日本の家庭ではあまりカメラは普及していなかった。わが家には六桜社(現在のコダック)のパーレットという国産のカメラがあった。たしかベスト版の12枚撮りのジャバラが飛び出す古めかしいものだった。が、意外にこれで撮った写真はアルバムに残っていない。理由はわからないが、現在のカメラと違って撮影者によって写真の出来不出来が大きかったためかもしれない。きちんとした写真は専門の写真屋に頼んで撮ってもらった。

亡父は自分の一生を別の一冊のアルバムに残している。明治17年東京下谷で生まれた直後の写真から昭和43年亡くなるまでの写真を晩年、一冊のアルバムに貼り直し、物語風のキャプションを付けている。自分の生きてきた節目節目を写真で表現したものだ。ほとんどが集合写真だが、亡父の生きてきた時代もわかり興味深い。

僕も亡父と同じ年代になり、同じように一生をアルバムにしようと思ったこともあるが、戦争から戦争直後は写真を撮る余裕がなく、この間が空白である。そして逆に昭和40年代に入って、いわゆる”バカチョン”カメラの普及からかそれ以後の写真が多すぎて整理がしにくい。それに今はパソコンの時代で、アルバムに貼らないでも写真は保存できる。しかし、古いアルバムをめくり、ありがとうと言う感激は将来なくなってくるかもしれない。

           81歳 歳相応のアンチエージング

2012-02-16 07:51:59 | Weblog
きょうは僕の81歳の誕生日だ。NHKラジオの”誕生日の花”によると「レントローズ」だという。聞きなれない花で見たこともないが、アナウンサーの解説によると、西欧のキリスト教国の四旬節(復活祭前40日間)の頃に咲く黄色の花で、花言葉は”丈夫”だとのこと。お陰様で、花言葉のように、なんとか元気で生きている。が、やはり加齢には勝てない。昨年に比べれば歳を感じるようになった。。この1年間、僕は意識してアンチエージング(anti^aging)を試みスポーツクラブで、水中歩行と水泳に挑戦した。その甲斐あって8㌔減量したが、暮れに思わぬ帯状疱疹にかかってしまった。医者ははっきり言わないが”、どうやら過労からくる年寄りの冷や水だったようである。”

アンチエージングは抗労医学(Life extenntion )ともいうそうだ。人間は誰でも歳をとり、これにさからう事はできない。ただ老化を遅らせる事はできる。これがアンチエージングの発想だそうだ。僕の周りにも僕より一回りも上の90歳代の人生の先輩が沢山おられる。一番年長の大正3年生まれのIさんは誕生日がくると97歳。先年奥さんに先立たれて一人暮らしだが、週に2回デーサービスを受けているだけだ。また戦地からの復員が遅れて僕と大学同期のYさんも91歳だが、マンションで一人暮らしをしていて介護の世話には一切なっていない。

結果論かもしれないが、老人介護施設に入った先輩たちよりは自宅で生活している人たちのほうが元気だ。他人の世話にならず、自分で生きようというアンチエージングの意識があるからだろう。僕ら老夫婦は今のところ、二人とも元気である。出来れば先輩たちにあやかって、二人ともこのままで、かりにお世話になるにしても在宅看護で終わりたいものである。それには、無理をしまい歳相応のアンチエージングが必要なことを経験から学んだ・

        大激戦だったシンガポール上陸作戦から70年

2012-02-15 07:08:44 | Weblog
70年前の昭和17年(1942年)2月15日は、日本軍によるシンガポール上陸作戦が大激戦の末勝利に終わり、英国軍が白旗を掲げて降伏した記念日である。戦後この作戦の参謀の一人であった国武輝人氏が”どちらが手をあげてもおかしくない、ギリギリの戦いだった”と述懐している。日本軍はたった5日間の上陸作戦で1,713人の戦死者と3,387人の負傷者を出している。僕の知人のYさんもこの戦いで右足を失っている。

大きな白旗を肩から担いで降伏した英国軍との降伏式は15日午後6時すぎ、戦塵がまだくすぶるブキティマのフォード工場で行われた。日本側から第25軍司令長官山下奏文中将、英国軍側からはパーシバル中将が代表として出席した。この降伏式の写真は有名で、宮本三郎画伯によって絵にも描かれ、当時の日本人は全員、山下将軍が席上、敗将のパーシバル中将に対して”(降伏)はYESかNOなのか”と迫った言葉とともに知られ、溜飲をさげたものだ。(のちにこの山下将軍の発言は通訳に対してのものだ、と関係者が否定している)

戦後僕も激戦地だったブキティマの三叉路を訪れたことがあるが、数年前、フォード工場跡に戦争博物館が出来たようである。ネットの写真でみると、出征兵士ののぼりなどシンガポール作戦にあまり関係のないものも展示されている。シンガポールの博物館や観光地セントーサ島にも降伏式の模様が蝋人形になって残っている。それはそれでいいのだが、政府が発売している写真集の中には事実と異なり、上陸作戦の一翼をになった松井太久郎第5師団長の顔写真が誤って同じ松井だが松井石根大将のものが掲載されたりしている。

戦争から70年を経過して当時を知る関係者も少なくなってきた。僕は研究者の一人として元気なうちに現地を訪れ、過ちは過ちとして指摘、訂正を申し出てきたいと思っている。

            日本からチョコレートが消えた3年間

2012-02-14 06:32:23 | Weblog
きょう14日はバレンタインの日のようだ。が、40年前テレビで一世を風靡した木枯らし文次郎風にいえば”あっしにはまったく関わりのない”日である。老妻からも娘たちからも義理チョコ一枚くるわけではない。でも、血糖値が高めの僕にとってはそのほうがよい。

若い世代はご存じないけれども、70年ほど昔の日本ではチョコレートが3年間、一斉に町から消えた。昭和17年(1942年)から20年まで、日本人は誰もチョコレートを口にしなかった。その頃僕は東京に住んでいたが、昭和17年、菓子は配給制になり、1か月に1度、配給切符を持って僅かな量買えたが、チョコなどはなく”バターボール”とか”たまごパン”が多かった。今でも覚えているが、当時、僕ら東京の国民学校(小学校)6年生は伊勢へ参宮旅行へ出かけたが、そのときに菓子が特別に配給にになった。中身は忘れたが、なぜか学校では旅行中にこれを食べることを禁じた。

昭和18年になると、今まで駄菓子屋にあった乾燥バナナやにっきもなくなり、空襲が始まった19年以降は完全に甘味の物はなくなった。20年6月、僕らは家を離れて利根川運河の改修工事に勤労動員されたが、甘味に飢えた僕らは野田の薬局で糖衣の胃腸薬を買って食べた。

僕がチョコレートに何年ぶりかで巡り合えたのは、戦後の20年の秋のことだ。家から人形を持ち出して横浜の大桟橋へ行き、進駐軍の兵隊とチョコレートやガムと交換した。たしかハーシーの板チョコだったと思うが、その時食べた美味しかった味が今でも忘れられない。ものの本によると、日本からチョコが消えたこの3年間、糖尿病患者もいなかったそうだ。

             武道が必修だった戦時中の話

2012-02-13 07:03:31 | Weblog
この4月の新学期から中学1年、2年生に対し武道(柔道、剣道、相撲)が必修となる。戦争中も旧制中学校(男)では柔道、剣道、高等女学校では薙刀(なぎなた)が教練とともに必修課目であった。僕ら夫婦はまさにこの時代の”少国民”だが、新しく武道が中学校で復活すると聞き、あの時代を想い出して複雑な気持ちだ。

僕は昭和18年4月、中学に入学したが、柔道、剣道の2課目が必修だった。たしかそれぞれ週に1時間、専門の教師について学んだ。柔道の先生は赤白の帯をしていた高段者(6段―8段)の老人で、すりきれた畳の上で”受け身”ばかりをやらされた。一方、剣道も有段者の専門家でこれも、竹刀だけで”メン,メン、メン”と型ばかりやららされた記憶がある。戦争も末期になると、物資不足から柔道着も手にはいりにくくなり、剣道の防具などまったく入手できなくなっていた。

教練は将来、徴兵されるための軍事訓練ともいうべき教科であった。最近まで教練は男子だけの中学校だけだと思っていたら、老妻の女学校でも配属将校がいて必修だったという。僕らは低学年(1年―3年)だったから、実際に銃を持っての訓練はなく、行軍の仕方とか、号令のかけ方などを学んだ。同時に学科として”一つ軍人は忠節をつくすを本分とすべし”で始まる軍人勅諭を暗記させられた。

教練も武道も戦後いち早く進駐軍によって禁止させられた。先生方も公職”追放”になった。そればかりではない。剣道という言葉も禁句となり”しない競技”と名前も変わった。こんな時代に少年少女時代を送った僕らにとって”武道”は”教練”とオーバーラップしているのだろう。複雑な気持ちだ。しかし、学ぶ点があるとすれば、専門の教師がいて基本の受け身や型を十分訓練してくれたことだ。

           シリア親子二人の大統領の弾圧

2012-02-12 07:12:32 | Weblog
シリアのアサド政権の反政府勢力への武力弾圧が依然続いている。国連安保理での決議案がロシア、中国二か国の拒否権発動によって、その弾圧は逆に"正当化”された形である。アラブ連盟と西欧一部の国による水面下での鎮静化への模索もあるようだが、このままでは内戦状態である。昨年1月チュニジアから始まった”ジャスミン革命”だが、1年たってもシリアには春は訪れない。

半世紀前の1962年(昭和37年)僕は新聞社の中東移動特派員として、ベイルート(レバノン)から陸路ダマスカス(シリア)を訪れた。いま反政府勢力への弾圧が行われている国境のホムスも通過した。当時の情勢は1958年、エジプトと合邦して出来た「アラブ連合共和国」(UAR)からがシリアが離脱した直後であった。この離脱を決めたのは、61年のクーデーターで実権を握ったハーフィズ・アサドで、現シリア大統領バシャール・アサドの父親である。

当時から50年もの歳月が流れた。しかし、シリアでは依然アサド一家が実権を握っている。北朝鮮とまったく同じ構図なのだ。この間1982年、父親のハフィーズ時代、イスラム教内部の対立から、反対宗派への武力弾圧が行われ、1万人が殺されている。

シリアの場合、他のアラブ諸国と違って国民の大半を占めるイスラム教スン二派対アサド一家の信仰する少数派のシーア派の対立が絡んでいるから複雑だ。アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマ時代からシリアは歴史の舞台に登場する。チグリス・ユーフラテスの古い文明の地でもある。武力弾圧がさらに激化して内戦にでもなり、同国内にある歴史遺産の破壊にでもなれば大変である。日本でできることがあれば、よいのだが、残念ながら今のわが国の外交力ではどうだろうかー。

            野田総理の星占いと総理補佐官

2012-02-11 07:21:36 | Weblog
民放の情報番組はアホらしくてめったに見ないのだが、昨日の昼のTBS系番組で、いま週刊誌を賑せている手塚仁雄総理補佐官が出演しているので暫くチャンネルをそのままにした。手塚氏は僕の住む地区からの選出代議士だが、最近2回も「週刊新潮」に登場している。一つは手塚氏が議員会館内でヤフーオークションにふけって、儲けていたという内容。もう一つは選挙区内の中目黒の”億ション”をキャッシュで手にいれたというニュースだ。どちらも政治家先生は”三日やったらやめられない”話だ。

週刊誌の報道の真偽は知らないが、かって手塚氏が区会議員時代、毎日駅頭にたって演説していた頃に比べれば大変な変わりようだ。その手塚補佐官がテレビで何を語るのかと思ったら、野田総理の日常生活だ。総理の人気が今一つ上がらないのでこんな作戦に出たのであろうか。開口一番、総理が毎日、新聞の星占いに目を通していると面白おかしく語った。いつも笑顔もみせず、鉄仮面みたいな総理にも、皆と同じような一面もあるのだということを印象づけようとしたのだろう。

しかし、僕にいわせれば、これは逆効果ではないだろうか。まさか野田総理が星占いによって政治を動かすとは思わないが、わが家の老妻や娘が星占いで一喜一憂するづけているのとは違う。過去においても政治家と女占い師とのスキャンダルが週刊誌に何回も報道されている。それに、この時期国民にダーティを印象づけている補佐官の口からこれを語らせるのか。どうみてもまいなすである。

ちなみに野田総理が読んでいる占い師によると、5月20日が総理の運気の変わり目だそうだ。この日に総理が不退転とする”税と社会保障の一本化”案が可決されるかどうか。あるいは内閣が解散に追い込まれるかどうか。