きょう14日はバレンタインの日のようだ。が、40年前テレビで一世を風靡した木枯らし文次郎風にいえば”あっしにはまったく関わりのない”日である。老妻からも娘たちからも義理チョコ一枚くるわけではない。でも、血糖値が高めの僕にとってはそのほうがよい。
若い世代はご存じないけれども、70年ほど昔の日本ではチョコレートが3年間、一斉に町から消えた。昭和17年(1942年)から20年まで、日本人は誰もチョコレートを口にしなかった。その頃僕は東京に住んでいたが、昭和17年、菓子は配給制になり、1か月に1度、配給切符を持って僅かな量買えたが、チョコなどはなく”バターボール”とか”たまごパン”が多かった。今でも覚えているが、当時、僕ら東京の国民学校(小学校)6年生は伊勢へ参宮旅行へ出かけたが、そのときに菓子が特別に配給にになった。中身は忘れたが、なぜか学校では旅行中にこれを食べることを禁じた。
昭和18年になると、今まで駄菓子屋にあった乾燥バナナやにっきもなくなり、空襲が始まった19年以降は完全に甘味の物はなくなった。20年6月、僕らは家を離れて利根川運河の改修工事に勤労動員されたが、甘味に飢えた僕らは野田の薬局で糖衣の胃腸薬を買って食べた。
僕がチョコレートに何年ぶりかで巡り合えたのは、戦後の20年の秋のことだ。家から人形を持ち出して横浜の大桟橋へ行き、進駐軍の兵隊とチョコレートやガムと交換した。たしかハーシーの板チョコだったと思うが、その時食べた美味しかった味が今でも忘れられない。ものの本によると、日本からチョコが消えたこの3年間、糖尿病患者もいなかったそうだ。
若い世代はご存じないけれども、70年ほど昔の日本ではチョコレートが3年間、一斉に町から消えた。昭和17年(1942年)から20年まで、日本人は誰もチョコレートを口にしなかった。その頃僕は東京に住んでいたが、昭和17年、菓子は配給制になり、1か月に1度、配給切符を持って僅かな量買えたが、チョコなどはなく”バターボール”とか”たまごパン”が多かった。今でも覚えているが、当時、僕ら東京の国民学校(小学校)6年生は伊勢へ参宮旅行へ出かけたが、そのときに菓子が特別に配給にになった。中身は忘れたが、なぜか学校では旅行中にこれを食べることを禁じた。
昭和18年になると、今まで駄菓子屋にあった乾燥バナナやにっきもなくなり、空襲が始まった19年以降は完全に甘味の物はなくなった。20年6月、僕らは家を離れて利根川運河の改修工事に勤労動員されたが、甘味に飢えた僕らは野田の薬局で糖衣の胃腸薬を買って食べた。
僕がチョコレートに何年ぶりかで巡り合えたのは、戦後の20年の秋のことだ。家から人形を持ち出して横浜の大桟橋へ行き、進駐軍の兵隊とチョコレートやガムと交換した。たしかハーシーの板チョコだったと思うが、その時食べた美味しかった味が今でも忘れられない。ものの本によると、日本からチョコが消えたこの3年間、糖尿病患者もいなかったそうだ。