「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

                子供たちの公道徳

2012-02-10 07:05:05 | Weblog
10年近く愛用した自転車のブレーキが故障したため、家人の勧めもあって、昨日環7を走るバスで歯医者へ行った。ちょうど近くにある二つの私立小学校の下校時とぶつかってしまって、車内は満員。僕は3バス停の距離なので平気だが、杖を持った老人がいても、ツンツンルテンの半ズボンをはいた小学校高学年の少年たちは座ったまま席を譲ろうとはしない。よほど声をかけようと思ったが、こちらも同類の高齢者であるので止めることにした。

昔、東京では私立校といえば、男子校では学習院、慶応、暁星、女子校も学習院、聖心、雙葉、白百合など限られていた。それに区立校ではないが、公立の師範付属校があった。いずれも僕らとは違った制服制帽などで、僕ら悪がきは”お嬢さん、お坊ちゃん"学校としての妬みがあったのだろうか、時にはからかったりした。しかし、彼らは僕らに比べてはるかにお行儀がよかった気がする。

わが家の近くにある二つの私立小学校はほとんどがバス通学だ。下校時に先生が出て整理をしている学校もあるが、どうも子供たちの交通マナーは悪い。出口にたむろして降りる客の邪魔になったり、時には大声あげてふざけまわっている。子供だからと大目に見ているが、基本的な公道徳である。やはり学校なり親が教えなくてはならないと思う。

僕らの世代からみると、日本の公道徳は団塊の世代から乱れてきた感じだ。戦後の混乱時代、親が生きるのにせいいっぱいで公道徳どころではなく、教えなかったのが原因ではないだろうか。電車の中の優先席で大股を広げ、マンガ本を読みふけっているのは団塊世代である。そろそろ団塊世代の孫も学校に通うようになってきた。安倍内閣当時、道徳教育が叫ばれ教育再生会議ができたが、鳩山、菅二代の団塊総理によって忘れられてしまった。

             多湖輝先生のスマトラ子守歌(続)

2012-02-09 07:24:00 | Weblog
先日、心理学者で東京未来大学名誉学長の多湖輝先生が幼児の頃スマトラで覚えたという子守歌を小ブログ(2月5日)で紹介したところ、早速知人を介してインドネシア研究家のM氏から、こんなインドネシア語にもとれますね、とメールを頂いたので紹介する。「belum kanak-kanak,ingat putih kayu jati,buat sang Datuk,nenek sinyo banyak cantik」

M氏によれば、多湖先生の耳に残っている最初の部分”ブロンテケネケネ”は解読出来ないが、あとは日本語に訳すとこんな意味になるのではないかという。「チーク(材)の白い花を思い出して、ご主人のために差し上げたのを。沢山の美しい白い肌のご婦人たちのように」。まったく僕のインドネシア力では解読不可能と思っていたのに見事なものである。

M氏もメールで指摘しているが、解読はしたが全体の意味が不明である。そこで、僕は辞書を引き引き、多少こじつけになるが、こう解釈してみた。”sang Datuk"だが、Datukは、マレー、スマトラ地方では”おじいさん”という意味もある。sangという愛称語があるし、ここはご主人よりは”おじいさん”ではないだろうか。"nenek"(おばあさん)との対比からも自然な感じがする。また”sinyo"は辞書によると、欧米人の着物という意味もある。だからおばーちゃんの(白い)ドレスを指しているのではないだろうか。

終戦直後、ボブ・ホープの喜劇「腰抜け二挺拳銃」の主題歌”Buttons and Bow"(ボタンとリボン)を当時の子供たちは”バッテンボー”と覚えたという話がある。多湖先生がまったく記憶がないスマトラで耳に入った子守歌の再生である。ここまで解明して頂いたM氏のご努力に感謝する次第である。

               虹と雪のバラードの頃

2012-02-08 07:49:40 | Weblog
1972年2月6日は札幌冬季五輪で日本の”日の丸飛行隊”(70m級ジャンプ)の笠谷幸生,金野昭次、青池青に3選手が金銀同メダルを獲得、表彰台を独占した日である。あれから、もう40年もの歳月が流れた。改めて自分が終末期高齢者に近ずいてきたことを実感した。

1971年11月、僕は北海道に新しく民放が開設され、その要員として東京のキー局から派遣された。札幌の手稲山の山頂はすでにうっすらと雪化粧されていた。、東京育ちの東京生まれの僕は初めて見る札幌の街に感激した。当時札幌の中心街は、五輪をまじかに控えて最後の仕上げに大童だった。そして、街の至る所で、トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」のメロデイが流れていた。

           ♯ 虹と雪のバラード (作詞 河邨文一郎 作曲 村井邦喜)
      虹の地平をあゆみ出て 影が近づく手をとりあって 町が出来る 美しい町が
      あふれる旗 呼び叫び そして唄う  ぼくらは叫ぶ あふれる夢に
      あの星だけの あいだに眠っている北の嶺 きみの名を呼ぶオリンピック

札幌はまさに”町が出来る 美しい町が”であった。五輪会場の街にできた真駒内の選手村は北欧の町を彷彿させた。そしてその真駒内と中心街の大通りや繁華街すすきのとを結ぶ地下鉄は夢の電車にも見えた。その大通りとすすきのには地下街が誕生した。雪道になれていない僕は、転ばずにすむ地下街で大助かりであった。開局を前に休日もない多忙な日々であったが、時には地下街の噴水の前のベンチに腰掛け、「虹と雪のバラード」に耳を傾け将来に夢をはせた。

          「GKB47」問題は国会の論議の対象か?

2012-02-07 07:06:41 | Weblog
昨日も参院予算委員会の模様をテレビで終日みた。表現は悪いが野党の質問とこれに対する野田総理ほか閣僚の答弁は面白いが、与党民主党の若手議員の質問は勉強不足で、閣僚の答弁も沈鬱でつまらない。与党の時はチャンネルをNHKから民放に回すのだが、たまたま質問議員の横におかれた「あなたもGKB47宣言」のボードに惹かれて、暫くなんのことかと視聴を続けた。

人気アイドルグループ「AKB48」をもじったような「GKB47」とは、人生に悩み自殺を考えている人たちに、声をかけたり、支援機関を紹介したりしているグループ、”GATE kEEPER GRUP"の頭文字を取ったもので、47は都道府県を表しているのだという。質問に立った松浦大悟議員によると、このボードに書かれたキャッチフレーズは、例えばGKBは若者言葉でゴキブリを指すそうで、人の生死と向き合う自殺対策の言葉としては不適切だという。

3月の自殺対策強化月間を前に、内閣府はすでに昨年11月、このキャッチフレーズを決定しているが、松浦議員は政府に対してこの撤回を迫った。参考人として答弁に立った、あの誤逮捕で話題になった村木厚子政策統括官が、事情をルル説明されていたが、僕も理解できた。主として答弁した岡田副総理も松浦議員の質問には、いささか当惑気味でそれが顔に出ていた。そして与党議員の質問ではないとさえ言っていた。

人の生死に関する重要問題である。若い松浦議員の言わんとすることは解る。しかし、与党議員が国会で取り上げる問題であろうか。問題があれば民主党内で充分論議して結論をだすべきである。予算委員長の石井一民主党議員が、この問題に対して政府に見直し要請をしたようだが、これは越権行為である。岡田副総理は見直しが可能かどうか事務方に指示したそうだが、党内のバラバラさをさらけ出しただけで、見苦しかった。

                アフリカ 日本 中国

2012-02-06 07:08:52 | Weblog
カメルーンの隣人が昨日長期休暇から帰ってきて土産に500g入りのコーヒーとチョコレートを土産にくれた。コーヒーは自国産70%アラビカと30%のロブスターをブレンドしたものだ(写真)。袋には”Since 1958"と書いてあった。仏領カメルーンが宗主国から独立したのは1960年だからカメルーンとしては古い歴史を持つものだ。袋の説明文はフランス語だが、同時に英語でも書かれていて、この国の独立前の複雑な歴史を物語っている。

日本人のアフリカについての知識はうとい。僕も隣人が引っ越してくる前までは、カメルーンといえば、2002年のFIFAの日韓共同開催時に大分県の村に合宿して話題を投げたぐらいの知識しかなかった。ことほどさように大陸内にある53か国の個々の国については知らない。でも考えてみれば、世界の国々の半分に近い国がアフリカ大陸にあるのだ。

少し旧聞だが、先月、この53か国の組織AU(アフリカ連合)本部の建物がエチオピアの首都アジスアベバに完成した。99・9㍍の高さ、20階建てで、総建設費は2億㌦だそうで、驚いたことには、中国がこれを全部提供したというのだ。これまで僕の僅かなアフリカへの知識では、アフリカ開発支援はわが国の専売特許だと思っていた。わが国は5年に1回、日本にアフリカの首脳を招き、TICAD(アフリカ開発会議)を開催している。前回(第4回)横浜で開かれた会議ではODA(海外開発援助費)の倍増と最大4億円のインフラ整備費を約束した。

来年(2013年)は、そのTICADの開催年に当たる。エチオピアのAU本部ビルには、2500人を収容する会議場もある。まさかそんなことはあるまいが、AUが中国に配慮して日本での開催をことわり、アジスアベバ開催ということになれば、これまでの日本の努力はどうなるのか。民主党外交の稚拙さがめだつだけに心配だ。自らアフリカの大家を自認する鈴木宗男氏の登場を願わなければ!

            多湖輝先生とスマトラの子守歌

2012-02-05 07:03:38 | Weblog
昨年暮れNHKラジオ「深夜便」の中で心理学者で東京未来大学名誉学長の多湖輝先生が生まれて間もなく幼児時代に聞いたスマトラの子守歌をいまだに覚えている、と語られていた。先生は1926年、スマトラ(当時蘭印)の生まれだが、すぐ家庭の事情で帰国した。だからスマトラのことは記憶にないが、なぜかこの子守歌だけは80数年たった今でも覚えておられるという。僕は1970年、北スマトラのメダンに長期滞在したことがあり、1966年には車と舟でスマトラ縦断旅行もしたことがある。僕はこの話に興味をもち、早速、先生に手紙を書いて子守歌の歌詞について教えを乞うた。

昨日、多胡先生から風邪で体調をこわしていて返事が遅れて失礼したと詫びの言葉と共にスマトラ子守歌の歌詞が届いた。そのカタカナで表記してみた。「ブロンテケネケネ インガプティカ ユ―ジャティ― ブアサンダト ネネ シニヨー バニャ チャンテ」(語間は僕がかってに置いた)。確かにインドネシア語(マレー語)みたいだが、残念だが僕の力では解らない。

知り合いのメダン生まれで日本人と結婚している女性に電話をかけて聞いてみた。彼女は東京のインドネシアの歌の集い「ラグラグ」会の会員である。即座に”これはアンボンの歌ではないか”と答えた。その理由はネネ(おばあさん)のあとのシニオーは、アンボンのポルトガル語からの借用語で”年老いた”という意味があるということだ。アンボンはスマトラから遠いインドネシア東部にある島だが、オランダ時代には互いに交易があり、メダンには今でもカステラに似た”ビカ アンボン”というお菓子が名物になっている。

しかし、これだけでは断定できない。ひき続き”謎とき”の解明に努めることにするが、どなたかご存知の方があれば、お知らせ願います。最後に多湖先生のお言葉を紹介しよう。「動けば必ず何かが変わります。動けば必ず何かがわかります。動けば必ず何かが身に付きます。動くことによってあなたは強くなってゆきます」((「まず動く」高木書房)


                    わが家の恵方巻

2012-02-04 09:39:32 | Weblog
今年はお店で買わずにわが家で恵方巻を作った。「戦前昭和」の時代に亡母が作っていた五目御飯の材料、干瓢、デンブ、卵焼き、シイタケ、ハス、インゲンなどを海苔で太巻きにしただけのものだが、結構おいしかった。「戦前昭和」の頃は海苔は今より高価な印象である。弁当箱の御飯の上に海苔を置いただけの”のり弁”は「戦前昭和」の匂いかもしれない。

             「戦前昭和」の時代の記憶

2012-02-04 07:22:58 | Weblog
最近「戦前昭和」という言葉をよく耳にする。講談社現代新書の「戦前昭和の社会」(井上寿一著)からきているようだが、僕はまさにこの時代の”申し子”みたいな世代だと思う。この時代は厳密に言えば、昭和元年(1926年)から二十年(1945年)だが、一般的には大東亜戦争が勃発した十六年以前の時代を指している。

本の副題には”暗い時代の明るい生活”とあるが、子供だった僕にはあまり暗かった記憶はない。昭和6年2月生まれの僕だが、同じ年の6月には満州事変が始まり翌年には上海事変(第一次)そして小学校に入学した12年の7月には支那事変が始まった。事変とはお互いに宣戦布告なしの戦いだそうだが、そのためなのだろうか、社会生活の面で”戦争をしている”意識は感じられなかった。

昨日は節分で初午。何故か僕は「戦前昭和」の時代を思い出した。家族全員がそろって誰かまわぬ大声をあげてした豆まき。初午には近所の”おいなりさん”で行われた行事。大人たちが祭袢纏を着て太鼓をたたき、集まった子供たちに温かい甘酒をふるまった。わが家では節分には”五目御飯”を作り重箱に詰めて、隣近所に配った。干瓢(かんぴょう)ピンク色したデンブ、紅色の生姜、インゲン、ハスなどの野菜をあしらったお酢の御飯だ。

バレンタインなどなかったが、デパートの売り場には動物の形をした大小のチョコレートが売られていた。子供のお小遣いでは買えなかったが、駄菓子屋には子供にはもっと魅力的な金華糖が売られていたし、子供向けの”お好み焼き”(ドンドン焼)も食べられた。”季節がもう少し進むと近くの原っぱには、土筆(つくし)が芽を出し、ヨモギも摘めて家で草餅を作ってもらえた。たしかに明るい生活があった。大東亜戦争がはじまり、この明るい生活は急坂を転がり落ちるようにして、ついには地獄の時代と変わった。

            隠岐の島のイカ 豊かになった食材

2012-02-03 06:50:43 | Weblog
近くに住む70年来の竹馬の友から隠岐の島の新鮮なイカが届いたから差し上げると電話があった。友人の奥さんが隠岐の島の出身なので、時々故郷からクール宅急便で届くが、夫婦二人だけの生活なので、その都度わが家もおすそ分けに預かる。さすが”美食の島”隠岐の名産だけに味は一匙違う。娘一家にもおすそ分けのおすそ分けして早速刺身にして頂いた。

冷凍冷蔵技術の進歩で、日本人の食卓も、この半世紀ほどで飛躍的に豊かになった。昭和30年代、高度成長時代までは、東京に住むわが家ではとても隠岐のイカなど食べられなかった。サカナといえば江戸前(東京湾)がまだ主流で、せいぜい関東の海で獲れたものが多かった。北海道のシシャモだのほっけは昔は東京では食べられなかった。北海道産といえば、新巻の塩辛い鮭や身欠きニシンであった。海なし県の信州育ちの老妻はサカナといえば口がまがるほど塩辛いイワシを思い出すという。

それに比べて今はよい世の中だ。冷凍食品ならば日本全国はおろか世界中の食材が手にはいる。それにつれてグルメ・ブームである。一度では覚えられない名前の西欧料理やアジアのエスニック料理が東京でも食べられるようになった。ものの本によると、奈良時代隠岐のイカははるばる50㌔の海を渡り、朝廷に献上されたという木簡が出土したという。冷凍や冷蔵技術がなかった時代、どうやって運んだのか興味があるところだ。

             政界に ”返り咲き”現象は?

2012-02-02 07:05:04 | Weblog
まったく偶然とは思うが、先日の新聞を見たら二つの”返り咲き”現象が目についた。一つは大麻、八百長問題でトップの座を降りた北の湖(元横綱)が5年ぶりにまた日本相撲協会の理事長に選ばれたこと。もう一つはキャノンの御手洗富士夫会長が、これもまた6年ぶりに現役復帰して社長を兼務したことだ。

”返り咲き”とはコトバンクによると、もともとは”春の花が小春日和に誘われて時節でもないのにまた咲く”という意味だが、これを上記お二人にあてはめては失礼だろう。ここではごく一般に世間で使われているような”カムバック”という意味で使わせてもらう。

この”返り咲き”現象の政界への波及はどうだろうか。調べてみると過去、明治時代には伊藤博文が途中間をおいて第4次まで組閣している。昭和の時代でも近衛秀麿が3回にわたって挙国一致内閣をつくっている。平成になっても第79代総理の宮沢喜一が、変則だが第81代森喜郎内閣の大蔵大臣に”返り咲いて”いる。

御手洗社長の”返り咲き”について田中稔三副社長は”欧州のユーロ危機や超円高など経済の先行き不透明の時に世代交替を急ぐよりベテランの力を結集するのが安全だ”との談話が新聞記事にあった。石原慎太郎東京都知事らベテラン政治家がいろいろ政界のシャッフルを考えているようだ。若くして総理の座を降りた政治家がいるが、その返り咲きもひょっとしてありうるのかもしれない。