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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

渇きと死と生

2009-07-29 16:48:13 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 28日の写真で奥の二人が立っている場所は崖っぷちになっていて、白いペンキが塗られたコンクリートの壁が設けられ、簡単な展望台になっている。そこから周囲の海岸をカメラに収めた。
 サイパン・テニアンは川や湧き水が少なく、人々は天水を溜めて利用していた。生き残った住民や兵士の証言を読むと、渇きに苦しむ様子が頻繁に出てくる。そして、追いつめられた住民の中には、米軍に捕まると残虐な目に遭うと教え込まれ、「捕虜」にならずに自分たちで死ぬよう兵隊から指示されていたために、それを実行する者も出た。
 北谷町が発行した『戦時体験記録』より、与那覇政信さん(明治33年生・農業)の証言を見てみたい。大正13年に南洋に渡った与那覇さんは、一年後に妻のナベさんを呼び寄せ、二人で暮らしていた。サイパン島からテニアン島に移り、自由移民として〈儲けられる仕事なら何でもやった〉という。米軍が上陸してくると聞いて荷車を牛に引かせて山に逃げた与那覇さんは、砲弾の破片でかかとを負傷する。

 〈ケガをして三日ぐらいたってから、傷口にウジがわいた。ウジが傷口をつつくので、痛くて仕方がなかった。
 水がないというのはとても苦しい。向こうは湧き水が少なくて、どこの家でもタンクに溜めた水で生活していたぐらいだから、飲み水にはとても苦労した。一つ、二つはワク(湧泉)があったが、攻撃が激しくて水も簡単には汲みに行けなかった。しまいには、潮水や小便まで飲もうとしたが、苦くて飲めなかった。雨降りの後は、木の切り株に溜まった水を飲んだりしたが、水を汲む道具もなかった。妻が布に浸してきてくれたので、それを絞るようにしながら水をすすった。
 私たちが隠れていたら、アメリカ兵がやって来た。片っ端から山の中を探して、避難民を山から連れ出していた。
 避難中は、声を立てたら弾が飛んでくると言って、自分の子供を海に捨てる人もいたようだった。私は子供を突き落とす現場を直接見たことはないが、子供の遺骸がいくつも、海に浮かんでいた。手榴弾を持っている人がいたり、毒で家族を殺す人がいたり、いろいろなことがあった。内地の人だったが、家族を一人ひとり刃物で殺したが、本人は死にきれずに生き残った人もいた。それぞれ自分のことで精いっぱいだから、現場を見には行かなかったが、私たちの近くにもそんな人がいた。
 敵に殺されるよりはと思って、私も自分で首を切ろうとしたが、とてもできなかった。それからは自分で死のうとは考えなかった。自分では死ねないものだから、敵に殺されるなら、それでもいいと後では開き直った〉(474ページ)。

 その後、与那覇さん夫婦は米軍に見つかる。米兵たちは鉄砲を担架代わりにして与那覇さんを陣地に運び、軍医がかかとの傷を治療してくれる。与那覇さんは病院に移され、ナベさんは収容所で暮らすことになるが、傷口が立派にくっついて、〈「これは元の形になるな」と私は嬉しくなった〉(475ページ)と語っている。 

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