今帰仁開拓団跡地に植えられていた大豆の丈は50センチほどだった。Tさんは、開拓団当時は子どもの背丈が隠れるほど高く伸びた、65年の間に土地がやせたのかもしれない、と話していた。前田正敏著『青雲開拓団誌』にも以下の記述がある。
〈大豆は沖縄では草丈二十~三十センチぐらいなのに、こちらの大豆は一メートル以上に大きく一株から二合ほども実っていた〉(63ページ)
大豆の丈にこだわるのは、以前に伯母から聞いた話があるからだ。その話を基に『文学界』(2006年5月号・文藝春秋社)に書いた「沖縄戦の記憶」というエッセーがあるので、以下に引用したい。引用に際し一部手直しをした。
昨年の秋、伯母(父の姉)から沖縄戦のときのことを聞く機会があった。私が生まれ育った沖縄島北部の今帰仁村での話である。
一九四四年(昭和十九年)の秋、村に日本軍が入ってきた。太平洋の島々で日本軍は敗北を重ね、米軍の沖縄上陸の気配が高まっていた。それに備えるため沖縄各地に日本軍の配備が進められ、地域の住民は飛行場建設や陣地構築にかり出されていく。当時十七歳だった伯母は、友軍(日本軍)が使ってい国民学校で炊事の仕事に動員された。
日本軍の配備とともに村には慰安所が設けられた。伯母の家族、つまり私の祖父母らが住んでいた家と道をはさんだ斜め向かいに宮城医院という病院があった。医師は軍医として動員され、他の家族は九州に疎開していたので、その病院の建物が慰安所として利用されたという。
そこで日本兵の相手をさせられたのは、村の旅館で働いていた沖縄の女性達だった。その頃の沖縄では、貧しい家の子どもが売られるのは珍しいことではなかった。男の子にとって、「糸満売りされる」(糸満の漁師に売られる)という言葉が一番の脅し文句だったという話は、私が子どもの頃(一九六○年代)でもまだ耳にできたほどだ。女性は辻などの遊郭に売られた人も多い。村の旅館で働いていた女性達も、そうやって島の中南部から幼い頃に売られてきた女性が多かったという。
年が明けて一九四五年(昭和二十年)の四月一日に米軍は沖縄島に上陸する。三月下旬からは日本軍を叩くために空襲や艦砲射撃が連日行われ、祖父母の家も空襲で焼けてしまう。米軍の攻撃に追われて、伯母は家族と一緒に今帰仁の山野を逃げ回る。沖縄島北部は、圧倒的な火力の差によって、四月の中旬には米軍に制圧された。壕に隠れているところを米軍に見つかり、捕まった伯母や祖父母らは、収容所に入れられるまでの間、親戚の家で寝泊まりしていた。その隣の家に旅館の女性達がいたという。
慰安婦として日本兵の相手をさせられていた女性達は、今度はその家で米兵の相手をさせられていた。村の女性が米兵に強姦されることを恐れた村の顔役達の一部が、今度は米軍用の慰安所を設けていたのだ。
伯母が住んでいた家には、その慰安所の食料が置かれていた。女性達が交代でそれを取りに来るとき、伯母は顔見知りの女性と短い会話を交わすことがあったという。毎日十数名も体の大きな米兵の相手をさせられて「つらい」と話していたという。
戦争中、村に日本軍の慰安所があり、そこの女性達は日本軍が敗走して山中に逃げ込んだあと、今度は米兵の相手をさせられた。この話を私は祖父や父から聞いていて、その記憶をもとに「群蝶の木」という小説を書いた。今回、伯母から話を聞き、新たにいくつかの事実を知った。伯母や私の祖父母は、偶然にも日本軍相手と米軍相手の二カ所の慰安所の近くで生活していた。そのためにこういうことがあったのを知っていたのだろう。
慰安所については、当事者が自ら語ることが少なく、近くに住んでいなければ村の人でも知らない人が多い。ヤマトゥの人達の中には、慰安所といえば中国や朝鮮半島、南洋諸島でのことであり、沖縄にもあったという事実さえ知らない人が多いのではないか。
伯母からはまた、次のような話も聞いた。伯母が住んでいた親戚の家の押入に一人の男が隠れていた。同じ村の男で日本軍にスパイと疑われ、見つかると殺されるので祖父がかくまっていたという。
米軍の制圧後、山中で遊撃戦を行うと称して日本軍は、昼間は山中に隠れ、夜になって米軍がいなくなると集落に降りてきた。昼間米軍と接触した者を日本軍に知らせる協力者が住民の中にいた。そこから得た情報をもとに日本軍が住民にスパイの嫌疑をかけ、虐殺する事件が沖縄各地で起こっている。それが日本軍に対する恐怖と反発を生み出した。米軍よりも敗残兵となった日本軍の方が怖かったという話は、私も祖父母から何度も聞かされた。
親戚の家に隠れていた男は、幸いに日本軍に見つかることなくすんだ。その男が、押入の中で思いだしたこととして伯母に話したのは、中国大陸での自らの体験だった。
男は日本軍の一兵卒として中国大陸で戦っていた。ある日、女と子どもばかり二十名ほどが潜んでいる壕を発見したという。焚きつけにするためだろう、村の家には収穫後の大豆の茎や葉を乾燥させたのがあった。日本兵達はそれを壕の入り口に積み上げると火を放ち、中にいた女や子ども達を燻り殺したという。
押入の中に隠れているとき、壕の中で恐怖にすくんでいたであろう女や子ども達のことを男は思いだした。同じように日本軍に命を狙われて隠れる身となって、男は自分がやった行為の意味を、殺される側の立場から理解したらしい。あの時は酷いことをした、と伯母に話していたという。
昨年は「戦後六十年」ということで、沖縄の新聞やテレビでは、連日戦争体験者の証言を伝えたり、沖縄戦を検証する特集やシリーズを組んでいた。それらを読んだり見たりして沖縄戦について考える一方で、語られることもなければ記録されることもなく、体験者の死とともに消えていった膨大な戦争の記憶があることを思わずにおられなかった。
すでに亡い祖父母や親戚など身近にいた人達から、沖縄戦の体験や彼らが生きてきた歴史をきちんと聴いておかなかったことへの後悔が私の胸にはある。せめて自分の村のお年寄りからだけでも沖縄戦について聴き取りをしたいと思うのだが、目の前の課題に追われて実行しないままの現状が情けない思いも抱いている。
この数年、沖縄戦に対する歴史修正主義の動きが強まっている。特に日本軍の「名誉回復」と称して、日本軍による住民虐殺や「集団自決」の命令・強制を隠蔽しようという動きが目立つ。ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊の学生達の死を、殉国美談に仕立て上げる作為もくり返されている。私の父も鉄血勤皇隊として十四歳で戦場に動員され、銃を手に米軍と戦っているが、自ら語ってくれたその体験は、およそ殉国美談とはかけ離れたものだ。
そういう歴史修正主義の横行を批判するためにも、沖縄戦について知り、体験者の話を聞かなければと思う。伯母の話を見ても、まだ明らかにされていない沖縄戦の実相がある。沖縄の慰安所には朝鮮半島から連れてこられた女性達も数多くいた。その人達のことも含めて、実態調査がもっとなされなければならない。沖縄人の被害の問題だけでなく、加害の問題についても、もっと掘り下げる必要がある。
沖縄戦について調べ、考えることは、私にとってたんに過去を振り返るということではない。現在、世界的規模で進められている米軍「再編」によって、全国の米軍基地や自衛隊基地が、対中国や対テロ戦争を目的として再編・強化されつつある。その中で日米両政府は沖縄に対して、あたかも基地の「負担軽減」を図るかのようなポーズを取りながら、実際には「抑止力維持」の名の下に米軍の基地機能を効率化し、さらに「南西方面重視」を打ち出した自衛隊の強化も進めようとしている。
沖縄は六十一年前も今も一貫して日本の「捨て石」なのだ。その「捨て石」の位置から脱するためにも、沖縄戦を今の問題として考えつづけねばならない。日米安保体制の必要をいいながら、圧倒的多数の日本人はその負担を自ら担うことはしないし、いざ有事=戦争となれば、米軍も自衛隊も守るのは領土であり、沖縄県民は「本土防衛」のために切り捨てられるだろう。米軍と自衛隊が自分達を守ってくれるという幻想は、しょせん「本土」に住む日本人向けのものでしかない。
以上、引用終わり。
壕の中の女性や子どもたちを燻り殺した日本軍の一員だった村の男は、中国の大豆は丈が高くて1メートル以上あった、と伯母に話していたという。男が非戦闘員の住民を虐殺した場所がどこかは分からないが、今帰仁開拓団跡地に植えられた大豆を眺め、昔の大豆は丈が高かった、というTさんの話を聞きながら、伯母の話が思い出された。日中戦争を戦った沖縄人も日本軍の一員として、このような住民虐殺を行っていたのである。そのことを忘れてはならない。
〈大豆は沖縄では草丈二十~三十センチぐらいなのに、こちらの大豆は一メートル以上に大きく一株から二合ほども実っていた〉(63ページ)
大豆の丈にこだわるのは、以前に伯母から聞いた話があるからだ。その話を基に『文学界』(2006年5月号・文藝春秋社)に書いた「沖縄戦の記憶」というエッセーがあるので、以下に引用したい。引用に際し一部手直しをした。
昨年の秋、伯母(父の姉)から沖縄戦のときのことを聞く機会があった。私が生まれ育った沖縄島北部の今帰仁村での話である。
一九四四年(昭和十九年)の秋、村に日本軍が入ってきた。太平洋の島々で日本軍は敗北を重ね、米軍の沖縄上陸の気配が高まっていた。それに備えるため沖縄各地に日本軍の配備が進められ、地域の住民は飛行場建設や陣地構築にかり出されていく。当時十七歳だった伯母は、友軍(日本軍)が使ってい国民学校で炊事の仕事に動員された。
日本軍の配備とともに村には慰安所が設けられた。伯母の家族、つまり私の祖父母らが住んでいた家と道をはさんだ斜め向かいに宮城医院という病院があった。医師は軍医として動員され、他の家族は九州に疎開していたので、その病院の建物が慰安所として利用されたという。
そこで日本兵の相手をさせられたのは、村の旅館で働いていた沖縄の女性達だった。その頃の沖縄では、貧しい家の子どもが売られるのは珍しいことではなかった。男の子にとって、「糸満売りされる」(糸満の漁師に売られる)という言葉が一番の脅し文句だったという話は、私が子どもの頃(一九六○年代)でもまだ耳にできたほどだ。女性は辻などの遊郭に売られた人も多い。村の旅館で働いていた女性達も、そうやって島の中南部から幼い頃に売られてきた女性が多かったという。
年が明けて一九四五年(昭和二十年)の四月一日に米軍は沖縄島に上陸する。三月下旬からは日本軍を叩くために空襲や艦砲射撃が連日行われ、祖父母の家も空襲で焼けてしまう。米軍の攻撃に追われて、伯母は家族と一緒に今帰仁の山野を逃げ回る。沖縄島北部は、圧倒的な火力の差によって、四月の中旬には米軍に制圧された。壕に隠れているところを米軍に見つかり、捕まった伯母や祖父母らは、収容所に入れられるまでの間、親戚の家で寝泊まりしていた。その隣の家に旅館の女性達がいたという。
慰安婦として日本兵の相手をさせられていた女性達は、今度はその家で米兵の相手をさせられていた。村の女性が米兵に強姦されることを恐れた村の顔役達の一部が、今度は米軍用の慰安所を設けていたのだ。
伯母が住んでいた家には、その慰安所の食料が置かれていた。女性達が交代でそれを取りに来るとき、伯母は顔見知りの女性と短い会話を交わすことがあったという。毎日十数名も体の大きな米兵の相手をさせられて「つらい」と話していたという。
戦争中、村に日本軍の慰安所があり、そこの女性達は日本軍が敗走して山中に逃げ込んだあと、今度は米兵の相手をさせられた。この話を私は祖父や父から聞いていて、その記憶をもとに「群蝶の木」という小説を書いた。今回、伯母から話を聞き、新たにいくつかの事実を知った。伯母や私の祖父母は、偶然にも日本軍相手と米軍相手の二カ所の慰安所の近くで生活していた。そのためにこういうことがあったのを知っていたのだろう。
慰安所については、当事者が自ら語ることが少なく、近くに住んでいなければ村の人でも知らない人が多い。ヤマトゥの人達の中には、慰安所といえば中国や朝鮮半島、南洋諸島でのことであり、沖縄にもあったという事実さえ知らない人が多いのではないか。
伯母からはまた、次のような話も聞いた。伯母が住んでいた親戚の家の押入に一人の男が隠れていた。同じ村の男で日本軍にスパイと疑われ、見つかると殺されるので祖父がかくまっていたという。
米軍の制圧後、山中で遊撃戦を行うと称して日本軍は、昼間は山中に隠れ、夜になって米軍がいなくなると集落に降りてきた。昼間米軍と接触した者を日本軍に知らせる協力者が住民の中にいた。そこから得た情報をもとに日本軍が住民にスパイの嫌疑をかけ、虐殺する事件が沖縄各地で起こっている。それが日本軍に対する恐怖と反発を生み出した。米軍よりも敗残兵となった日本軍の方が怖かったという話は、私も祖父母から何度も聞かされた。
親戚の家に隠れていた男は、幸いに日本軍に見つかることなくすんだ。その男が、押入の中で思いだしたこととして伯母に話したのは、中国大陸での自らの体験だった。
男は日本軍の一兵卒として中国大陸で戦っていた。ある日、女と子どもばかり二十名ほどが潜んでいる壕を発見したという。焚きつけにするためだろう、村の家には収穫後の大豆の茎や葉を乾燥させたのがあった。日本兵達はそれを壕の入り口に積み上げると火を放ち、中にいた女や子ども達を燻り殺したという。
押入の中に隠れているとき、壕の中で恐怖にすくんでいたであろう女や子ども達のことを男は思いだした。同じように日本軍に命を狙われて隠れる身となって、男は自分がやった行為の意味を、殺される側の立場から理解したらしい。あの時は酷いことをした、と伯母に話していたという。
昨年は「戦後六十年」ということで、沖縄の新聞やテレビでは、連日戦争体験者の証言を伝えたり、沖縄戦を検証する特集やシリーズを組んでいた。それらを読んだり見たりして沖縄戦について考える一方で、語られることもなければ記録されることもなく、体験者の死とともに消えていった膨大な戦争の記憶があることを思わずにおられなかった。
すでに亡い祖父母や親戚など身近にいた人達から、沖縄戦の体験や彼らが生きてきた歴史をきちんと聴いておかなかったことへの後悔が私の胸にはある。せめて自分の村のお年寄りからだけでも沖縄戦について聴き取りをしたいと思うのだが、目の前の課題に追われて実行しないままの現状が情けない思いも抱いている。
この数年、沖縄戦に対する歴史修正主義の動きが強まっている。特に日本軍の「名誉回復」と称して、日本軍による住民虐殺や「集団自決」の命令・強制を隠蔽しようという動きが目立つ。ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊の学生達の死を、殉国美談に仕立て上げる作為もくり返されている。私の父も鉄血勤皇隊として十四歳で戦場に動員され、銃を手に米軍と戦っているが、自ら語ってくれたその体験は、およそ殉国美談とはかけ離れたものだ。
そういう歴史修正主義の横行を批判するためにも、沖縄戦について知り、体験者の話を聞かなければと思う。伯母の話を見ても、まだ明らかにされていない沖縄戦の実相がある。沖縄の慰安所には朝鮮半島から連れてこられた女性達も数多くいた。その人達のことも含めて、実態調査がもっとなされなければならない。沖縄人の被害の問題だけでなく、加害の問題についても、もっと掘り下げる必要がある。
沖縄戦について調べ、考えることは、私にとってたんに過去を振り返るということではない。現在、世界的規模で進められている米軍「再編」によって、全国の米軍基地や自衛隊基地が、対中国や対テロ戦争を目的として再編・強化されつつある。その中で日米両政府は沖縄に対して、あたかも基地の「負担軽減」を図るかのようなポーズを取りながら、実際には「抑止力維持」の名の下に米軍の基地機能を効率化し、さらに「南西方面重視」を打ち出した自衛隊の強化も進めようとしている。
沖縄は六十一年前も今も一貫して日本の「捨て石」なのだ。その「捨て石」の位置から脱するためにも、沖縄戦を今の問題として考えつづけねばならない。日米安保体制の必要をいいながら、圧倒的多数の日本人はその負担を自ら担うことはしないし、いざ有事=戦争となれば、米軍も自衛隊も守るのは領土であり、沖縄県民は「本土防衛」のために切り捨てられるだろう。米軍と自衛隊が自分達を守ってくれるという幻想は、しょせん「本土」に住む日本人向けのものでしかない。
以上、引用終わり。
壕の中の女性や子どもたちを燻り殺した日本軍の一員だった村の男は、中国の大豆は丈が高くて1メートル以上あった、と伯母に話していたという。男が非戦闘員の住民を虐殺した場所がどこかは分からないが、今帰仁開拓団跡地に植えられた大豆を眺め、昔の大豆は丈が高かった、というTさんの話を聞きながら、伯母の話が思い出された。日中戦争を戦った沖縄人も日本軍の一員として、このような住民虐殺を行っていたのである。そのことを忘れてはならない。
母がみた光景と似たフイルムが先日テレビで放映されていた。死体を足で蹴り、拳銃を打ち込む米兵の姿が映っていた。また、米兵に捕らえられた夫婦が映像に残っていた。この夫婦は日本兵に後にスパイとして殺されたという。
母は、テレビを見ず、奥の部屋にいった。記憶は多分消えずにいつもあると思う。時々思い出したことを話す。どのようにこれを私が引き継ぐのかと思う。
沖縄にはこの記憶がひとりひとりにあるはず、と目取真さんの文を読んで思いました。