海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

74年前の今日、八重岳で起こっていたこと

2019-04-16 23:34:51 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 16日は本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑や国頭支隊の本部壕・野戦病院跡に花やお菓子、水、酒などを供えて御香(うこー)を上げてきた。74年前の4月16日、本部半島の八重岳を拠点にしていた宇土部隊は米軍の猛攻を受け、遊撃戦の展開を理由にしながら名護の多野岳に敗走を始める。

 この日はまた、伊江島に米軍が上陸した日でもある。本部半島の本格的な戦闘は終盤となり、八重岳やその周辺では日米両軍の兵士と防衛隊、学徒隊、護郷隊、看護にあたったなごらん学徒隊、住民が戦闘のなか命を失い、傷ついていった。

 私の父も三中鉄血勤皇隊の一員として八重岳の戦闘に参加していた。74年前のことを想いながら森を眺め、犠牲者の名前が記された碑に手を合わせた。

 晴れた日は森の向こうに海と伊江島が望めるのだが、今日は雨に煙っていた。

 国頭支隊の本部壕・野戦病院跡は草が茂り、大木が倒れて壕がある奥には行けなかった。敗走する部隊に重症患者を運んでいく余裕はない。歩けない患者たちは手榴弾を渡され、この地で自決するしかなかった。当時のことを看護にあたった女子学徒が証言している。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-737870.html

 八重岳の頂上付近も雨に煙っていた。74年前、父たちはこの森を抜け、勝山の方に降りて多野岳に向かったと話していた。米軍の攻撃に追われながら、この山と谷を越えて歩いて行ったのだ。負傷者にはどれだけ過酷な道のりであったろうか。

 八重岳はいまでは桜の名所となっているが、やんばるの戦争の遺跡も残っている。ぜひ足を運んで沖縄戦の歴史を学んでほしい。その気になればいくらでも証言を読むことができる。

 敗走の過程で日本軍は住民虐殺も行っている。名護から本部に向かう途中、伊豆味駐在所の近くに照屋忠英氏の碑が立っている。74年前の4月17日、照屋氏はスパイの疑いをかけられて日本軍に虐殺された。下の写真の坂道で暴行を受けている場面を目撃した証言が残っている。

 名護市発行の『語り継ぐ戦争 市民の戦時・戦後体験記録第1集』次の証言が載っている。沖縄戦当時44歳で名護町の兵事主任をしていた岸本金光氏によるものだ。

〈私は、昭和二十年五月家族と一緒に喜知留川の避難小屋にいた時、突然運天港に駐屯待機している海軍特攻魚雷隊長・白石大尉以下将校五、六名が、喜知留川で洗濯している私の従姉・岸本カナに、厚養館と岸本旅館の避難小屋に案内してくれと来た。ご飯もとっていないので、何でも良いから食わしてくれといったので、準備してあった夕食を、すっかり彼等にくれた。おまけに泡盛も飲ませると、皆よろこんで満足そうであった。

 丁度そこに遊びに来ていた名護校の宮里国本先生と私等家族がいる前で、白石大尉が話すには、昨日照屋忠英校長を八重岳に行く道路で殺したという。国本先生、私の妻と三人で、あんな立派な校長先生で、国頭郡教職員会長の要職にあり、住民から尊敬されており、しかもご子息長男・二男は現在出征中である。どんなことがあって殺したのかと尋ねたら、スパイの疑いで、充分な証拠も得ているといった。次は、今帰仁の長田盛徳郵便局長と名護町屋部国民学校長・上原源栄を殺す番になっていると話していた。

 日本の兵隊たちは、沖縄人にスパイの汚名をかぶせ、無垢な住民が数多く虐殺されている。私が知っている今帰仁村の兵事主任・謝花喜睦が、ある日の夕方部落常会中、白石大尉に呼び出されて連行され、近くの畑で虐殺されたと聞いた。〉(名護市発行『語りつぐ戦争 市民の戦時・戦後体験記録第1集』92ページ)。

 軍隊は住民を守らない。沖縄人がけっして忘れてはならない沖縄戦の教訓だ。いざ戦争となれば自衛隊も米軍も沖縄の住民を守りはしない。辺野古新基地建設も沖縄の住民を守るために造られるのではない。ただ、米軍と自衛隊、軍需産業、基地建設の利権に群がる企業、政治家たちの利益のために造られるだけであり、住民はその犠牲になるだけだ。

 


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