前回の形容詞に続いて動詞を取り上げる。外国人日本語学習者用の日本語文法もいまだ国文法の呪縛から解き放されていない。日本語動詞の活用(語尾変化)は -a -i -e の三種類しかない。国文法の「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」の活用表は無用である。
ーある外国人用日本語文法の動詞ー
動詞は3種類に分類されている。
1)国文法の五段活用動詞・・読む、書く、取る、走る
2)国文法の上一段、下一段活用動詞・・見る、捨てる、着る、食べる
3)国文法の不規則動詞・・する、来る
1)の五段動詞はローマ字で分解すると語尾が母音 U「う」で終わるので(例、yom-u 読む )、 U「う」動詞、あるいは子音幹動詞( yom-u の語幹 yom が子音なので )と称されている。
この説明は日本語の音声構造を全く理解していない。日本語は子音プラス母音の開音節語である。yom-u (読む) などと分解すること自体に無理がある。しいて語幹を決めるなら yo-mu とした方がずっと分かりやすい。語尾変化するのは「読む」の「む」なのであるから。私は「読む」や「書く」に語幹を設定する必要はないと思っている。日本語動詞には語幹のない動詞とある動詞がある。後述する「食べる」や「捨てる」は語幹がある。この場合「食べ」「捨て」が語幹であり名詞形である。
2)の上一段、下一段動詞はローマ字で分解すると語尾が RU「る」で終わるので(例、見る、食べる)、RU「る」動詞、あるいは mi-ru とか tabe-ru のように語幹部分が mi、tabe と母音 i と e で終わっているので母音幹動詞と称されている。
何よりも、国文法の活用表「未然、連用・・・」をそのまま使っている。まさに国文法の呪縛である。
3)の不規則動詞「する」「来る」は国文法に準じている
ー私(小松格)の日本語文法論ー
(1)動詞の基本形は連体形
世界の多くの言語は動詞に基本形を設定している。英語の go ドイツ語の gehen などがそれである。日本語の場合は「行く」「読む」「見る」などがそれである。これらは実は連体形である。
動詞の基本形などというのは、後世の人が文法体系を構築するとき決めたものであり、万葉人や王朝時代の紫式部や清少納言がそのような認識を持っていたわけではない。昔の人々が無意識的に使っていた動詞の連体形がそのまま基本形として設定されている。つまり、日本語動詞の基本形を知ると同時に、連体形と終止形を憶えたことになる。(連体形と終止形は同じもの、分かりやすく言えば、連体形で文を終止させることが出来るということ。この用法はアルタイ語族ひとつトルコ系のウズベク語に同じ)
上記のことから、国文法の活用表から連体形と終止形は除くことが可能であり、日本語動詞の活用は、未然、連用、仮定の3種類に落ち着く。命令形は別の項目で取り上げるべきである。英語でも基本形の go を命令形などとは呼ばない。たまたま両者が一致しているだけである。日本語で基本形が連体形と同じものであるように。
(2)動詞の連用形とは名詞形である。
先に同ブログで述べたように日本語動詞の根幹を成しているのは国文法でいう連用形、実際は名詞形である。現在の国文法や日本語文法では、動詞の連用形は名詞としても使われると説明されている。これは逆で、名詞形に様々な接尾語が付いて文を作ってゆくのである。連用形という言葉自体あいまいで日本人にもよく分からない。
五段動詞の場合、「行き」「読み」「話し」がそれであり、これに助動詞、名詞、助詞が付き文を作ってゆく。「行きます」「読みたい」「話し方」「読みが深い」の如く。また、「行き当たる」のように動詞にも付く。
上一段・下一段動詞の場合、「見る」の「見(み)」「着る」の「着(き)」「食べる」の「食べ」がそれである。「花見」「着物」「晴れ着」「食べたい」「食べ物」の如く。
日常、「映画を見に行く」とか「酒を飲みに行く」と無意識的に言うが、名詞形「見(み)」「飲み」に助詞「に」が付いたものであり、先の形容詞のところで述べた「学校に行く」「平和になる」と同じ用法であり、日本語は整然とした法則に従って構成されている。
不規則動詞「する」「来る」の場合、名詞形は「し」と「来(き)」であり、「仕事」の語源も「し・こと」から来ていることが判る。つまり、日本語動詞の中には名詞語幹を持つ動詞(上一段・下一段動詞)が存在するのである。例として 「おでき」(腫物)は「お出来」であり、「出る」と「来る」の名詞形がくっついたものである。「出来る」は「出来」を動詞化したもの。(例、出来不出来、出来具合)
(3)日本語動詞の活用は次のようになる。
1)五段動詞(第1型)・・基本形(連体形、終止形も兼ねる)「読む」
(ア)読ま・・発展形(国文法の未然形)「読まない」「読ませる」「読もう」
(イ)読み・・名詞形(国文法の連用形)「読み物」「読み手」「読みが深い」
(ウ)読め・・完了系(国文法の仮定形)「読めば」「読めた」
註1. 未然形という用語は誤解を招く。「読まれる」「読ませた」を説明できない。
註2. 呼び掛け「読もう」は発展形「読ま・う」から音変化したと説明すればよい。
2)上一段・下一段動詞(第2型)・・基本形「見る」「捨てる」「上げる」(これらは連体形かつ終止形)
この場合語幹が名詞語幹なので語尾の「る」だけが「れ」と音変化して静止・完了形をつくる。(例、見れば、上げれば)
註1.2型の動詞は発展・名詞形は同じであり、仮定形をつくる時「れば」となる。
註2.仮定形も「捨てたら」のように「たら」(助動詞「たら」の発展形)を使う場合が多い。
3)不規則動詞の「する」「来る」(連体・終止形)も上記の用法と同じ。
(4)五段動詞(1型)と上一段・下一段動詞(2型)の見分け方
1型の「切る」と2型の「着る」は共に基本形語尾は「る」で終わる。この両者の違いはどこにあるのか。それは簡単明瞭、名詞形にある。「切る」は「切り」(例、大根切り、切り札)、「着る」のそれは「着(き)」である(例、着物、晴れ着)。「晴れ着」の「晴れ」も2型動詞「晴れる」の名詞語幹であり、二つの名詞形がくっついたものである。「曇りのち晴れ」は「曇る」の名詞形「曇り」と「晴れ」を使っている。
一般の日本語文法書のように「読む」を yom-u と分解して、日本語の音声上ありもしない語幹 yom など設定しなくても、1型動詞の名詞形はすべて五十音図の「イ列段」を取ると説明すれば学習者はスンナリ理解できると思う。
2型動詞の名詞形もこれまた簡単に導きだせる。「見る」の「見(み)」、「晴れる」の「晴れ」、「捨てる」の「捨て」。これを見れば一目瞭然、2型動詞は語尾の「る」を取ったものが名詞語幹である。つまり、2型は名詞語幹を持つ動詞であるとも言える。そうして、この1型動詞の名詞形の中には完全に独立した名詞として定着しているものもある。(例、話し、遊び、休み、楽しみ、おにぎり)
2型動詞語尾「る」は名詞を動詞化する接尾語であり、かつまた連体形を作る語尾でもある。この文法要素はすでに多くの先人が指摘しているように日本語アルタイ系説の根拠の一つでもある。-r でもって動詞の連体形を作るのはトルコ系諸語や朝鮮語にある。朝鮮語で「行く道」は ka-r kil と言う。( ka 行く、kil 道)
トルコ系のウズベク語では、名詞を動詞化する接尾辞として -la があり、動詞の連体形を作る接尾辞として -r がある。そうして、連体形で文を終止させることが出来るのは日本語とまったく同じである。つまり、日本語の動詞語尾「る」型はアルタイ諸言語のこの二つの要素を併せ持っていると言える。(日本語には R と Ⅼ の区別がないからである) だからこそ、日本語動詞基本形は連体形でもあるのである。
不規則動詞「する」と「来る」は別に憶えさせればよい。それでも「する」の名詞形は「し」、「来る」の名詞形は「き(来)」であり、他の動詞と同じく、「イ列段」の法則はきちんと守られている。
(5)動詞連体形の名詞機能
動詞連体形は名詞機能も持っている。(文法としての名詞機能と「山」とか「川」などの普通名詞とは違うことは留意しておく必要がある)
「取るに足りない」とか「逃げるが勝ち」などがそれであり、よく使われている言葉である。これは形容詞でも「古きを訪ねて、新しきを知る」とか「水、低きに流れる」と言うように、「古き(こと)」「低き(所)」という意味を含めていると考えられる。同じく動詞でも「取る(こと)」「逃げる(こと)」との意味を含めて、名詞機能を与えていると考えられる。人間の使う言語というものは理科系の諸現象とは違い、柔軟性を持っているものである。
このように日本語は整然とした法則をもっているようで例外もある。しかし、それにはそれなりの理由がある。それは可能動詞とされている「読める」「書ける」などである。
2型の「掛ける」の場合は名詞語幹は「掛け」で「掛けうどん」「架け橋」とか「衣紋掛け」と問題はないが、「書ける」の「書け」は名詞語幹ではない。その理由は古語の「已然形」(完了形)が影響していると考えられる。現代語では「仮定形」とされているが、古語では「書け・り」と言って「書き終えた」の意味であった。
また、「歌、詠める人」は現代語では「歌を詠むことが出来る人」の意味であるが、古語では可能の意味ではなく「詠める」の「る」は名詞を修飾する連体形の「る」であり、英語の現在完了に近い用法である。例えば、「花、咲ける野にい出て」は「今、花が咲いている野に出て」の意味になる。このように、古語では「詠む人」「詠み人」「詠める人」で明確な区別をしていたのである。その後、已然形が失われてゆく過程で、可能の意味が生まれてきたと思われる。
つまり、「書け」は古文では1型五段動詞の已然形であり、現代語の「書けた」「読めた」も完了の意味も保持しているのである。後代に可能の意味が加わったため可能動詞と呼ばれているが、本来の完了の意味は失っていない。分かりやすく言うと、現代語の「仮定形」のなかに「已然形」(完了形)が隠れているのである。「読めた」「書けた」は意味上は可能形でも、文法形態論的には「読めリ」「書けり」と同じ完了の意味も有している。古語の「り」が「た」に置き換えられため起こった結果である。「読める」とか「書ける」「行ける」という単語は日本語の新参者であり、日本語動詞の法則外にある。
<追記>
NHKの語学番組で著名な国語学者が「ハメをはずす」の語源について、馬の口に噛ませる馬具の一種「ハミ」が「ハメ」に音変化して出来た言葉だと言っていた。啞然呆然、「ハミ」は動詞「はむ」の名詞形(国文法の連用形)である。万葉集の山上憶良の有名な歌「瓜はめば子供思ほゆ・・・」にも出てくるあの古語「 はむ・・英語の bite 」である。私がこれまで述べてきたように五段動詞の名詞形(連用形)は五十音図イ列段にきちんと音変化している。例外など私は聞いたことがない。
「ハメをはずす」の語源は「はめる」「はめ込む」の名詞語幹「はめ」であり、お寺の本堂の回廊に敷き詰めてある板を「はめ板」と言うように、「ハメをはずす」とは「タガがゆるむ」とよく似た言葉で、規律や節度がなくなる無礼講のことである。
誰が言ったか知らないが、日本語は文法のない言語ではなく、きちんとした論理と法則に基いて成り立っている。これを我々日本人でさえ理解できないほど難解なシロモノにしたのは他でもない国文法である。この呪縛から開放されない限り、日本語に未来はない。
イ段・エ段で終わる一段動詞。
子音で終わる五段動詞。
そして、「ハ音で終わる四段動詞→ア・オ・ウ段で終わる五段動詞」と変化した「五段活用ワ行」の動詞です。
「ない/ぬ/ず/ん」に続く形を指標にすれば、見分けがつきます。ただし、「言う/云う/謂う」「行く/往く/逝く」は不規則活用、「乞う/請う」「問う」は歴史的な活用をそのまま保存、とかいった手当ては必要ですが。