小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

龍馬の「新政府綱領八策」もねつ造 !

2017年03月17日 | Weblog

 

  「新政府綱領八策」 (原本)

 

 龍馬伝説では、「船中八策」 ➔「新政府綱領八策」➔「五箇条の御誓文」となって、龍馬の精神は明治維新に生かされたことになっている。「船中八策」と「新政府綱領八策」の内容は大体同じなので、前述したように「船中八策」がねつ造なら「新政府綱領八策」もねつ造ということになる。今、それを明らかにする。

 ―明らかに明治以後の用語が使われている―

その1)「顧問」について

「船中八策」の原本はなく写しと言われているが、(それも確実な写しではなく単なる言い伝え)その二条に「天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ」とある。この「顧問」が問題である。この「顧問」は白川静の『字通』によると『後漢書』や『宋史』に用例があり「(皇帝が臣下に)顧(かえり)み問う、相談する」ことであり、この場合動詞なのである。明治以後に書かれた幕末史などの文献で「幕府はフランスから軍事顧問団を招き・・」などとあるが、幕末に幕府はすでに「顧問」という言葉を現代風に使っていたのだろうか? 前田勇編『江戸語大辞典』(講談社)にも「顧問」はない。

 この「顧問」の正式使用は慶応四年(明治元年)ときの太政官政府の設置した「総裁局・顧問」が最初ではないのか。先に、総裁、議定、参与を置いたが、その参与の中から木戸孝允、小松帯刀、大久保利通などの実力者をこの「顧問」に任命した(『小松帯刀』人物叢書・吉川弘文館)。総裁は有栖川宮熾仁親王なので、漢語の意味を忠実に守っている。実は、「顧問」の用例は王朝時代の文献、『権記』(1001年)『愚管抄』(1220年)『古今著聞集』(1254年)などにあり、『愚管抄』には「右大臣兼実は天下の事、顧問に預かりて・・」とあり、天皇や上皇を補佐する意味である。明治新政府は当初、王政復古、つまり平安の昔に戻ることを表明していたので、この「総裁局・顧問」は王朝時代の文献から引っぱり出してきたのであろう。

 その後、明治21年に「枢密院・顧問官」の制度ができた。「顧問官」とは天皇の補佐・相談役であり、現役を退いた元勲などが任命されていた。その後、「顧問弁護士」とか「運動部の顧問」などと大衆化して現代日本語に定着している。この「顧問」を現代風の意味で最初に使ったのはなんと福沢諭吉である。自著『文明論之概略』(明治8年)の中で「乃ち外国人を雇ひ、これを顧問に備へて・・」とある。「新政府綱領八策」の一条にも「天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ」とある。龍馬は諭吉より9年もはやく、幕末にすでに「顧問」を現代風に使っていたことになる。

 なお、現代中国でもこの「顧問」を日本から逆輸入して「スポーツ顧問」などのように使っている。ちなみに、龍馬のこの二つの「八策」の元となったと言われている横井小楠の「国是七条」には「外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ」とあり「顧問」はない。龍馬の「八策」の「顧問」は福沢諭吉の『文明論之概略』からのパクリではないのか・・。

その2)「大典」について

船中八策」の五条に「新ニ無窮の大典ヲ撰定スベキ事」とあり「大典」とは「大典法」の略、つまり、今日でいう「憲法」や「法律」のことである。『字通』によると漢字「典」とは書物を積み上げた状態から生まれたとある。そこから、「典籍」「典法」「仏典」などの言葉が出来た。中国では「大典」は『永楽大典』(1403年)のように百科辞典(重要な典籍や記録類)の意味に使われていた。つまり、「大典籍」の略。この龍馬の「大典」は「法典」と同じく明治以後の用語である(例、ハムラビ法典)。どの「国語辞典」や「歴史辞典」を見ても、「大典」は古代律令制度における太宰府の官職名「大典」としてあるだけで、次に出て来るのは明治時代である。

 大日本帝国憲法発布の明治天皇の勅語「現在及将来の臣民に対し此の不磨の大典を宣布す」(明治22年)。龍馬の「大典」はこの勅語のパクリであろう。なお、李氏朝鮮ではすでに15世紀末に様々な法令を編纂しており、それを『経国大典』と名付けて公布している。明治憲法の「大典」もこれにならったのかどうかは分からないが、同じ漢字文化圏として興味深い。それと、古漢籍に「典礼」(お祝いの儀式)があり、『漢書』にも「天之大典(祭典)」がある。明治以後、日本でも「大典礼」を略してやはり「大典」を使う(例、即位の大典)。『広辞苑』には「大典」が出ており、上記の二つの意味の説明がある。

「新政府綱領八策」四条にも「新ニ無窮ノ大典ヲ定ム・・・此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ」とあり、龍馬はなんと明治憲法発布より23年前に「大典」を使ったことになる。また、この「部下」という言葉も明治以後の用語ではないのか。江戸時代は「配(輩)下」とか「組下」が普通であった。この「部下」は明治以降一般化して夏目漱石も使っている。(例、上司と部下)

その3)「帝都」について

「船中八策」の七条に「御親兵ヲ置キ帝都ヲ守衛セシムベキ事」とあり、最早、言うべき言葉がない。「帝都」は日本が「大日本帝国」を称するようになった明治以降、大正・昭和に定着した用語である。「帝都」は「新政府綱領八策」にはない。いやいや、「船中八策」は原本はなく写しだけだから、大正か昭和のある時代に、だれかが当時の用語に置き換えたのだと言ってしまえばそれまでだが・・。それと、「船中八策」の二条にある「上下議政局ヲ設ケ・・万機宜シク公議ニ決スベキ事」はかの有名な「五箇条の御誓文」(明治元年)の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」のパクリではないのか。とにかくおかしい。ねつ造するにしても杜撰と言えばあまりにも杜撰である。

 <追記>

 近年、多くの龍馬書簡に関する本が出版されている。それを見て、これはおかしいと感じるようになった。明らかに明治の用語ではないかと思える言葉が散見されるからである。前に述べた「新聞」がそうである。龍馬は幕末に「新聞」をニュースの意味で使っている。一体、その知識をどこで得たのか。江戸で福沢諭吉にでも会って教えてもらったのであろうか・・。それと、「新聞」はすべて三吉慎蔵あての手紙に出てくる。ところが、これらはすべて長府の三吉家所蔵ではない。龍馬からの手紙をあれ程大事に保存してきた三吉家から、どうして流失したのか疑問である。私はこれらの手紙もすべてニセモノと思っている。なお、「新政府綱領八策」は今、国立国会図書館と下関市立博物館に所蔵されている。だれが持ち込んだか知らないが、権威ある公的機関所有だからといって信用してはいけない。また、この両方とも龍馬直筆とされているが、同じものを二枚も書くこと自体おかしい。                                                                                     

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