不幸、不運の名が付くジャズ・マンは数多いるけれど「判官贔屓」という四字熟語がピッタリ嵌るとなれば、TINA BROOKSの右に出る者はいない。何せ4枚のリーダー作の内、3枚がリアルタイムでボツ(お蔵入り)、また、重度のヘロイン中毒が元で42歳の若さで亡くなり、生存中に発表されることも無かった。
その4枚とは、「マイナー・ムーヴ」(1958.3.16)、「トゥルー・ブルー」(1960.6.25)、「バック・トゥ・ザ・トラックス」(1960.10.10)、「ザ・ウェイティング・ゲーム」(1961.3.2)で当時リリースされたのは2作目の「トゥルー・ブルー」のみ。3作目の「バック・トゥ・ザ・トラックス」は2018年3月に既にUpしているので、今回は1stとラスト作をピック・アップ。
1980年に日の目を見た幻の初リーダー作、”MINOR MOVE”、メンバーが凄いです。モーガン、クラークは既にリーダー作をリリースしており、ワトキンスは兎も角、皆、格上の存在ばかりですね。
妙なことに同じ中毒同士のモーガンにしてもクラークにしても、この新人を前向きにサポートしようとする気配が希薄で、自分のミッションを淡々と熟し、ブレーキーにしても成り行き任せで、しらっとした空気の中、BROOKSが孤立している様子が浮かぶ。まるで辺りを警戒するカヴァの黒猫のようだ。一体感に欠けて散漫、と言うのが今までの本作に対する印象だった。それにスタンダードを3曲も入れたのも、ブルックスにはまだ荷が重たかったのではないか? ライオンはブルックスにリーダーとしての実力を果たして見い出していたのだろうか? 期待を込めてギャンブル的に出た可能性を排除できないなぁ(笑)。二作目の「トゥルー・ブルー」まで二年超(修業 or 治療期間? )を要している。
ラスト作になった”THE WAITING GAME”、この音源はモザイクのBOXセット”The Complete Blue Note Recording of The TINA BROOKS QUINTETS”で発売済み(1983年頃)でしたが、単体で初めて世に出たのは38年後の1999年にCDで。
ペイズリー柄のシャツ、そしてワインレッドの一色刷りが憎らしいほど決まっている。それにアングルが抜群ですね。撮影したのは勿論、F・ウルフです。6曲中、BROOKSのオリジナルが5曲を占め、スタンダードを1曲に絞っている。
ライオンがリリースを渋った理由は何だったのだろう? BLUE NOTEでは珍しいJ・コールズ(tp)はやや浮いている感じがするけれど、それは計算ずくで、問題はpのドリューではないかな? あの”BACK TO THE TRACKS”や 自己の”UNDERCURRENT”(4059)辺りでは良いpを聴かせているけれど、ここでは楽天的で饒舌なワンパターン・プレイがコールズ、ブルックスの持ち味をスポイルしている感がする。どうしたのだろう?
ブルックスの録音は本作が最後となる。二ヶ月前にサイドとして吹き込みに参加した“REDD’S BLUES / FREDDIE REDD”もボツになっており、この頃から、ティナ・ブルックスの名はジャズ・シーンの舞台から消えていった。1974年8月13日に亡くなっているが、もう数年間、tsを吹いていなかった、否、吹ける状態ではなかったそうだ。薄幸を絵に描いたような二流ts奏者だがネームバリュー、人気は一流に引けを取らない。
ライオンが三作もリリースに首を縦に振らなかった真意は、今となっては藪の中だが、辛い言い方だけれど歴史も嘘をつかなかった。その代わりに我が国では「判官贔屓」という特有の感情・同情論により、TINA BROOKSの名はビギナーでも知らぬ人はいないだろう。巷での高評は、皆、承知の上ですね。