チャイニーズが暴れ始めてからまたしばらくたった午前3時ごろ機長からアナウンス。
「今日はもう打つ手がありません。上陸許可は出たので空港に降りていただきます」
やった。ついに上陸許可が。このまま上陸許可もできず、入国審査も受けず、アメリカに帰るとか言い出さなくて本当に助かりました。飛行機に乗って24時間。ようやく外の空気を吸うことができます。
飛行機のタラップを降りてバスにのった気がします…歩きじゃなかったと思うんですが、空港のドアまで行って入国検査場まで進みました。そのときの検査官の目が死んでいた気がしないでもないですが(もともと輝かせて仕事はしていない)、「新千歳国際空港 入国」といういままで持っていなかったスタンプをパスポートに押していただきました。
そこから荷物を受け取って進むと空港の職員が「みなさんは一時的な上陸ですので空港の敷地内から出ないでください。いつまた飛行機に乗っていただくかわからないので」みたいなことを言って、運搬用のカゴ車に積まれた災害用の毛布を配ってました。このとき「ああ、僕もこれは被災者なんだ」と実感。ましてや、先ほどまで帰国すら危ぶまれた入国難民でもあったわけです…。
んまぁ、待機していろといわれた場所が出発ロビーの建物なんですね。当然と言っては何ですが、椅子なんかあるわけでなく(出発ゲートだとあほみたいにありますが)、ましてや新千歳空港。床の陣取り合戦。それとあわせてコンセント争奪戦がはじまる…。幸いにも我々特急指令ソルブレインは軽快な動きで毛布を受け取り、コンセントのある場所に毛布を敷き陣取りました。
とにかく僕らはおなかがすいていた。でも僕らにはこの旅でアメリカで買い込んだものがあった。
NYで買わされたというか寄付をせがまれてもらったM&M。これが唯一の食糧。うん、なかなかおいしいのである。
なにはともあれ、立派な帰宅難民となった我々はたくましく北海道の血でどうすることもできず生きることを決めたのでした。
そう。ずっとUstreamでNHKみたり、ラヂコでラヂオ聞いたりうだっと寝たりしていると、あっという間に朝日も上がるのである。
なんかね、このときみた朝日は不思議だった。どんなにひどいことが起きても朝日って上がってくるんだなぁ、明日ってやってくるんだなぁ、と思ったものです。それはいい意味でも悪い意味でも。
日本時間 3月12日(土) 午前5時
「ロスアンジェルスからデルタ航空機でいらっしゃってるお客様、成田行きは本日の19時以降になります」
衝撃のアナウンスである。ああ、完全に会社いけないじゃない。本来気にするべきところはそこではないのだけど、それを聞いた日本人客(比較的時間がなくてお金がある人たち)は国内線のターミナルへ移動し始めました。僕もどうしようかなぁと思ったんですが、今日中に帰れるといってるんだから待ちゃいいかとひとり思ってました。
とりあえず明日も怪しいものの、今日は確実に北海道に居残ることが決定的になったので改めて会社に連絡を取ろうと思う生真面目なサラリーマンの僕は朝の5:30くらいにマネージャーへ電話するのです(笑。「(完全に寝ていた雰囲気で)そうなんだぁ。大丈夫。ATOPさんのこと事務所にいっておいたから」と言葉をもらって安心。
それでも不安な僕は朝の8:00か8:30くらいに事務所に電話するんです…
「おはようございます。カメラコーナーのATOPです。昨日まで有給いただいていまして、本当は昨日帰国予定でしたが地震の影響で家に帰ることがかないませんでした。本日も出勤できそうにありません」
「あ、ATOPさんですね。聞いてます。ATOPさんはもういいですよ、北海道にいるんですよね。気を付けて戻ってきてください」
…もういいらしいです、僕は。
日本時間 3月12日(土) 9時30分
10時からレストラン街がオープンすると情報を手に入れた我々アベンジャーズはひさびさの日本料理に心躍らせていました。きっと新千歳空港内に一時待機している客の中で一番このときを心待ちにしていたのは我々でした。
「北海道にいるんだからうまいもんを食おう」
「どうせ東京帰っても店やってるかわからない」
「よし、海鮮丼かジンギスカンだな」
という会話を全開でしていたのはここのジャップ4人だけである。
狙いをジンギスカンに定めた我々はオープン15分前からお店の前で待機。さぁいつでもくってやるぞ!と意気込んでいたらバイトのおねーちゃんがでてきて「もしかして待たれたますか?」というので「YES」というと席に案内してくれました。
※ほかにもレストランがたくさんありますがジンギスカンを朝の10時から食ってたのは僕たち以外にいませんでした…
いやぁ、おいしかったです。この旅一番がここでした(何。やっぱりね、白いご飯とお肉とビール。これに勝るものなんてこの世に存在しないわけ。ありがとう日本。
あとはフライトを待つのみです。が。いつまでたってもフライトの続報アナウンスは入らず、アットホームな我々をよそに憤るアメリカンたち。
「どうなってんだ」「いつ飛ぶんだ」
「なんでホテルないんだ」「飯をだせ!」
と200人くらいが憤っているわけだけども、仕方ないじゃない。だってここにいるデルタの職員、一人なんだから。その一人だってもともと俺らの飛行機に乗ってた客室乗務員なんだから(笑。彼に罪はない。オフィスもなくカウンターも間借りしただけのデルタ航空に何ができるというのだね…ただ14時くらいになって食事券くばってましたけど時すでに遅しでは…。
僕らは夕飯の海鮮丼を買い「17時チェックイン19時フライト」の情報を入手し、ぐだるのであった(おいしいもの食べてお酒なんか飲んだら疲れがどっと出て眠くなるのはあたりまえ…。
2011/03/10-11 帰国(3/3)
日本時間 3月12日(土) 17:00
チェックインのため間借りカウンターに並びました。阿呆みたいにひとがいるので何が何の列かもわからに程でしたが、僕らはぼーっと空港に設置されたNHKを見てました。
そうしたらなんか四角い建物が吹っ飛ぶ映像が急に流れ始めるわけです。
画面の隅を見ると福島第一原子力発電所とテロップがあって、なんかの映画の映像か実験映像にしか見えないんだけど、どうやら本当のことらしく『ああ、日本終わった』と現実感はないのだけど、なんとなくそんなことを思っていました。少しだけ北斗の拳が脳内をちらつきました…。
ここで災害のプロ、災害対策・危機管理についてはいつも現場に立って指揮・指導してきた田原選手が風邪用マスクを買ってくれた。意味は察してほしい。
日本時間 3月12日(土) 20時くらい
機内に乗り込む。が、一向に動かない飛行機。ありがとう、デルタ。
日本時間 3月12日(土) 21:20
機内で存分に待たされ、ようやく本旅最後のフライトである。あばよ、北海道。ありがとうアメリカ。今からなんでわざわざ被害の大きい、危険度の高いであろう地方に帰ろうとしているかは自分でもわかりませんでしたが…。
日本時間 3月12日(土) 22:52
成田にようやく帰還。恥ずかしながら帰ってまいりました。着いてから気づいたことですが、我々の便がこの日の成田到着最終便でした。さっそうと税関をみんなで通ったら「君たち、一週間もアメリカ行って荷物これだけ」と笑われました。
よし、帰ろう。
なにで?
時刻は23時。当然地震の翌日ですから電車もあるわけもなく、バスも終了しており、タクシー乗り場もすっからかん。一応、近隣のホテルに電話するも「いっぱいです」と断られ、また空港ですか?と思っていたところに奇跡のタクシーが1台やってくるじゃないですか。
帰れる。我々は帰れるぞー!
タクシーの運ちゃんと地震の話で盛り上がり、僕が無事帰宅したのが深夜2:30。遅い遅い帰宅でございました。
まぁ家に帰ると地震の被害はほとんどなかったんですが、鍵を閉め忘れていた窓があいていて、防犯機がついていたもんだからそれが鳴りっぱなしになっていて怖かったというくらいですかね。それと翌日僕は朝晩でしたので朝7時に起きて会社に向かうエリートサラリーマンなのでした。
こうして我々「恥をかき捨て隊」は無事、成田→NY→ラスベガス→グランドキャニオン→ラスベガス→ロスアンジェルス→新千歳→成田という行程で今後遭遇しないであろう自体に直面し、経験し、クリアしました。またいつか必ずみなで海外へ行きたいと思います。そう思えるぐらい熱い旅でした。
完