台風も去って、秋らしいさわやかな日がやってきた。久しぶりに散歩に出る。散歩に出るのはほとんど夕方だけれど、最近は日の沈むのが早くなって、風光を十分に楽しむ時間も少なくなっていた。午前中に散歩(散輪)にでることはほとんどない。
朝早く用事があり、それもすぐに済んだのでその帰途散策に出る気になった。風は涼しくなったが、日の光は、まだ汗ばむくらい強い。光明寺の前から沓掛の方に向かう。夏の盛りには青々としていた稲田も、今ではよく色づいており、稲穂が重そうに頭を垂れている。もちろん、黄色く色づいてはいるが、その色合いはそれぞれの畑で微妙に異なっている。植えられた時期や品種、土地の栄養状態などが影響しているのだろう。
途中に見る花々の植生などもずいぶん変化しているのにも気づく。夏に咲き誇っていた菖蒲などは姿を消し、色づいた稲田のあぜ道でまず目に入るのは、曼珠沙華である。俗名は彼岸花。辞書によると曼珠沙華とはサンスクリット語の音訳だそうで、「天上の花」という意味だそうだ。その花の形はユニークで燃えるような形をしている。
お彼岸の時期に咲き、お墓参りの道々に人々が眼にしたせいか、何か縁起の悪いような花のように受け取られていたようである。私もこうしたイメージを母から受け継いだように思うけれど、死についての考え方が変わった今では、そうした「偏見」や「迷信」からは解放されている。純粋にきれいな花だと思うけれど、よく見ていると、何か妖艶な魅力を湛えているようにも思えて来る。それにしても、曼珠沙華(天上の花)とはなんという素晴らしい名前を与えられた花だろう。仏陀の故郷である灼熱のインドに咲いているこの花を想像する。
黄色く色づいた稲田を背景に、群落をなしているところでは、真っ赤に燃えるように咲き誇っている。今日明日が、この花のもっとも美しい盛りなのかもしれない。秋の紅葉にしろ、春の桜にせよ、そのもっとも美しい盛りに出くわすことは、なかなかむずかしい。この出会いの幸運の一瞬を思う。そばには露草も可憐な紫色に咲いている。コスモスも咲き始めた。
ダリアもさまざまな彩りで咲いている。まだ夏の名残もいたるところに目に付く。百日紅や朝顔もまだ夏が完全に終わったのではないことを教える。
少年の頃の昔、ガルシンというロシアの作家の短編小説を読んだことを思い出す。その標題は『赤い花』というものだった。精神病院に入院している青年が主人公で、彼にとっては病院の中庭に咲いている「赤い花」こそは悪の象徴で、人類のためにこの「赤い花」に象徴される悪と戦う。こういう妄想に彼は捉えられる。たしか物語の中では、この青年はこの赤い花をもぎ取ることで悪に勝利したことを確信し、安らかに死を迎えるという結末になっていたと思う。
この主人公と同じようにガルシンも若くして亡くなった。今では、この青年小説家の名前を知っている人はほとんどいないのではないだろうか。これを書いていて思い出したけれど、当時、私たちが使っていた国語の教科書には、確か同じ作家の作品で『信号』というヒューマニスティックな短編小説が採用されていた。今でも案外知られているのかもしれない。『猟人日記』の作者ツルゲーネフらとも交友があったと記憶している。
「赤い花」ということで取りとめもない連想をしてしまったけれど、天上の花の曼珠沙華、彼岸花は日本の秋の野原や稲田を飾る美しい花である。ようやく涼しくなりはじめた風と鰯雲の青空とともに、今年の秋の到来を心に刻みつける。
曽野綾子氏のファンの一人です。
可笑しな勘違いで訪問させて頂くことになりまして…
(きっかけは、洛南院大法螺噴大居士さん。
お礼を言わねば。)
とても内容の濃いブログですね。
勉強になります。
ガルシンは、私の中学時代、国語の教科書で
『信号』という作品を学びました。
きれいな彼岸花の写真を見ていると
ことさらに思い出されます。
だから、アノヨウナ中途半端なブログに為るのでは?もういい加減に旧約否定したら?
通りすがりの素直な感想ですので、どうかお気遣いなく。
私には楽南院さんが何をおっしゃりたいのか、
どうなさりたいのか、よく判りませんけれども…
つたないブログに過分なコメントでした。
/(*´`*)\
自分では20点ぐらいの(100点満点のブログがあるとして)だと思っています。
このブログは、とりとめのない、ずぼらな日記のようなもので、必ずしも特定のテーマを追及したり研究したりするものではありません。宗教や哲学や芸術に焦点をおいたブログは書庫として別に用意しています。気が向いたらそちらにも立ち寄ってください。
ブログの整理http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20050920
それでも、このブログには立憲君主制や男子一系天皇制や靖国問題について、また一定の民主主義観を主張しているはずですが、それらに反論も多くないのが残念といえば残念です。
このようなテーマはどちらかといえばマイナーですから仕方がないとも思っています。ですが「狭き門より入れ」です。
世間には天皇制否定論者や共産主義、全体主義などの考えの人もいるはずですから、いつかはそうした人たちと議論のできる日も来るだろうと気長に待っています。
ただ、中には他人の考えを理由も示さずに変えようとする、精神的に暴力的な人もいます。私は家族や配偶者以外の他人がどのような考えをもつかには、基本的に一切無頓着です。それでも中には他人の考えの面倒を見てくださる「親切」な人もいるようです。とくに日本人にはそうした人が多いようですね。
要するにそうした人たちは、民主主義の水臭さに耐えられない人なのだと思います。団子のようにみんなが同じ考えをしていないと不安なのです。
民主主義と孤独 http://blog.goo.ne.jp/apearl/e/28693934525de17a3f1c6046acc628cf
こうした事実に日本人の民主主義の未熟を感じるのは高慢でしょうか。
はじめてコメントをいただいた方に、余計なことを書いてしまいました。曽野綾子さんについては、三浦綾子さんと間違うくらいの知識しかありません。またご教示ください。
これからもよろしく。
私は、日々身の丈にあった、散歩のような読書を楽しんでいる者です。
曽野作品をずっと読んできた一ファンとしての個人的な感想ですが、
そらさんの志向されている世界と、曽野さんの世界は多くの共通項があるように思えます。
私は、人様とと対等に議論できる能力はございませんので
とにかくそらさんのブログを読ませて頂いて勉強して行きたいと思っております。
よろしくお願い致します。
昭和30年ころでしたが、いつまで掲載されていたのでしょうね。
久しぶりにその著者名を思い出しました。その後著書は読んでいませんが・・・
お久しぶりです。
さすがに朝晩は肌寒いくらいになりました。
こちらも一雨ごとに秋も深まってゆきます。
最近は私も小説はほとんど読む機会もなくなってしまいました。久しぶりにガルシンの「赤い花」でも探し出して読んでみたい気もします。どこかにこの文庫本も残っているはずですが。
あなたのブログへも折りにふれ訪れています。「モクモク手づくりファーム」は楽しそうですね。手作りウィンナを食されたのですね。私も昔、パン粉とミンチ肉などでソーセージを作って食べていたことがあります。やはり手作りはおいしい気がします。手間暇を惜しまなければですが、時間貧乏の今の私にはなかなかです。