作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

すずめの雛

2006年07月28日 | 日記・紀行

用事を済ませて帰宅すると、玄関の軒下に足元で何かばたばたしているのに気がついた。よく見ると、すずめの雛だった、仰向きになってひっくり返ったまま、脚と羽をばたばたさせているばかりで、自分で身返りすることさえできないでいる。一昨日以来の梅雨明けらしい天気で、強い西陽が直接、雛の身体に照りつけている。このままでは熱にやられるなと思った。

静かに掴んで、体をひっくり返してやると、ばたばた羽を動かして逃げようとするのだけれど、大して飛ぶこともできず、家の壁の隅にうずくまったままになっている。

そういえば、この間も帰宅すると、子猫がバイクのシートの上にちょこんと座っていた。痩せさらばえて、灰色がかった毛も抜け落ちかねないみすぼらしさだった。そのときは、とりあえず油揚げを一欠けら与えてやると、貪るように食っていたが、家の中に入ってからふたたび覗いて見ると、その子猫は姿を消していた。それ以来見ていない。

先日の梅雨の長雨もようやく明けたようで、暑い真夏の太陽が空に昇るようになった。すずめの雛や子猫が独りで生きてゆくには、こんな季節は過酷な季節だ。とりあえず、小さな皿に水を入れて、その雛を掴んでその中に放り込んでやったが、ばたばたしてすぐに飛び出してしまう。とにかく、植え込みの影に皿と雛を並べて家の中に入ったが、生き延びられるかどうか。まだ自力でも飛べないような雛は、親の餌やりがなければ生きるのも難しいのではないかと思う。

このもっとも生命力に満ち満ちた真夏を迎えようとするとき、今日もまた、この地球上ではいたるところで、あたかも巨大な浪費でもするように生命が失われてゆくのだろう。しかし、生命は循環である。個々のスズメは死んで行くが、類としてのスズメは永遠の命のように繋がってゆく。


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2 コメント

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旧約聖書 (KENT)
2006-08-02 13:33:56
今日は。この間、○○様がこられたので、私もつい、寄らせて戴きました。私は、聖書、よく知りませんが、詩篇、箴言、それから、ヨブ記、当時の、知識者とは、認識します。ただ、日本における古事記の位置づけで良いのではないでしょうか。創世記は確かに、エログロです。それに対して、詩篇は、と言う問いかけに逆に気味悪く存じます。キリスト教でしたら、旧約いらないのでは?旧約必要と思われる根拠(イエズスの預言の全うするため、勘弁ね)お教え下さい。
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旧約聖書 (洛南院大法螺噴大居士)
2006-08-02 13:55:49
宗教、思想は変わる。で、拙なら、新約から、黙示録、カット。旧約面倒だから全部カット。替わりに、臨済録、歎異抄入れる。この位しないと、キリスト教が、あぶない。
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