§2
そこには私たち自身が経験することのできない非常に多くの対象が存在する。たとえば、過去については、私たちは権威のある他者に頼らざるをえない。私たちが他者の権威にもとづいて正しいとみなす対象といったものもまた経験対象である。
Wir /glauben/ das auf die Autorität Anderer, was /wahrscheinlich/ ist. Wir halten oft für wahrscheinlich, was wirklich unwahrscheinlich ist, aber gerade /das Unwahrscheinliche ist oft das Wahre. —/ (Eine Begebenheit bewährt sich vorzüglich durch die Folgen und durch den mannigfaltigen Zusammenhang von Umständen, von denen wir die Erfahrung selbst gemacht haben. Die Männer, welche etwas erzählen, müssen /Glaubwürdigkeit/ haben, d. h. unter solchen Umständen gewesen sein, Kenntnis von der Sache haben zu können. Aus dem Tone derselben können wir auf ihre Redlichkeit schließen, ob es ihnen Ernst ist oder ob sie irgend ein Interesse dabei haben. Wenn Schriftsteller unter der Regierung eines Tyrannen schreiben und sie machen ihm Lobeserhebungen, so sehen wir, dass dies Schmeicheleien sind.
私たちは、真理らしく見える権威のある他者を信じている。実際には真理らしく見えないものを、私たちはしばしば、真理らしく見なしている。しかし、まさに真理らしくないものが、しばしば真理であったりする。出来事は主にその経験の結果と私たちが経験した状況にかかわるさまざまな関連性を通して証明される。出来事を私たちに語る人々には信頼性がなければならない。すなわち、事柄についての知識を持つことのできる状況にいたことである。経験について語る口調から私たちは彼らが真剣であるか、そこに何らかの利害を持っているかどうか、彼らの誠実さを推測することができる。暴君の支配下にある著作家が書くとき、そして、彼を賛美称揚するときには、そこに私たちは追従をみる。Wenn wir Jemand von etwas erzählen hören, worin er selbst mit eingeflochten ist, so wird man wohl hören, dass er zu seinem Vorteil erzählt. Wenn Jemand aber von seinem Feinde eine gute Eigenschaft oder Handlung sehr rühmt, so müssen wir das Gesagte eher glauben.)
自身が関わっていることについて誰かが何かを語るのを私たちが聞くときは、おそらく彼は自分に有利なことを語っているように人には聞こえるだろう。しかし、誰かが敵について語るときに、その良き性格やあるいは行動について賞賛するなら、私たちはむしろ言われたことについて信じるに違いない。)
Die Erfahrung lehrt also nur, wie die Gegenstände beschaffen sind, nicht, wie sie sein müssen, noch wie sie sein sollen. Diese Erkenntnis geht nur aus dem /Wesen/ oder dem /Begriff/ der Sache hervor. Sie allein ist die wahrhaftige. Da wir aus dem Begriff die Gründe des Gegenstandes erkennen lernen, so müssen wir auch von den rechtlichen, moralischen und religiösen Bestimmungen die Begriffe erkennen.(※1)
それゆえに、経験はただ、対象がどのように作られているかだけを教えて、対象がどのようにあらねばならないかとか、なおのこと、どのようにあるべきかは教えない。こうした認識は事柄の本質からか、あるいは概念のみから生まれてくる。これらの認識のみが真実のものである。そこで私たちは対象の根拠を概念から認識することを学ぶのであり、だから、私たちはさらに法的な、道徳的な、そして宗教的な規定についての概念を認識しなければならないのである。
(※1)ヘーゲルの論考においては、その論述の展開の必然性を検証し確認することが重要である。まずもって「知覚」の意義を明らかにするとともに、この「知覚」が「経験」へと必然的に進展ゆく過程を論証していく。しかし、「知覚」や「経験」の段階においてはそこに何らかの「法則性」が含まれるとしても、まだそこでは必然性は論証されてはいない。その根拠や理由も明らかにされてはいない。また、知覚や経験は、事物や対象がどのようなものであるか、何であるかを教えるだけであって、それらが、どのようにあるか、どのようにあるべきかを教えない。それを教えるのは、事物の根拠である「本質」や「概念」である。そして、その認識のみが真実の認識である。だから、法律や義務や宗教などの次元においても、それらがどのようにあるべきか、そのあり方を認識するためには、まず法律や義務、宗教についての「概念」が認識されていなければならない。