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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

撰集抄 巻五 第六  西行と待賢門院中納言の局が対面したこと

2015年01月14日 | 西行考

 

撰集抄 巻五 第六  西行と待賢門院中納言の局が対面したこと

待賢門院に、中納言の局という女房がおられました。待賢門院がお亡くなりになられて後、出家剃髪して小倉山の麓に、仏道に帰依してお暮らしになっているとお聞き申し上げたので、長月のはじめの頃、かの御室に参上し申し上げました。草深く繁っていて、行き交う道も跡絶えたように、尾花や葛の花が露に濡れて、軒にも間垣にも秋の月が澄み渡り、屋敷の前は野辺が広がり、軒の端には山路が通っていましたので、虫の音もしみじみとして、猿の鳴き声もまことに心に寒々と響きます。荻の上を吹渡る風は枕元にも差し込み、松の梢を吹き抜ける嵐は閨にも吹き込んで、まことに恐ろしい感じの住処でございました。

そうして、かの局と対面申し上げたときのはじめの言葉に、
「 浮き世を離れ出家し申しはじめた折りは、亡き女院のことがつねに心にかかって、ああ、どんな世界に去って行かれたのでしょうと悲しく思われ、あの人この人のことも恋しく思われましたけれど、今はまったくに思い忘れて、つゆほども嘆く心もございません。やはり精進の甲斐がございましたのでしょうか、悲しみも喜びも心に忘れてしまったようでございます。愚かな女の心でさえもそうですから、長年のあいだ世間を離れ、仏の道に思い立って月日を経なさったそなた様の心の内は、どれほどに澄んでいらっしゃることでしょうね。」 とおおせられる。めったにないお気立てです。

まことに、憂きも喜びも心に忘れてしまうのは、そのまま禅定の境地であるとは、昔の智者の言葉ですから、何とかして私も憂きも喜びも忘れてしまおうと思いましたけれど、心に思うようにもならず止めることもできません。それなのにこの中納言の局は、喜びも悲しみも忘れ去ってし舞われたのでしょう、本当にこの世に一つの前世の善根を積まれただけでは決してないはずです。二三四五の仏様の前に多くの功徳をお植えなさったのが、ささやかな縁によって、生え出て来たにちがいありません。私は天性劣っているといっても、世間を離れたことも、かの局よりもはるか先のことです。また、決して名利を思うことなく、ひとえに仏の道をとこそ思いますけれど、すでにあの中納言の局のお気立てにも劣る気恥ずかしさよと思うと、帰る道すがらに、また考えることには、気臆れするように思うことこそ、悲しみ喜びの思いを断ち切れないことであると思って、また心を振り返ました。さてまたどのようにしたものかと考えあぐねて、小倉山を去り申しました。

その後、三年ほど経って、この局が重篤の病にあることをお聞きしまたので、お見舞い申し上げようとお訪ねしましたところ、すでに息絶えなさっていた。西に向かって掌を合わせ、威儀を正しくしてお亡くなりになっていました。憂きも喜びも心に忘れてしまったと申されたのは、真のことだったと心に刻みながら、泣く泣く帰ったことでした。


<巻五第六 中納言局発心>http://goo.gl/0LVKD

待賢門院に、中納言の局と云ふ女房をはしましき。女院におくれまいらせて後、さまをかへ、小倉の山の麓におこなひすましておはし侍りき。うけたまはりしかは、長月の始つかた、かの御室たとり/\罷にき。草深く茂りあひて、ゆきから道も跡たえ、尾華くす花露繁くて、のきもまかきも秋の月すみわたり、前は野へ、つまは山路なれは、虫の音哀に、あい猿のこゑ殊に心すこし。荻の上風枕にかよひ、松の嵐閨に音信て、心すこきすみかに侍り。扨、かの局に対面申たりしに始の詞に、浮世を出侍<り>し始つ方は、女院の御事の常には心にかけて、あわれいかなる所にか、いまそかるらんと悲く覚、誰/\の人も恋しく覚侍りしか共、いまはふつに思忘れて、露はかり歎く心の侍らぬ也。さすか、行<ふ>かひ侍れはや、憂喜のこゝろに忘られぬるなるへし。。をろかなる女の心たにもしか也。年久く世を背、実の道に思立て、月日重給そこの御心の中、いかにすみて侍らむとその給はせし。有難かりける心はせかな。誠に、憂喜心に忘れぬ<れ>は則是禅也と、昔智者の詞なれは、いかにも是を忘れはやと思ひ侍れと、やゝ心と心に叶はてとめやらぬに、此局のわすられけん、けに此世一の宿善をうへ給へるか、聊の縁によりて、おい出ぬる成へし。我はつたなしといゑ共、世をそむく事も、彼局よりは遥のさき也。又都名利をおもはす、偏仏の道にとこそ思ひ侍れ共、はや、彼局の心はせにもおとり侍りぬるはつかしさよと思ひ、帰る道すから、又案するやうは、はつかしさ思ふこそ、憂喜の忘れぬなれと思ひとりぬ。帰て心を<物>たつれは、さては又いかゝせむと思ひかねて、小倉山を出侍り。又其後、三とせ経て後、此局おもく煩ふよし承り侍りしかは、訪も聞えんとて罷たりしかは、はやいき終にけり。西に向き掌を会<合>、威儀を乱すして終にけり。憂喜の心に忘れたりと侍りしは、実にて侍りけりと思定て、泣/\かへりにき。

 

 紅葉紀行(3)待賢門院璋子――青女の滝

 

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このもとに

2013年11月12日 | 西行考

 

このもとに

那智に籠もりて滝に入堂し侍りけるに、この上に一二の滝おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに、具してまゐりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の滝のもとへまゐりつきたる。如意輪の滝となん申すと聞きて、拝みければ、まことに少しうち傾きたるやうに流れて下りて、尊く覚えけり。花山院※の御庵室の跡の侍りける前に、年旧りたりける桜の木の侍りけるを見て、「すみかとすれば」※と詠ませ給ひけんこと思ひ出でられて


木のもとに  すみけるあとを  見つるかな  那智の高嶺の  花を尋ねて


那智の御社に籠もって、滝に身を清めておりましたときに、お堂の上方に一の滝と二の滝がありました。そこへお参りするという那智山に常住のお坊さんがおられたので、連れだってお参りしました。花が咲いているだろうかと尋ねてみたかった折りでしたので、頼み甲斐のある気持ちがして、ともに草木を分け入ってお参りしました。二の滝のところまで辿り着きました。如意輪の滝と申されるのを聞きましたので、拝みましたが、如意輪観音様のお姿と同じように本当に少しうち傾げられているように流れ下っていましたので、尊く思われました。花山院のお住みになっていたお庵室の跡の前に、年旧りた桜の木の立っていますのを見て、「すみかとすれば」とお詠みになったことの思い出されて、


桜の木の下に  心清らかにお住みになっていた跡を 私は見つけました
 
             那智の滝のある高嶺へと 花を尋ねました折りに

 


花山院

http://contest.japias.jp/tqj1999/20106/seimei/ookan.htm

木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな(詞花276)


http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kazan.html




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ゆかりにつけてもの思ひける人の

2013年09月12日 | 西行考

 

ゆかりにつけてもの思ひける人の

ゆかりにつけてもの思ひける人の許より、などかとはざらんと、恨み遣はしたりける返事に

803     あはれとも    心に思ふ    ほどばかり
      言はれぬべくは    とひこそはせめ 

親類縁者を亡くして悲しんでいる人の許から、どうしてお悔やみに来てくださらないのですか、と恨み言を送ってきた返事に、

  ただお気の毒と  心の中に思う  ばかりです
      言葉に出して言ってしまえるぐらいなら   
      すぐにでもお訪ねしましたものを

残念ながら資料がなくて、西行にとってどのような関係の人から送られてきた手紙に対する返歌だったのかはわからない。手紙の送り主が、女性だったのか男性だったのかもわからない。ゆかりの人といっても、その悲しみの深さから身近な肉親であったらしい。その手紙の送り主ばかりでなく、亡くなったその人は生前西行にとっても親しかったと思われる。手紙を遣わした人と同じように西行も悲しんでいたのだ。

誰にでも避けることなく訪れる死、この絶対的な制約の中に人は生きざるをえない。送る人も送られ、悲しむ人も悲しまれる。これは定められた人間の性でもある。西行の悲しみは三十一文字に刻まれてある。

はかなくなりて年経にける人の文を、 ものの中より見出して、女に侍りける人の許へ遣はすとて

804    涙をや  しのばん人は  ながすべき
   あわれに見ゆる  水茎の跡

亡くなられてすでに久しいある人から送られた手紙を、たまたま見つけだして、その人の娘であった人の許に、ご覧に入れようとお送りした折りに

   涙を  お父様を偲んでおられるあなたは
   流されるでしょうね  昔なつかしい 
   その筆跡をご覧になって

故人の手紙をいまさらその娘の許に送ることによって、娘がまた涙を流し悲しむことを西行は知っている。しかし、その深い悲しみの涙は彼女にとって慰めにもなったにちがいない。

 

 

 

 

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西行

2012年04月25日 | 西行考

Saigyo Hoshi drawn by Kikuchi Yosai

西行

西行法師(菊池容斎画/江戸時代)西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

目次

1 生涯
2 出家の動機
3 評価
4 逸話
4.1 出家
4.2 旅路において
4.2.1 源頼朝との出会い
4.3 晩年の歌
5 関連著作
6 備考
6.1 西行を題材にした作品
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

1 生涯

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えら、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

2 出家の動機

友人の急死説
現在、主流となっている説。「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして(※ウィキペディア(Wikipedia)の記者はこのように書かれていますが、通常の意義での「愛妾」であったかどうかは、確証されているものではないと思います。)鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。しかし、この典拠は不明である。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。

3 評価

『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。

また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。

しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。

後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

4 逸話

4.1 出家
出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。                                                             

 

4.2 旅路において

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」
紀州宇久井村(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
「目覚山下す有らしのはげしくて 高根の松は寝入らざりけり」
高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。

4.2.1 源頼朝との出会い

頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

4.3 晩年の歌

以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。

5 関連著作

『山家集 新潮日本古典集成』 後藤重郎校注、新潮社
『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 同ワイド版
『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29、岩波書店
『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987年
『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編 第一書房 1987年
『西行全集』 久保田淳編 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990年
『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978年
『西行全集』全2巻 伊藤嘉夫、久曾神昇編、ひたく書房、1981年
『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981年
『西行物語絵巻』 小松茂美編 〈日本の絵巻19〉 中央公論社
『新訳 西行物語』 宮下隆二訳 選書版:PHP研究所 2008年
『絵巻=西行物語絵』 千野香織編 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000年

6 備考

西行庵(吉野山)西行庵 - 西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治26年(1893年)に、当時の庵主・宮田小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名である。
高杉晋作 - 「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。

6.1 西行を題材にした作品
[能 ]
江口
西行桜
[落語]
西行
西行鼓ヶ滝
[長唄]
時雨西行
[義太夫節]
軍兵富士見西行
[文学作品]
上田秋成『雨月物語』「白峯」
幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
白洲正子『西行』ISBN 4101379025
瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
辻邦生『西行花伝』ISBN 4101068100
火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
中津文彦『闇の弁慶―花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
[テレビドラマ]
平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。

7 脚注
[1]史実かどうかは不明だが、仏教説話としてオーバーに表現されている面はありうる。

8 関連項目

似雲
西行の娘
木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺、勝持寺に居を構えた。
「ペテロ」勝俊こと長嘯子の作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えた。
奥の細道#福井あわら市 吉崎

9 外部リンク

西行の研究http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm
山家集の研究http://sanka11.sakura.ne.jp/
digital西行庵http://www.saigyo.org/

10カテゴリ:

 佐藤氏   平安時代の武士  日本の僧  平安時代の歌人  鎌倉時代の歌人
 1118年生  1190年没

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%A5%BF%E8%A1%8C&oldid=42074888
「西行」の項より※一部改変してあります。真言僧と神道の統一を一身に体現した人間として考察してみたい。

 

 

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西行考

2009年11月06日 | 西行考

 

西行考

西行については個人的な興味からもこれまでも幾度か論じてきました。また、西行の事跡を辿って、西行のゆかりのあるお寺なども訪れて、感想文や紀行文に、日記などにも記録してきました。

紅葉紀行(1)宝金剛院――地理
短歌と哲学(4)
西行の桜

ただ、そうして西行について論じるのであれば、これまでのように漫然とではなく、せっかく同じ事なら、もっと全面的に明確な目的意識をもって、またより哲学的な視点からも深く論じてゆきたいという気持ちの湧いて来たのも事実です。それで、西行考として、このブログでももう一つ独立したカテゴリーを作って、そこで資料やら文献も収集して行くと同時に、それらも踏まえて私自身の拙論なども加えて蓄積してゆこうと思いました。一応基本的な文献としては、新潮社版と岩波文庫版の『山家集』を活用するつもりです。歌番号は新潮社版に従っています。

ここで、西行と彼の生きた時代を、当時の政治体制や経済制度、また当時の時代思潮および宗教や芸術、風俗や衣裳、建築などまでをもふくめて、さらに深くできうるかぎり綿密に調査研究して行くことができればと考えています。

もちろん、西行のような歴史的な人物については、すでに多くの学者、優れた歴史家、小説家などによって研究され尽くしているような感もあり、今更、私のような素人が挑戦しても、それは屋上屋を架することにすらならないかもしれません。しかし、たといそれがどんなに無意味な無駄な試みであるとしても、少なくとも私個人にとってはなにがしかの意義があるはずです。

とくに個人的な興味から、さらに現代哲学的な視点から考察すること、その短歌芸術、言語、哲学思想、宗教的な背景や西行独特の精神構造など、時間と空間の総合的な観点から、できうるかぎり人間西行とその時代の全体像を把握して行くことを志そうと思っています。

いずれにしても私自身の能力以上の事は願ってもかないませんが、もちろん、歴史的な対象を認識するとしても、それは私個人の主観的な観点を通じて以外にはありません。実際、西行という人間像を客観的に把握するにしても、それはすべて主観的な認識を介して以外にはありえないものでもあります。それは同時に私自身の歴史認識の方法自体を吟味しつつ行ってゆくことになります。そうして、できればこの考察が伝記的にも客観的な考証であると同時に、また一つの芸術品であることを願うものです。

それでは、あらためて時間と空間を越えて、西行探求の旅に出かけることにします。どうかこの旅が稔り多く楽しいものになることを祈りつつ。

    涼風如秋
    
250  まだきより  身にしむ風の  けしきかな  
        秋先立つる  み山辺の里

りょうふう秋のごとし――――夏の終わりの涼しい風はもはや秋のそれのようである

いまだ暦では秋の季節でもないのに、もう吹いて来る風は身に染みいるように感ぜられる。都に先だって秋の早く訪れるこの奥山深いほとりの、とある山里に暮らしている今の私にとっては。

ここでも時間の推移が季節の変化として西行によって明確に捉えられている。それと同時に、西行の今の暮らしの場所でもある奥深い山里の光景が、かって西行が過ごした華やかな都に流れる時間を基準とする対比において歌われることによって、西行の身に生じた境遇の変化も、また、それに伴う西行の寂しい情感も伝わって来る。「み山べの里」という第五句が、奥山の山林の大きな自然の陰にひっそりと寄り添うようにして、隠れ里のように暮らしている集落の人々の生活の営みを想像させる。

  松風如秋といふことを、北白川なる所にて人々よみて、また水声有秋と           いふことをかさねけるに

251 松風の  音のみならず  石走る  水にも秋は  ありけるものを

松林の間を吹き抜ける風の声に秋そのものを感じる、という歌を北白川というところで人々が詠みましたが、さらに川水のせせらぎにも秋があるということを一首の中に重ねて私は詠みました。

松風の声のみでなく、岩の上を流れる川のせせらぎの響きにも秋はひそんでいるのでしょうに。
風の音、水の流れる音などによって聴覚に訴えてくる秋に加えて、鮮烈な水の流れを見るという視覚の中にも、秋の到来を確認しようとする。言葉遊びの色濃い歌である。

この歌を詠んだとき、西行には、春の訪れの歓びを歌った万葉の次の歌が念頭にあったはずである。

石走る  垂水の上の  さわらびの  萌え出づる春に  なりにけるかも
                志貴の皇子

 

 

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西行考/文献資料集

2009年10月16日 | 西行考

 

 

 

西行考/文献・資料

インターネット

digital 西行庵
http://www.saigyo.org/

西行辞典
http://archive.mag2.com/0000165185/index.html?start=0


山 家 集 の 研 究 
http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankatop.html


私たちの「西行の研究」
http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm

 

単行本

研究論文 

 ⑤ 学術やまむら 西行と西住について

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

 

 

 

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