「新幹線の空いてる指定席、人が来てから移動では駄目なのか」「だから新幹線は嫌いだ」 大学副学長のツイートが物議(J-CASTの記事より)
かねがね不思議に思っているのが、評論家と呼ばれる人たちのことです。
映画評論家からラーメン評論家まで、ありとありとあらゆるジャンルにそう呼ばれる人たちが存在します。
彼らは年がら年中同じジャンルのものをひたすらに受け付けています。
仕事だから仕方ないですけど、実際のところ、飽きたりしないものなのでしょうか?
例えば、僕の父は戦後の復興期に山ほどさつまいもを食べたので、見るのも嫌といいますし。
やっぱり、評論家の方たちも同じ人間ですから基本的には飽きるんだと思います。
ですから、食傷を起こさないように情報を切り取る工夫が必要です。
例えば、映画評論家は素人のようにワクワクしながら全力で観るのとはちょっと違うでしょう。
自分なりのチェックポイントがあって、そこに特に注目しつつ他は省略して観ているはずです。
ですから、評論家の方はある意味で皆偏った見方を持っています。
それは決して悪いことではありません。
それが評論家自身の「自分流のモノの見方」になるのですから。
しかし、自分流のモノの見方が、もはや一般人とかけ離れてしまう人も中にはいます。
もはや、流れ作業のように、自分の求めている物があるかをただ確かめるだけの人です。
かつての共産国家が「共産主義的かどうか」で芸術作品の良し悪しを測ったようなものです。
実は、今も評論の世界ではもう少しソフトな形で同じことが行われています。
そして、上記事のような大学教授の皆さんにも同じことが言えます。
研究熱心な人ほど自分の偏った見方を持っています。
そして、その自己満足を叶えてくれる事象を探すパズルゲームをひたすらやっている人たちがとても多いのです。