Are Core Hire Hare ~アレコレヒレハレ~

自作のweb漫画、長編小説、音楽、随想、米ラジオ番組『Coast to Coast AM』の紹介など

イナギ01-ヨミを待つ

2012-11-30 23:20:37 | 伝承軌道上の恋の歌

 僕は誰もいない廊下でソファに腰掛けて、ヨミを待っていた。ドアを隔てた向こうにヨミはいて、僕は早くドアが開くのを祈るようにして右足を小刻みに揺らした。ヨミは今かかりつけの主治医に『診察』を受けているところだ。そして僕達がいるこの路地裏の建物をヨミは『診察室』と呼んでいる。
 ドアの向こうでかすかに物音がしてからゆっくりと灰色のドアが開く。
「お待たせ」そう言ってヨミは僕に笑いかけてくれる。
 白い肌にかかったウェーブのかかった灰色の髪がすごく綺麗だった。白いレースのワンピースは胸もとのボタンが三つくらい空いていて、ヨミはそれを白く細い手でひとつずつ丁寧に留めていくのを僕は苦々しい思いで見つめていた。そのヨミの向こうにはメガネをかけた白衣姿の中年男性の姿が覗く。椅子に座ってカルテを整理しているようだ。ヨミを穢すな。僕は心で彼を呪いながら、重たい鉄のドアを勢い良く閉めた。
「イナギ?」ようやくボタンをヨミが不思議そうにつぶやく。
「…行こう」
 そう言って僕は傍らにおいてあったコートをヨミの方にかけて、彼女の腕を掴むと足早に研究所を後にした。僕が黙っていると、ヨミも無理には話しかけようとしない。もう夕暮れ、繁華街を抜けるとその先にスクランブル交差点が見える。
「…イナギ、またあの人を見たの?」
 ヨミは僕が不機嫌な理由をあの男に求めた。
「ああ、見たよ。ここでね。昨日の朝」
「そう…だから…」
「ただの自己満足だよ、あんなの…」
「頑張ってやってるのにそんなふうに言ってはダメよ」
「いや、本当は見つかって欲しくなんてないんだ。一生ああやっていられるんだからさ。人って何にでも楽しみを見つけられるもんなんだよ。ヨミ、僕は考えるんだ、大昔の神殿を作るために毎日大きな石を運ばされた奴隷だって、きっと自分なりの工夫をして楽しもうとするんだ。そうしてる時点で、自分の境遇を受け入れてることになるんだから負けだけど。僕達だって知らず知らずの内にそうしてるんだ。これまでやってきたこと、毎日やることをリストにしていちいち思い出して理由をつけてるわけじゃないからね」
「イナギは色々考えているのね」
「ああそうさ。すごいだろ?」
「うん。そうね」
 僕は肘掛においたヨミの白い手に触れた。一瞬ヨミの身体がかすかに硬くなるのが僕には分かった。だから僕はその手を離した。その一番の事実に僕は黙ってしまう。ぐるぐると色んな後悔が頭を回って僕はよけいに歩調を早めた。

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056-作戦会議

2012-11-29 22:10:21 | 伝承軌道上の恋の歌

 街は賑やかだ。あたかもデウ・エクス・マキーナの最大級のイベント『管理‐kanri‐』の前夜祭。すごい。日もかわろうというのに昼間並みの人がいて、その多くがデウ・エクス・マキーナの端末化=コスプレをしてる。本来ならアノンもこの喧騒の真中にいるべきはずだ。ハンチングを目深にかぶったアノンが彼らの誰にも見つからないことを祈りながら僕達は人の波をかき分けていく。
 それはスクランブル交差点にも程近い街の繁華街の裏通りにひっそりとあった。もしここがアノンの言うとおりウケイの診察所なら、彼は雲隠れした後も何度も僕を見ていたはずだ。そして彼の患者だったヨミも。アノンに促されるままに細い路地を連れ立って行くと、ふと物陰でガタッと何かが動いた。思わず足がすくむ。しばらく身じろぎせずに様子を伺っていると切れかけた街灯が点滅したその陰で一人、マキーナ姿の女の子が泥酔の末嘔吐しているのが見えてほっと胸をなでおろす。
「…ここ」
 そう言ってアノンが指さすのは、何の看板も掲げられていない、表に建ちならぶ飲食店の勝手口にしか思えない安っぽいアルミ製のドアだった。アノンはこともなげに入り口に敷いてあるマットをめくって鍵を拾うと、僕達が唖然とする中、平然とドアを開けた。
「…ここがウケイ先生の隠れ家…」
 アキラがつぶやく。こんなすれ違いそうな近くでウケイ先生が隠遁してたことはアキラにとっては裏切りにも思えたかも知れない。
「…すごい」
 そこは外見とは裏腹に狭いながらも最新鋭の医療機器の設備の整った『診療所』だった。思わず息を飲んでしまう。奥にある一段高いベッドとそれを取り囲んでいる様々な機器から察するに手術用のものだろう。そしてそれはどこか僕達が閉じ込められたあの部屋にも似ていた。身を隠しながら闇医者でもして食いつないでいたのかも知れない。


 ウケイ先生の空白の間を埋めるようにくまなく観察する。入り口すぐ左手にあるデスクには山と積まれた書類の間にわずかに開いたスペースには写真立ていくつか並んでいて。往時の父親とその同僚たち、僕とヤエコが写っていた。ふと手にとってたそのひとつには先生の意外な『患者』が写っていた。
「これは…」
 病院らしきベッドに座っているヨミとウケイの二人が笑顔で並んでいた。そしてこのデスクに向かったウケイの視線が自然とむかうであろう場所にあったものは写真立てだ。額に飾られた写真の中でくまのぬいぐるみを抱いているのはまだ三歳かそれくらいの女の子だ。バストアップで女の子が大きく写り込んでいて背景があまりよく分からないが、どうも見覚えがある。そうだ。これは僕達が閉じ込められていたあの部屋だ。そして不機嫌そうにこちらを見つめている少女の首筋にはあの『識別番号』が刻まれていた。判読できるかどうかぎりぎりの大きさだったが僕達はすぐに知ることができる。それが元から知っているものだったから。
「シルシ君、これって…」
「…アノン、アノンだ。アノン、これはお前だ、お前なんだな…?」
 僕はその証拠をつきつけるように写真をアノンの前に差し出した。アノンはただ僕を見てゆっくりとほんの少し短く唇を動かした。『パパ』アノンは確かにそう言った。
「パパ?パパだって?!」
 僕はただその言葉に愕然として、それ以上思考が奥へと進まなかった。ただ認識した言葉を音にしただけ。そんな気分だった。
「ウケイ先生がアノンちゃんのお父さん…?…そうだ!そうだよ。それで分かった」
 アキラは顔の前で小さく手を叩いた。
「アキラ?」
「アノンちゃんはあの研究室で生まれたんだ。それならシルシ君よりあの番号が若いのも説明がつくんじゃない?
シルシ君は物心ついてない頃、多分三歳くらいまでにここに連れてこられた。だからシルシくんより年下のアノンちゃんの方が先にあの研究所にいた。そうだ、そうだよ」
「なるほど…」
「でも、アノンちゃんは献体をさせられた。ウケイ先生の子供なのに?」
「多分、アノンちゃんの母親にある…でもこれ以上は…」 
 そうか。アノンの母親がレシピエントだったんだ。しかしウケイはレシピエントとして連れてこられた女性と結ばれた。できればずっと秘密にしておきたかっただろう。しかし、それはきっとうまく行かなかった…僕が救われたようには。幼いアノンの写真の隣に寄り添うように並んでいるこの女性が…彼女はどこかアノンにその面影を映しながらも儚げで悲しい目をしているように僕には思えた。

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055-その後

2012-11-28 22:16:43 | 伝承軌道上の恋の歌

 研究所の外ではすっかり日がくれていた。とにかく逃げなきゃ。タクシーを乗り継いでようやく見慣れた景色に巡り会うと息を切らして僕達はこじんまりとした神社の縁側に並んだ。僕やアキラの自宅ももはや安全とは言えない。途方に暮れて僕は白い息を吐いた。
「アキラ、トトは…?」
 僕は未だ意識の朦朧としたままのアノンを抱えて僕は言う。ウケイに鎮静剤のようなものを打たれたのかも知れない、アノンはまどろみつつ何度か少し意識を戻してはまたぱたと遠のくのを繰り返していた。
「それが何度も電話してるんだけど連絡取れないんだ」
 アキラは携帯の画面を見つめる。
「心配だな。トトには巻き込まれるような理由は何もないのに。しいていえば僕の知り合いってことくらいだが」
 嫌な予感がする。思えば少しでもトトを関わらせるようなことはさけるべきだった。
「…ん、うん…」
 アノンが再び。アノンが目を醒まそうとしてる。
「アノン…」
 僕が少しでも安心させようと額に手を触れて撫でていると、アノンは突然はアノンははっと目を見開いて意識を取り戻してみるみるうちに気を失う寸前の怯えきった表情になる。がたがたと震えだしそして僕に目一杯に抱きつく。無重力の中で身体を保とうと何かにすがるようにあらん限りの力で。
「…うっ…アノン…」
 女の子のものとは思えないあまりの力で息が詰まって苦しくなる。
「…あ、ああ」
 アノンの悲鳴は声にならない。両手で引き剥がそうとするが、硬直状態になってまるで動かない。
「…大丈夫。大丈夫だ」
 どうにか伸ばした手で彼女の背中をやさしくなでてやる。
「僕達は外に出られたんだ。助かった。だからもう大丈夫だ。怖いことは何もない」
 するとアノンはようやく力を抜いて、僕の顔をまるで初めて見た動物みたいに間近で見つめる。でも、それも続かずに今度は許しを乞う子供のように顔を歪めて
「ヨミ、ヨミ…」とかすれた声を喉から振り絞っている
‐ヨミを助けなきゃ
そう僕に伝えてる。
「ああ、分かってる。ヨミを救うんだ。だから安心しろ」
僕はアノンを抱きしめた。ヨミを救わないと…どうにかして彼女を救わないとアノンの命が必ず代償になる。アノンはそれを知って自ら犠牲になろうとした。でも、そうはさせない。なぜかは分からないけど、そうしなければヤエコの死も無駄になるようなそんな気がするんだ。
「アノンちゃん、大丈夫だから、ね?」そう言ってアキラもアノンの頭を撫でる。
「シルシ君、どこに行く?」
「そうだな…」
 しかし、どこに隠れる?僕のアパートはもう帰れない。
「とにかく今は逃げるんだ。できるだけ長く」
 『…一週間。一週間待つんだ』ウケイの言葉が重たい頭の中で頭痛を伴って響いてた。アキラも関わってしまった以上、その身に危険が及ばないとも限らない。それにこの界隈じゃ有名人のアノンを連れて歩きまわるのもまずい。かと言ってどこか遠くに身を隠してしまえばトトの無事を確かめることができなくなる。とにかく少し休めて考えられる時間が欲しい。
「アノン、立てるか?」
 アノンは軽く頷いて縁側から降りると、よろけながらもどうにかその場に立った。
「アキラが買って来てくれた服があるからアキラに手伝ってもらってくれ。僕もしばらく外すから…」
 アキラに目配せして、僕はアノンに背を向けると、不意に袖口が少し引っかかった。振り向くとそこに僕の袖口を片手で摘んでいたアノンがいた。
「アノン、どうした?」
『ウケイ』そうつぶやいている。
「ウケイ?ウケイ先生のところ…いや、しん…さつ、じょ?診察所…を知ってるのか?」
 僕が聞くとアノンがうなづいた。
「…しかし、危なくないのか?やつらに知られてる可能性だって…」
 やつら。僕はウケイ先生に習ってそう呼んだ。でも、アノンは僕を見上げ乞うような目で首を振ってる。
「分かった。とにかく行けばいいんだな…」

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054-脱出

2012-11-27 22:49:16 | 伝承軌道上の恋の歌

 それから何時間経ったのかは分からない。やがて目覚めた僕達は眠るヨミの生命維持装置とともに時を過ごした。ここでは遥か高い天井の光が白い壁に反射して影すら落とさない。だから人と物が白くぼやけて見えて思考を留めさせてくれない。今はただヨミのために働く鋼鉄のチューブの這いまわったこの部屋で僕は彼女を忌避するように部屋の隅で膝を抱えた。ちょうど対角線上の向こうで眠るアノン。そしてそのベッドに腰をかけてアノンの様子を見守っているアキラ。ここはアノンの育った場所でもあり、彼女にとっては長い間囚われ続けた監獄のようなものだろう。今はまだ目覚めない方がいいのかも知れない。アキラはアノンの頬に優しく触れる。まるでそこから何かを伝えるように。アノンに落とした眼差しが、僕に不思議なほど落ち着いて見えた。
「なあ、アキラ…?」
 部屋の端と端にいてもお互いに通じるくらいに静かで、声が響く。
「ん?」
「思い出した。先生は僕が気を失う前にこう言ったんだ。『ここから逃げるんだ』と」
「…良かった。ウケイ先生はしかたなくこうしただけなんだ…」
「しかし…どうやって逃げれば」
 できることは全てやった。
 しびれてふるえる両手とうっ血した拳がこれまでの徒労を物語っている。
「ねえ、シルシ君、事故の時の女の子のこと聞いていい?」
 アキラは視線をアノンに落としたまま僕に聞いた。ウケイ先生は言葉を濁したが、その答えはもはや明らかだ。アキラはただそれを僕に言わせたがっている。
「…彼女は…マキはヤエコの臓器提供者=レシピエントの女の子だったんだ。かつての僕やアノンたちと同じ、な」
 するとアキラは僕の方に向き直る。
「その子がなんであのスクランブル交差点にいたんだろ?」
「…そんなこと今はどうだっていいだろう?」
 僕にはアキラの試すような問いかけも落ち着き払った態度も気に食わない。
「いいから考えて」
「…それは自分の命が危ないと知ってここから脱出したからに決まってる」
「そう。それだよ!ウケイ先生はそれを言ったんだよ」
「しかし、何の手がかりも…」
 思いつくことは全部やった。アキラだって見てたはずだ。
「ウケイ先生を信じるの。その女の子、マキができたことが今ボクたちにもできるんだ。そしてシルシくんやアノンちゃんと彼女には同じ所があるんだよ」
「僕達の境遇は似てる…のはさっき言った通りだ。でもそれがどうしたっていうんだ?」
「ううん、似てるじゃなくて同じ」
「どう表現しようが違いはないさ」
「違うの、シルシくん。同じ」
「ああ、確かにそうさ。だからなんだって言うんだ。それがそんなに重要か?」
 僕は思わず声を荒らげる。なのに、アキラは優しく微笑んでこういった。
「今ここに彼女そのものがあるんだ。マキはまだ生きてる。誰かの身体を借りて…」

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053-そして研究室へ(後後編6)

2012-11-26 22:24:29 | 伝承軌道上の恋の歌

「父さんが…しかし、なぜ?まるで分からない…だってヤエコはあの時すでにレシピエントが既にみつかっ…」
 そう言いかけて僕は脳裏に浮かんだものに口を遮られた。そうだ。思い出した。あの夜の一月程前に彼女のレシピエントが決まったという知らせを受けたことを。そしてその提供者が今は誰のことだか分かる。その彼女がここを逃げ出す訳も、父が彼女を見つけ出し殺そうとした訳も。そしてヤエコが死んだ訳も間違いなく彼女に深く関わっている…
「…それ以上は言うな、シルシ。考えてもいけない。ただ、懐かしむだけのためにある過去だ。太一も自ら死を選ばざるを得なくなった本当におろかで凄惨な計画だったのだ。君もつらい思いをするだけだ」
「…くそ…クソッ!」
 僕は思わずヨミの顔がのぞくカプセルを思う様に殴った。
「シルシ君…!」
 アキラが僕の腕を両手で掴んで止める。
 あいにくカプセルは一度かすかに振動を表面に伝えただけで、中のヨミはただ静かに目を閉じていた。
「さあもう時間だ。もうすぐやつらが来る」
「やつら…?」
「ああ。ヨミの父親とその取り巻きさ。このヨミに会いに来るんだ」
「教えてください。ヨミ、それにイナギはどうしてあんなことを…」
「その話は今度にしよう。あれは本当に計算外の事象のほつれだったのだから」
 やはりイナギの行動はウケイ先生にも予想がつかなかったらしい。
「…先生もういっちゃうの?またボク達の知らないところに?」
 そう言ってアキラはウケイ先生の腕にすがる。
「ああ。最後にアキラ、さあもうお別れだ」
 そう言ってウケイ先生はアキラを引き寄せる。
「先生、やだよ…」
 アキラは力なくそう嘆くと背の高いウケイ先生の肩に手を回して声を震わせた。だんだんとそれは嗚咽が混じり、ウケイの背中にすがった両手が白衣のシワを深くしていく。ところが。アキラが一瞬、「…あ」と声をもらすと力なく手を解くとそのままその場に力なく倒れこんでしまった。
「…先生?」
 アキラは何が起こったのかも分からないまま倒れこんで意識を失った。ウケイ先生の右手には小さな注射器のようなものが握られていた。何が起こったのかも理解できないまま戸惑っていた束の間、ウケイは倒れたアキラを乗り越え信じられないくらいに素早く僕に飛びかかり、厚手のセーターを貫いて肩に鈍い痛みを与えると、容器に残っていた溶剤を全て僕に流し込んだ。
「…ウケイ先生…あなたは」
 みるみる全身の力が抜け、どうにかウケイ先生の白衣の袖にしがみついていた片腕もあえなく崩れ落ちた。
「とにかくシルシ、お前が来てくれたことは好都合だ」
 好都合?そうか。いずれ僕もアノンと同じようにここに連れ去られる運命だった。それならどうかアノンより僕を先に生贄にしてくれないだろうか。もう疲れたんだ。寝る前にいつも練習してた。このまま二度と目覚めることなく終われるならそれもいいと。アキラ、巻き込んでしまってすまない。トトは…トトがちゃんと段取り通りしてくれれば、たぶん大丈夫だ。薄れ行く意識の中でわずかに開いた僕の瞳にウケイ先生が携帯電話を取って何かを話しているのが見えた。
「…ええ、手はずは整ってます。はい。そういうなら是非いらしてください。証拠をお見せしますから…」
 駄目だ。外界と僕をつないでいた細い糸もそろそろ途切れようとしているのが分かる。と、わずかに残った皮膚の感覚が耳元に人の気配を伝えた。『アノンを連れて早くここから逃げるんだ。そして一週間アノンを守れ』確かにそれは僕に伝えた。『あの夜のヤエコとマキのようにうまくやるんだ…』

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053-そして研究室へ(後中編5)

2012-11-25 21:54:00 | 伝承軌道上の恋の歌

「これは…」
 見えたのは灰色の波打った髪と、透き通るように白い肌、それに眠るように穏やかな表情をしてる。ガラスの向こうに覗くなめらかな肌の裸体は人のような人形にも人形のような人とも思えた。
「アキラ…誰か分かるか?」
「…ヨミ…ヨミで間違いないよ」
 アキラはそう答えるのに少しうろたえた。この絵空事のような事実を自分の言葉で定めてしまうことへの恐れを感じていたんだろう。
「ああ、その通りだ。ヨミは…生きてるんだ…あのポンプも全て、この研究所のシステム全てがヨミの身体の一部なんだ。これがあの温室の秘密だ。ごく一部のものをのぞいて職員たちにも、そして君の父親にも明かしたことはない。地球の寒冷化対策も太陽フレアからの生存戦略も、未来のリサイクルシステムも自然エネルギーによる自主電源の確保も全て方便さ。この装置を作るためのものだった。そして…」
 ウケイ先生は大きく吸い込んだ息を自分の胸にこみ上げる色々な感情を洗い流すようにゆっくりと吐いてからこう言った。
「…そして、これがデウ・エクス・マキーナの真実なのだ」
 デウ・エクス・マキーナ。まさかその言葉をウケイ先生の口から聞くことになるとは。
「この装置の以前の住人がアノンだ。アノンはこの研究所のための実験体でありレシピエントだった。本来ならある程度成長したところであらかたの臓器を奪われ、そのまま死んでしまうはずの運命だった。しかし、私はそうしなかった。いつかまたこの子が自らの力で生き延びられる日が来ることを願い私は生かし続けたのだ」
 それで僕は悟った。
アノンが何故記憶を持たないのかを。アノンは長い長い夢を見ながらこのカプセルの中でひたすら命をつなげていた。僕と同じ運命の元にいながら、僕はその研究者の死んだ息子の代わりに偽りの子となり、彼女は身体をバラバラにされて半ば死の淵で命を紡いでいたとはなんと皮肉な関係だろうか。
「僕達のような人間は…あの死んだ女の子の他にもいたんですか?」
 そう聞く僕の声は震えていた。が、ウケイ先生はそれに応じない。
「私はアノンを生かした。不思議に思うだろうな。人の命を弄んだ私が今更そのような感情に目覚めたというのも。それは単なる私のエゴだ。それ以外に説明のしようがない。しかし、この装置は彼女が自由を得たちょうどその頃に次の住人が決まった。まるで図られたようにな」
 そもそも何故アノンがここから出られたのか。それは誰かの犠牲があったからだ。ウケイにそれができた時といえばあの『事故』をおいて他にない。そして僕は二人の女の子の姿が脳裏によぎった。
「その次は…まさか…」
「ああ。あの夜に死んだ少女だ。私達は『マキ』と呼んでいた。しかし彼女は前と後の住人とは事情が違った。彼女は不可逆的に『死んでいた』。ただ、循環器を回し続けてそのみずみずしさを維持させていた。しかし、私は思うのだ。あそこに入りながら、マキは夢を見ていたのかも知れない…それがこの騒ぎを起こしてる。私はそう思うのだ。驚くほど忠実にこの研究所にまつわる私達の物語をメタファーしていた。デウ・エクス・マキーナ。機械仕掛けの神。私もヨミに教えられて最近知ったのさ。本来の語義はともかくとしてなかなかに本質を得たネーミングじゃないか」
「その彼女は…今…」
「ヨミが危機に陥った。だからマキの代わりにここに入れた。ヨミはいわば遅れてきた最後の患者だ。…もう素材はなかった。ヨミは遅すぎた。間に合わなかったのだ。あの部分は、アノンのために…もう随分前に彼女に使ってしまった」
「…」
「ああ、シルシ…お前を生かすためにも身体を使った…ヤエコの身体を提供した」
「…そんな」アキラがつぶやく。
「アキラ、勘違いしないで欲しいのだが、ヤエコはシルシのために死んだのではない。その前から死んでいた。シルシが事故に遭う前にだ」
「…そうです。その事実から逃れるために僕は周知活動をしていたようなものですから。ウケイ先生、僕は初めてこの問いかけをします。ヤエコはなぜ、どうやって死んだんですか…?」
 ウケイ先生は黙っていた。その代わりにヨミの顔に触れようとするかのように手のひらをなめらかなガラスの表面に這わせた。
「それは私にも分からない…ただヤエコは自ら命を絶ったのだと聞いた。少なくとも太一はそう言っていた」

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053-そして研究室へ(後前編4)

2012-11-24 22:21:28 | 伝承軌道上の恋の歌

 そこは異様な空間だ。部屋の中央にある巨大なカプセル状の装置と、そこから伸びているおびただしい数の配線とポンプの類。木が根を張るように部屋の壁につたって伸びている。が、見ているうちに人の肌から浮き出て見える血管にも思えた。有機的な無機質。それはまるで…
「ここはいわば私の個人的なラボだ。もとは薬品などの管理室だったものを、改造したんだ。ここの職員だったものもこの存在を知るものはほとんどいないだろう。地上にある温室はここの存在を隠すためのものだったのだ。さあ入りなさい」
 ウケイ先生に促されるままに僕はアキラの手を引いて、部屋の中に足を踏み入れた。そこはちょうど温室の広さと対応しているようで、さほどの大きさはなかった。もう一度自分を確かめるように周りを見渡す。しかし、ここに抱いた最初の印象はなおさらに強烈に頭の中で繰り返した。
「『伝承軌道上の恋の歌』のPVみたい…」アキラがつぶやく。
 そうだ。確かに今僕たちの前に広がる光景はまさにそれを連想させてしまう。僕を含めて研究所の関係者にすら秘された空間のはずだ。アノンがいつか言ったように『転写』したというのだろうか。しばし立ち尽くしていると、ふと空調だけが響く静寂に混じって微かな気配がした。あたりを見渡す。僕はある一点で目をとめた。それは片隅に顔をうずめてうずくまっている、人の姿だった。女の子に間違いはない。長い髪が身体を這って伸びていた。異様な部屋の中で、そこから逃れようとしているように身じろぎせずに片隅で身を丸めている。ワンピースに見えるのは白い病衣で、光が八方から反射して影すら落とさないせいからまるで幽霊だ。
「…アノン」
 そう僕が声をかけると、女の子はゆっくりと顔を上げる。やっぱりだ。アノンだ。やっと会えた。アノンは僕の顔を確かめると、それまで曇っていた顔が安堵で緩んでいく。別れてから数日なのにその顔はひどくやつれて見える。窪んだ瞳が泣きはらしたように赤くなって周りが腫れていた。それから力なくよろめきながら立ち上がる僕にすがって何事か必死で僕に語りかけようとする。
「どうして逃げ出したり…」
「…あ…あ」
 でも、うめき声のようなかすれた息が漏れるだけで、それは声にならない。
「…アノン、落ち着くんだ」
 僕はアノンの両方の肩を強く握ってアノンをどうにかなだめようとした。
「アノンちゃん、声が出ないんですか?」アキラがウケイ先生に聞く。
「…ああ。心因性のものだ。強いショックを受けたから」
「先生、アノンは一体…!?」
「あ…」
 アノンは何か声にならない声で僕に訴えかけようとしている。その唇は何か短い言葉を繰り返していることに気づいた。
「何が言いたい?アノン」
「…ヨミ…ヨミ、ヨミだな?それでヨミがどうしたんだ、アノン?」
 僕の言葉にアノンは強く頷いた。なおも何かを告げようとするがしかしかすれた空気がわずかに喉から発せられるだけで、はっきりとした音にならない。強く握った僕の腕は急に力を失って目がうつろになってその場に倒れこんでしまった。
「アノン!」
「アノンちゃん!」アキラが叫ぶ。
「…大丈夫、緊張が解けて気を失っただけだ。ここに来てから一睡もしていないようだったから。そこに寝かしてやるといい」
 ウケイ先生はそう言ってここの雰囲気には場違いに佇むベッドを指さした。
「なぜアノンがここに?」
 アノンを横にした僕は背中でウケイ先生に聞いた。罪のないアノンをここまで追い詰めた理不尽さに怒りに近い感情がこみあげてくる。
「彼女だ…彼女のためにだ」 
『彼女』ウケイ先生はそう言いながら、部屋の真中にあるカプセルにふれた。やはりあれは人を入れるための装置に違いない。よく見ると上部には見開きのように透明な部分があるのが分かった。それまで気づかなかったのは、天井からの強い光が反射していたからだ。ウケイ先生は僕達に確かめるように無言で促している。あのPVと同じならそこに眠るのはマキーナのはずだが、この現実では…
 恐る恐る近づいて二人で覗き込む。が、僕たちの顔が表面の形状通りに歪んで映し出されるだけだ。手をかざして光を遮ると一瞬そこには若い女の顔らしきものが覗いた。

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053-そして研究室へ(前後編3)

2012-11-23 22:32:23 | 伝恋‐あらすじ

 僕はといえば自分でも驚くほどに冷静だった。この事実をどこかで予感しながら、『周知活動』と称して自分で作った嘘をばらまいていたことの方がよほど馬鹿げていた。
「でも、全てを終わらせることはできなかった。」
 僕がつぶやく。その言葉の半分は自分にそして残りをウケイ先生に向けて。
「…クライアントが残っていたんだ。それがヨミだ。ヤエコとは全く異なる原因だが、ヨミもまた人の『身体』が必要な病に冒されていた。彼女の出自はちょっとした有力者の家でね。大事な娘をなんとか救おうと手を尽くす内にどこかでこの『ムスビ研究所』に辿り着き、そして私にいきあたった。そして、この闇を知り、人身売買のエージェントとなった組織とつるんで私を脅した。ヨミの家と組織の利害が一致したのだ。やつらは彼らで居なくなった臓器のレシピエント二人を探していたから」
「…その二人が」
「それがアノンとシルシだ。その二人なら、もとから存在しないはずの人間だ。そもそもレシピエントとして連れてこられたのだから目的に叶う利用をするつもりにでも思っていたのかも知れない。かくしてヨミはシルシ、アキラ、君達に続いて私の最後の患者になったのだ。しかし、ヨミは賢明な子だった。そして優しい子だった。自分のために誰かが何かが犠牲になることを嫌い、自分の運命を受け入れる代わりに家を飛び出した。そして全てを知った上で、自らの命を救うはずのレシピエントであるアノンを自分自身でかくまうことにしたのだ。そしてもしかのときは自分自身の命を人質にしてアノンの身を守ろうと覚悟していた…」
 そこまで言うとウケイ先生は立ち上がり僕達に背中を向けた。
「ウケイ先生?」
 アキラが見上げる後ろ姿でウケイ先生は眼鏡を外して深くため息をついた。
「まだまだ聞きたいことが…」
 僕が引きとめようと立ち上がると、ウケイ先生は眼鏡をかけ直し、僕達に振り向いた。
「シルシ、時間がない。話は一旦終わりだ」
 そう言うとウケイ先生はおもむろに歩き出した。
「どこに行くんですか?」
「ここの装置の前の住人、そしてさらに前の住人に会いに行くのさ」
 ウケイ先生はそう言うと、半ば迷路のようになっている植物の水槽で囲まれた一角に向かう。 そして床にある極くわずかなへこみに馴れた手つきで指を差し入れると、
床がハッチのように静かに開いて地下へと続く階段が現れた。
「地下…だよね?」
 アキラと僕はただ呆然とその光景を見守っていた。この棟に地下フロアがあるなんて聞いたことがない。他の階段でもエレベーターでもその存在をうかがわせるものはなかったはずだ。しかしウケイ先生は僕らに背を向けたまま何も言わずに青白く染まった非常階段を降りていく。ひっそりと鳴らす足音がより深い反響に馴染んでいくのはそこが地下であることをよく表していた。階段はすぐに終わると、円柱をめぐるように半周の薄暗い鉄の廊下が続き、そしてウケイ先生の足が止まる。彼の前には大きく分厚い黒い扉が行く手を遮っていた。薄暗い廊下にあっても周囲を囲んでいる白みの壁とは明らかに異質なのが分かる。脇に埋め込まれている緑色の光を放っている小さなパネルをウケイ先生はすこし腰をかがめて覗くと空気圧が少し抜ける音がして、真っ白な光が漏れて広がった。
「…さあ、入るんだ」

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053-そして研究室へ(前中編2)

2012-11-22 22:17:50 | 伝承軌道上の恋の歌

「この研究所の所長でありシルシの父親である太一には二人の子供がいた。奥さんも彼と同じく研究者だったが、実験中の事故が元で早くに死んでしまった。太一は大いに嘆いたが、悲劇はそれだけではなかった。彼女の忘れ形見である二人の子供にも重大な遺伝子病を患っていたのだ。それは我々にとってまるで未知のもので、症状が出始めると見た目にこそ分からないが急激な内臓疾患を伴い死に至る。処置が遅れた長男は三歳で死んだ。その彼らの症状が我々の研究によってもたられたものである疑いが出たのはまだ少し後のことだったが、それはまた別の話だ。その時生まれたばかりの妹ヤエコも心配されたが幸い息災に見えた。しかし、太一が恐れていたことは現実となった。ヤエコがちょうど十歳の時、兄と同じ兆候を見せ始めたのだ。対処はしたが、それには過酷な処置が必要だった。定期的な透析や血液の入れ替えが必要だったのだ。生かすことは可能だが、しかしこれではいずれ死んでしまう。大規模な臓器移植をしなければならない。それでも生き延びられるかは分からなかったが、ヤエコの体力が持つ年頃までどうにか持ちこたえて最後の望みにつなげるしかなかった。このことを太一はごく限られたものにしか打ち明けなかった。未知の疾患に対する彼の研究者としての功名心もしくは自尊心のようなものだったのかも知れない。長男が死んでから我を忘れたように太一は研究に没頭していたからね」
「ウケイ先生、そのヤエコちゃんのお兄さんって…」
「シルシ…と言った」
 ウケイ先生が答えたのはたったの一言だった。しかし、これから彼によって語られる事の顛末を予感させるには充分だった。
「ここで研究所そして太一はもう一つこの大きな秘密を抱えていた。もともと彼は臓器移植に関しても造詣が深かったが、何より彼の独自のルートによる上質で新鮮な臓器を提供することでこの研究所は業界でも一目置かれていた。一体どこからそれらを手に入れることができるのか?ES細胞幹による臓器生成を完成させてると囁かれたりもした。事実、私達の研究はそのためのものだったから。しかし、それは深い深い闇だった。彼の息子が死んでいく少し前、すぐに太一は亡き息子と同じくらいの、どこか異国情緒を感じさせる男の子を連れてきた。聞けば身寄りのない子供を引き取って養子に迎えたのだという。これで妻やヤエコも寂しくはないだろうと」
「…その子が『シルシ』君…」アキラがうつむいたままつぶやく。
「その通りだ。彼はどこから引き取ったのか?そして何故?知る由もなかったが、あえて深く聞くことははばかられたのだ。彼は過酷な運命を持て余したが、部下とは言え親友の一人のつもりであった私自身もそうだった。全く知らなかったといえば嘘になる。しかし、関わらなかったのだ。あの太一が死んだあの事故が起こるまでは。そして私は衝撃的な真実を知った。彼は異国の闇社会より人身売買で買われた人間から取り出された臓器を手に入れていたのだ…」
「…そんな…」
 アキラが小刻みに震えている。
「でも、それならなぜ僕は無事だったんでしょう?」
「正確な時期は定かではないが、太一の闇を知った奥さんがそれをやめさせたからだ。シルシのために死ぬ目的で連れてこられた異邦からの遺児はそのために助かり、亡き妻の意向に従い彼を養子にした。戸籍どころか書類上は存在すらしない子のために自分の息子と偽ってね…シルシ、君はそのことに薄々気づいていた。そうだろう?」
「ええ。首元の番号も僕の顔立ちもあまりに両親やヤエコとは違っていましたから…」
 そして僕の顔はどこかアノンと同じだ。今ならそう言える。
「話を戻そう。しかし、太一は恐れていた。ヤエコがいつか息子と同じ病気を併発するかと…果たして恐れていたことが起こった時、太一は再び悪魔の手先となって材料となる女の子を手に入れた。家族で一人残った娘のヤエコのために、ね」
「それがアノン…ですか?」僕は聞いた。
「いや違う。アノンはその前から、『シルシ』より前に『ここ』で生まれた。アノンではない、別に女の子がいたのだ」
 そこでアキラはハッとして思わず声をあげた。
「それがあの事故で死んだ女の子…!」
「そうだ。その子はヤエコの手術の直前になって逃げ出したんだ。太一は血眼になって探したさ。彼女が逃げられるのはヤエコの命にも、そして彼のみならず研究所自体にも危ういことだったから」
「じゃあ、その女の子を轢いたのって…殺したのって…」
「ああ、その事実を永遠に闇に葬るためだ」
「…そんな」
 アキラはあまりのことに言葉を失っていた。

…つづき

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053-そして研究室へ(前前編1)

2012-11-21 23:01:43 | 伝承軌道上の恋の歌

 翌朝、ずっとタクシーから見慣れた車窓が流れるのに僕達は黙って従っていた。ロボットのように無言の運転手に連れられて両脇のドアは自動で開いて僕達は降りた。重い足取りで立つ、その場所の先にある眼の前の構造物は決定的に断定的に現実を歪めて在った。
「この前来たばっかりなのに今日は特別懐かしいね」
 アキラが初めて口を開く。
「僕にはまるで違って見えるよ」
「大丈夫。お互い何も変わってないから」
 アキラは笑うと僕の手を取った。
「誰かに見つかったら?」
「むしろ捕まった方がアノンに会えるかもしれない。でも大丈夫。無謀な賭けじゃない。トトには一時間以上連絡なかったら、動いてもらうように頼んでるから」
「…分かった」
 アキラはそれきり黙る。そしてゲート横の通用口のスロットにカードを通すとゲートが上がる。二人で重なって通れば何のことはない、あっけなく通り過ぎることができる。
「ほんとずさんだよね。実は誰でも出入りできるんじゃない?」アキラが言うと
「ウケイ先生に言わせると様式美なんだそうだ」僕は答えた。
 人影はない。が、気配は感じていた。アノンはきっとここにいる。確信をもって鍵のかかっていない裏口の扉を開く。僕達だけの足音が響くひっそりとした医療棟の廊下には複数の人の足あとがはっきりと見て取れた。
「…この足あとって…」アキラがつぶやく。
「ああ」
 間違いない。モノを襲ったやつらのものだろう。僕はその足跡の中にただ一つはぐれて伸びている足跡がある。それに導かれるように僕は歩を進める。
「どこに行くの?」アキラが不安そうに聞く。
 長らく閉鎖された研究棟に相応しくないあの『温室』、光の差す庭へ続いていた。スチール製の扉を音を立てないようにゆっくりと開けると、微かな物音と人の気配があった。
「…シルシくん、誰か居るよ」アキラが殺して僕にそう伝える。
「…ああ」
 それはガラスのドームの中で、ひだまりを一身にあびて立っている。少し丸まったこちらに背は白衣に包まれて、五十がらみを思わせる波打った灰色の髪が、光になびいていた。手元にはじょうろを持って、窓辺に並べられた花壇の花に水をやっている。どうやら彼が足あとの主のようだ。その一歩目を踏み出す前にも僕達は少しも戸惑わない。彼に向かっていく。そして僕を追い越してアキラがずっと早足になって。
 後ろ姿の彼が手を止める。こちらに気づいたようだ。しかし振り返ることはなかった。
「…シルシか?」
 大きくひらけたガラスの窓にうっすらと浮かび上がっている僕らとそしてその男の顔。
「…それにアキラ」男はそう言うと振り返った。
「…ウケイ先生!」アキラが声を震わせる。
「久しぶりだな」
 白いものが混じった口ひげの奥に隠れた口元が密かに笑う。目尻の少したれた穏やかな瞳には厳しく強い光が宿っていた。やっぱりウケイ先生だ。何も変わってない。
「どうしてどっかにいっちゃったんですか!ボク達ずっと探してたんだよ」
 アキラの声にはどこか甘えた響きがあった。
「どっかに言ったわけじゃない。ずっと見ていたさ。観測するたびにそこに世界が定まるのを感じながら、な」
「…また、わけわからないこと言って…良かった、ウケイ先生だ」
 感極まったアキラに抱きつかれると、ウケイ先生は優しく頭を撫でてやった。
「ああ。アキラは少し…いやだいぶ変わったな…女の子らしくなった」
「ははは。まあね。でもウケイ先生のお陰だよ」
 ウケイ先生は肩を抱いたまま優しくアキラを引き離すと僕を見る。
「…ウケイ先生。僕は…」
 精一杯の僕の声はかすれたまま彼に届いた。
「僕は間違えたんですか?」
「…」
 ウケイ先生は答えない。だから僕はもう一度聞いた。
「僕はどこで間違えたんですか、ウケイ先生?」 
 ウケイは
「どこまでアキラに話したんだい?」と僕に聞いた。
「まだ全部じゃないよ…」アキラが代わりに答える。
「アキラ、お前には私からちゃんと言っておくべきだった。そうすればもう少しシルシも楽になれたのだろうな」
「違うよ、先生。ボクの責任でもあるんだ。あれからずっと大変で、シルシ君がまた事故に巻き込まれたり、今度はまた誰かに殺されそうになってたり…」
「すまないな。この騒ぎは私のせいでもあるんだ」
「やっぱりウケイ先生、知ってる。それじゃボクだけ仲間はずれにされてたみたいだよ」
「しかし知ってしまったらもう無関係とはいえなくなる。それでも知りたいかい?」
「はい。覚悟はできてます」
 ウケイ先生はアキラをそっと引き離して傍らにあるカウチに腰を下ろすと、アキラと僕を隣に並べる。
「…では話そう」
 そう言って祈るように両手を組んでふとももに肘をついて背中を丸めた。その目はどこか定まらない遠くを見ているようだった。

…つづき

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