玉ノ井の娼館は大正7年頃から始まったと言われ、大正12年の関東大震災で被害に遭った、浅草から流入した業者によって発展します。大正15年には娼婦の数が653人でした。昭和5年には902人との記録があります。一般にいう旧「玉ノ井遊郭」は「玉ノ井いろは通り」の南北になります。南側にあった「私娼窟」は東京大空襲で焼けてしまってその痕跡はありません。北側は無傷だったので、戦後の「赤線」に続きます。東京大空襲で焼け出された南側の業者が移転した先が「鳩の街」(の現況はこちら)です。
さて、戦争で焼けなかった戦後の元赤線地帯を訪問しました。「玉ノ井」の名称は各所に残っています。
もう随分年月が経っているので、痕跡も残っていないと思い込んでいたのですが、実際に見てから結論を出そうと思い、今までよりちょっと丁寧に散策しました。娼館の特徴は、カフェ風建築の丸い柱と大きな窓です。確証はありませんが、この路地の正面がそうだと思います。
「鳩の街」より保存状態は悪いですが、その特徴を残した家をサラリと眺めました。タイル貼りの円柱を塗料の吹き付けで目立たなくしています。
窓の装飾も特徴的です。
同様にこちら正面玄関脇です。
以下、説明抜きで。
こちらにも在りました。円柱の家です。
ここもそうだと思います。みんな古い建物をリフォームして使っています。これは「鳩の街」でも「須崎パラダイス」でも同様です。
向こうは東武スカイツリーラインの高架です。
無かったことにしてはいけません。貧しい時代に存在した歴史の名残りです。皆が正業で暮らせる経済が必須です。
濹東綺譚でしたよね。
昔の文豪の作品は、ストーリーよりも文章の美しさや情緒で読ませるような気がして、短編など好きです。
遊郭建築って一種独特ですよね。
最近は写真集も多く出ていて、関西だと料亭になっているところもあるので行けるのですがちょっと!
でも見てみたいですね。
そうですね。永井荷風は東京の多くの遊郭に通って娼婦に情を寄せていたようです。
本人は「投げ込み寺」と呼ばれた三ノ輪の浄閑寺に葬れたかったのに、雑司ヶ谷で、仲の悪かった父の隣に葬られています。
独特の人生ですよね。
残されたということは、現在もそこに住んでいる人が居る建物なので遠慮しますね。