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荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

伊藤左千夫の墓へ行く。/2019年初冬

2019年12月22日 | 散文

前回の続きです。

普門院の門前に居ます。久しぶりに「伊藤左千夫の墓」碑を読んでみます。私には「野菊の墓」の作者ですが、こんな人です。「左千夫は元治元年千葉県に生まれ今の墨田区錦糸町付近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派歌人として知られ小説歌論にも著書を残したが、晩年は大島町六丁目に住み大正二年七月三十日五十歳にて死去し普門院に埋葬される」

 

正岡子規の墓を「大龍寺」に決めたのが伊藤左千夫です。

院内が黄葉で燃えています。散り残りの銀杏です。

 

 

前出の毘沙門堂脇を墓地に行きます。竹薮の参道です。

 

西日が刺す角を右折します。

 

すぐに案内柱があります。

 

左千夫の墓はあの奥です。

 

正面突き当たりには緑の物体があります。後ほど紹介します。

 

左手に左千夫の墓があります。卒塔婆が新しいです。最近周年忌があったようです。没後106年ですが・・・

 

墓の右には名刺入れがあります。

 

さて、ここに「『左千夫先生のノート』が入っています」と書かれた灯籠風の物体を開けます。

 

開けるとノートが入っています。

 

手に取ります。今でも多くのファンの訪問が絶えません。

 

初冬の光の中に佇む墓です。

 

文学的です。

 

墓石は割れていますが、かえってこれが風情を醸しています。

 

木漏れ日に眠る伊藤左千夫です。

 

見上げれば冬の空です。

 

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普門院にある著名人の墓と献上石灯籠

2019年12月22日 | 散文

江東区の北の奥に普門院があります。亀戸天神の近くで、その先の北十間川を越えれば墨田区です。鬱蒼たる樹木の向こうには意外な大きさでスカイツリーが見えるので、その位置関係が分かると思います。

 

亀戸七福神の一つ、毘沙門堂がある寺です。

 

隣には立派な如来像もあります。

 

その脇には戦災殉難供養塔がある立派な寺院ですが、荒れ気味の寺ではあります。

 

よく通る道路脇にありながら今まで気に止めて無かったのですが、門前に山号院名を書いた大きな石柱がありました。でもこうなったら読めません。

 

その前に、つまり、門前のスペースに比較的新しい石柱がありました。かろうじて「大島伯鶴の墓」と読めました。傍には石碑があります。おそらく伯鶴なる人の功績等が書かれていると推察しますが、藪に阻まれます。強引に掻き分ければ行けそうですが、伯鶴なる人にそこまでする興味も義理もありません。

 

 帰宅後、でも気になったので、ウィキペディア調べたらこんな人でした。

 大島伯鶴

おおしまはっかく

講釈師。

初代

(1857―1912)本名大島光利。2代目松林(しょうりん)伯円の四天王の一人といわれ、松林伯鶴を名のるが、3代目伯円襲名問題で松林を返し、1903年(明治36)本姓を名のる。足尾鉱毒事件など新聞読みを得意とした。[延広真治]

2代

(1877―1946)本名大島保利。初代の実子。親子では本格的修業ができぬと一時旭堂(きょくどう)南慶に預けられ、小伯鶴より2代目を襲名。邪道視もされたが素人(しろうと)受けする明るい芸風で、『寛永(かんえい)三馬術』『快男子』などを得意とし、ラジオを通じ、全国で絶大な人気を博し、お座敷をもっぱらとした。[延広真治]

初代か2代かの確認は、上記の理由でできていません。

 

門の反対側には石灯篭があります。これは何度も見ていますが、今まで気にしたことはありません。今日は「大島伯鶴の墓」を見つけたこともあって、注視してみました。「常陸岩英太郎」と「式守与太夫」と書いています。「式守」といえば、相撲関係かな?と思いました。

 

調べたらこんな人でした。ちょっと長くなりますが面白いので、ウィキペディアを転写します。

 

 先ずは相撲界の

三太夫(さんだゆう)は、大相撲における行司名跡である式守与太夫式守勘太夫式守錦太夫の総称である。もとは伊勢ノ海部屋の名跡で、明治30年代までは伊勢ノ海部屋、もしくはその分家の部屋の行司のみが襲名していた。

木村庄之助式守伊之助に準ずる由緒ある名跡であり、明文化された規則はないが幕内格以上が襲名する。特に大正後期に5代与太夫 (のちの19代庄之助) ・3代勘太夫 (のちの14代伊之助) ・3代錦太夫 (のちの松翁20代庄之助) の3名が三役格行司に在位した時代は 「名行司三太夫」 と呼ばれた。

 

 でその与太夫とは、

式守与太夫[編集]

2009年1月場所、8代式守錦之助が幕内格に昇進し12代与太夫を襲名。与太夫の名乗りは式守伊之助への出世名であり、2代から7代までの与太夫と11代与太夫が伊之助(36代)昇進直前に与太夫を名乗っている。主に時津風一門立浪一門の部屋に所属する行司が名乗る。かつては錦太夫を名乗ったのち、与太夫を名乗る(3代、4代、6代、7代、9代が前名錦太夫)時期があったが、現在では錦太夫を経ず与太夫を襲名する。10代目が一時、与太夫から「與太夫」を名乗ったことがある。また11代与太夫は三役格在位4場所という史上最短で立行司に昇進した。12代与太夫が本人の希望で名跡を返上したため[1]、2019年5月場所現在は空き名跡。

 

灯篭の一方は、

常陸岩英太郎

1900年3月9日に、東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区日本橋)にあった有名天ぷら店「なかや」の二男として生まれる。小学校を卒業後に酒問屋へ奉公に出たが、そこへ出入りしていた好角家の医師に出羽海部屋を紹介されて入門、1917年1月場所で初土俵を踏んだ。あんこ型の短躯だが均整の取れた体格で、鋭い出足と巨腹を生かしての吊り、寄りを得意とした。スロー出世だが着実に力を付け、1922年5月場所で新十両昇進を果たした。この直後に出羽ノ海が死去したことで、出羽ノ海にとっては最後の関取となった。

1923年5月場所で新入幕を果たすと能代潟錦作と競い合い、大関昇進争いでは敗れたものの後を追うように1927年5月場所において大関昇進を果たした[1]。同年10月場所では能代潟にこの場所唯一となる黒星を付けたことで、この場所が能代潟と合星(10勝1敗)だった常ノ花寛市の幕内最高優勝の援護射撃となった。この場所の常ノ花には不戦勝があったが、この時は後述のような騒動には発展しなかった。

しかし、1928年1月場所においてその不戦勝を巡って騒動が発生する。当時の幕内は11日間興行だが、常陸岩は6日目の清瀬川敬之助戦で敗れただけの1敗で、全勝の三杉磯善七(前頭13枚目)を追いかけていた。常陸岩は10日目に西ノ海嘉治郎 (3代)との対戦が組まれたが、この取組を西ノ海が休場したことで常陸岩は不戦勝となった。ところが、当時は不戦勝が制度として定着しておらず、幕内で「不戦勝」が適用されるのは10日目と千秋楽(11日目)の2日間のみ[2]で、それ以外は従来通り両者とも「休み」としていた。そのため、この場所が全勝の三杉磯は千秋楽の玉錦三右エ門戦で敗れて10勝1敗、常陸岩は宮城山福松戦に勝利して10勝1敗となり、三杉磯と常陸岩が同点で並んだが、優勝決定戦が存在しない代わりに「番付が上位の者が優勝」という当時の規約(優勝決定戦1947年に開始)に則って常陸岩の優勝が決定した。それまでの規約だった「対戦相手が休めば自分も休み」が適用されていれば三杉磯の優勝だったこの場所は、常陸岩が6日目に対戦予定だった西ノ海が休場したことで常陸岩が不戦勝となり、この白星一つの差が優勝争いに大きく影響した。

ただ、この状態では優勝決定戦が存在しなかった当時の感覚では、いくら全勝で優勝争いを牽引してきたと言っても、幕尻(15枚目)から2枚目の力士が小結と割が組まれるのは不自然な話[3][4]で、相手力士の休場による不戦勝と、土俵上で勝負した上での白星を同等に扱うか否かの規制も無し、さらに不戦勝制定以前の時代だったことで人気力士だった常陸岩が、三杉磯の後援者からのクレームもあって悪者扱いされた[1]。これに対して常陸岩が「(優勝を)三杉磯関へ譲りたい」とまで言ったとされる。結局、常陸岩には幕内最高優勝として天皇賜杯が贈られたほか、三杉磯に対しては特別表彰として化粧廻しを送ったほか、優勝額2枚を作成して両者に贈呈することで決着がつき、場所後には不戦勝について「初日からの全取組で全力士に適用」「土俵上で勝負しての白星と同格の白星」「土俵上での勝ち名乗りも受ける(受けなければ両者とも放棄試合による不戦敗)とする新制度が固められた。

常陸岩はこの優勝で横綱昇進も期待されたが、糖尿病によって体調を崩して1929年3月場所の全休から調子が下降、1931年3月場所で玉錦と入れ替わるように引退するまでの3年間で、2場所連続勝ち越しも僅か一度しかないという乱調ぶりだった。引退後は年寄・境川を襲名して、出羽海部屋で後進の指導にあたったほか、新聞に相撲評を書いた。1957年7月21日に死去、57歳没。

 

筆者:「常陸岩英太郎」の時代と照合すると、この石灯篭の献上者の「式守与太夫」はこの人物だと思います。

式守伊之助 (16代) 

16代 式守伊之助(じゅうろくだい しきもりいのすけ、1892年6月20日 - 1948年12月3日)は、大相撲立行司。本名は刀根亀吉、山形県山形市出身。

伊勢ノ海部屋所属、のち出羽海部屋9代式守伊之助の弟子(のち養子)。わずか6歳で初土俵。松翁20代木村庄之助21代木村庄之助の弟弟子。

出世は兄弟子の21代庄之助よりも早かったが、行司引退も45歳と早かった。その後、年寄立田川を襲名して理事まで昇進した。1948年胃癌のため56歳で死去。

人物[編集]

22代木村庄之助著『二十二代庄之助一代記』によれば、頭脳明晰で事務能力が素晴らしく、話のわかる人物だったが、太っていて行司にはやや不向きであったようである。

また、故実などを覚えようとはせず、本来立行司の職務である土俵祭も、同じく立行司の20代庄之助(松翁)に任せ、一度も行ったことがなかったという。

履歴[編集]

  • 1899年5月  初土俵・式守亀司
  • 1910年春  4代式守錦之助を襲名。
  • 1922年春  幕内格に昇進。4代式守錦太夫を襲名。
  • 1927年春  三役格に昇進。7代式守与太夫を襲名。
  • 1932年10月 16代式守伊之助を襲名。
  • 1938年夏  行司引退。年寄・立田川を襲名。
  • 1948年12月3日 死去。

 

その石灯篭脇に、実は本日の目的である「伊藤左千夫の墓」の石柱があります。

久しぶりに訪ねて来たわけですがこんなことに興味を持ったので、その話は次回に・・・

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