江東区の北の奥に普門院があります。亀戸天神の近くで、その先の北十間川を越えれば墨田区です。鬱蒼たる樹木の向こうには意外な大きさでスカイツリーが見えるので、その位置関係が分かると思います。

亀戸七福神の一つ、毘沙門堂がある寺です。

隣には立派な如来像もあります。

その脇には戦災殉難供養塔がある立派な寺院ですが、荒れ気味の寺ではあります。

よく通る道路脇にありながら今まで気に止めて無かったのですが、門前に山号院名を書いた大きな石柱がありました。でもこうなったら読めません。

その前に、つまり、門前のスペースに比較的新しい石柱がありました。かろうじて「大島伯鶴の墓」と読めました。傍には石碑があります。おそらく伯鶴なる人の功績等が書かれていると推察しますが、藪に阻まれます。強引に掻き分ければ行けそうですが、伯鶴なる人にそこまでする興味も義理もありません。

帰宅後、でも気になったので、ウィキペディア調べたらこんな人でした。
大島伯鶴
おおしまはっかく
講釈師。
(1877―1946)本名大島保利。初代の実子。親子では本格的修業ができぬと一時旭堂(きょくどう)南慶に預けられ、小伯鶴より2代目を襲名。邪道視もされたが素人(しろうと)受けする明るい芸風で、『寛永(かんえい)三馬術』『快男子』などを得意とし、ラジオを通じ、全国で絶大な人気を博し、お座敷をもっぱらとした。[延広真治]
初代か2代かの確認は、上記の理由でできていません。
門の反対側には石灯篭があります。これは何度も見ていますが、今まで気にしたことはありません。今日は「大島伯鶴の墓」を見つけたこともあって、注視してみました。「常陸岩英太郎」と「式守与太夫」と書いています。「式守」といえば、相撲関係かな?と思いました。

調べたらこんな人でした。ちょっと長くなりますが面白いので、ウィキペディアを転写します。
先ずは相撲界の
三太夫(さんだゆう)は、大相撲における行司の名跡である式守与太夫・式守勘太夫・式守錦太夫の総称である。もとは伊勢ノ海部屋の名跡で、明治30年代までは伊勢ノ海部屋、もしくはその分家の部屋の行司のみが襲名していた。
木村庄之助や式守伊之助に準ずる由緒ある名跡であり、明文化された規則はないが幕内格以上が襲名する。特に大正後期に5代与太夫 (のちの19代庄之助) ・3代勘太夫 (のちの14代伊之助) ・3代錦太夫 (のちの松翁20代庄之助) の3名が三役格行司に在位した時代は 「名行司三太夫」 と呼ばれた。
でその与太夫とは、
式守与太夫[編集]
2009年1月場所、8代式守錦之助が幕内格に昇進し12代与太夫を襲名。与太夫の名乗りは式守伊之助への出世名であり、2代から7代までの与太夫と11代与太夫が伊之助(36代)昇進直前に与太夫を名乗っている。主に時津風一門・立浪一門の部屋に所属する行司が名乗る。かつては錦太夫を名乗ったのち、与太夫を名乗る(3代、4代、6代、7代、9代が前名錦太夫)時期があったが、現在では錦太夫を経ず与太夫を襲名する。10代目が一時、与太夫から「與太夫」を名乗ったことがある。また11代与太夫は三役格在位4場所という史上最短で立行司に昇進した。12代与太夫が本人の希望で名跡を返上したため[1]、2019年5月場所現在は空き名跡。
灯篭の一方は、
常陸岩英太郎
1900年3月9日に、東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区日本橋)にあった有名天ぷら店「なかや」の二男として生まれる。小学校を卒業後に酒問屋へ奉公に出たが、そこへ出入りしていた好角家の医師に出羽海部屋を紹介されて入門、1917年1月場所で初土俵を踏んだ。あんこ型の短躯だが均整の取れた体格で、鋭い出足と巨腹を生かしての吊り、寄りを得意とした。スロー出世だが着実に力を付け、1922年5月場所で新十両昇進を果たした。この直後に出羽ノ海が死去したことで、出羽ノ海にとっては最後の関取となった。
1923年5月場所で新入幕を果たすと能代潟錦作と競い合い、大関昇進争いでは敗れたものの後を追うように1927年5月場所において大関昇進を果たした[1]。同年10月場所では能代潟にこの場所唯一となる黒星を付けたことで、この場所が能代潟と合星(10勝1敗)だった常ノ花寛市の幕内最高優勝の援護射撃となった。この場所の常ノ花には不戦勝があったが、この時は後述のような騒動には発展しなかった。
しかし、1928年1月場所においてその不戦勝を巡って騒動が発生する。当時の幕内は11日間興行だが、常陸岩は6日目の清瀬川敬之助戦で敗れただけの1敗で、全勝の三杉磯善七(前頭13枚目)を追いかけていた。常陸岩は10日目に西ノ海嘉治郎 (3代)との対戦が組まれたが、この取組を西ノ海が休場したことで常陸岩は不戦勝となった。ところが、当時は不戦勝が制度として定着しておらず、幕内で「不戦勝」が適用されるのは10日目と千秋楽(11日目)の2日間のみ[2]で、それ以外は従来通り両者とも「休み」としていた。そのため、この場所が全勝の三杉磯は千秋楽の玉錦三右エ門戦で敗れて10勝1敗、常陸岩は宮城山福松戦に勝利して10勝1敗となり、三杉磯と常陸岩が同点で並んだが、優勝決定戦が存在しない代わりに「番付が上位の者が優勝」という当時の規約(優勝決定戦は1947年に開始)に則って常陸岩の優勝が決定した。それまでの規約だった「対戦相手が休めば自分も休み」が適用されていれば三杉磯の優勝だったこの場所は、常陸岩が6日目に対戦予定だった西ノ海が休場したことで常陸岩が不戦勝となり、この白星一つの差が優勝争いに大きく影響した。
ただ、この状態では優勝決定戦が存在しなかった当時の感覚では、いくら全勝で優勝争いを牽引してきたと言っても、幕尻(15枚目)から2枚目の力士が小結と割が組まれるのは不自然な話[3][4]で、相手力士の休場による不戦勝と、土俵上で勝負した上での白星を同等に扱うか否かの規制も無し、さらに不戦勝制定以前の時代だったことで人気力士だった常陸岩が、三杉磯の後援者からのクレームもあって悪者扱いされた[1]。これに対して常陸岩が「(優勝を)三杉磯関へ譲りたい」とまで言ったとされる。結局、常陸岩には幕内最高優勝として天皇賜杯が贈られたほか、三杉磯に対しては特別表彰として化粧廻しを送ったほか、優勝額2枚を作成して両者に贈呈することで決着がつき、場所後には不戦勝について「初日からの全取組で全力士に適用」「土俵上で勝負しての白星と同格の白星」「土俵上での勝ち名乗りも受ける(受けなければ両者とも放棄試合による不戦敗)とする新制度が固められた。
常陸岩はこの優勝で横綱昇進も期待されたが、糖尿病によって体調を崩して1929年3月場所の全休から調子が下降、1931年3月場所で玉錦と入れ替わるように引退するまでの3年間で、2場所連続勝ち越しも僅か一度しかないという乱調ぶりだった。引退後は年寄・境川を襲名して、出羽海部屋で後進の指導にあたったほか、新聞に相撲評を書いた。1957年7月21日に死去、57歳没。
筆者:「常陸岩英太郎」の時代と照合すると、この石灯篭の献上者の「式守与太夫」はこの人物だと思います。
式守伊之助 (16代)
その石灯篭脇に、実は本日の目的である「伊藤左千夫の墓」の石柱があります。

久しぶりに訪ねて来たわけですがこんなことに興味を持ったので、その話は次回に・・・