12月12日、金曜日。
午後15時50分。
曇りだけど、富士山の上空だけ晴れています。
真っ白な富士山の頭のところが
あたたかな明かりで照らされています。
鳥が飛び
階段のような雲が浮かんでいます。
あの雲の階段を上っていったら
きっと、それはそれは素晴らしい世界があるのだろうな?
…なんてね、ほんの数分間の遥か彼方に見えた風景は
そんなことを思わせる、
優しい空に見えました。
今日は、偶然、興味深い写真パネルと出会いました。
広島と長崎の写真でした。
ほんの数枚なのだけどね?
広島では原爆ドーム
長崎では浦上天主堂が
元の姿も分からないくらいボロボロの姿で佇んで
ドームや天主堂のまわりは何にもない
人も建物も、草木一本もない
2枚の写真を見る機会がありました。
広島の写真は何度か見たことがあったけど
長崎の写真は、初めて見たと思います。
広島の写真かと思ったら、説明文を読んだら長崎で
写っている建物は、確かに天主堂でした。
間違えてしまうくらい、天主堂もボロボロで
まわりには何もない、青冷め途方に暮れた
悲しみすら消えてしまったかのような
冷酷なほど無味無臭であり
でも、“とてつもない痛み”を感ずる
そんな写真でした。
何度見ても衝撃的で
あの写真には写っていないものが
僕の想像も及ばない世界が写っているようなね…
二度とあってはならないと、消えていった
命が数え切れない位あること
草木一本も生えていない写真に
思った、今日のこと。
今は、本当に、平和だね?
屋根の下で眠られる
ご飯食べられる
今日のおかずは何かな?とワクワクする
働ける
ドライブできる
書店で立ち読みできる
お墓参りして
神社へ行ってお参り(お詣り)できる
メールできる
ボジョレー飲める
音楽を聴ける
ピアノが弾ける
草花を愛でられる
星空を眺められる
家族といられる
友人が、知人が、皆が
元気でいる
ものすごく、ありがたいこと、だね?
いつも、広島や長崎のことを思うのは
蒸し暑い真夏の頃だけど
今日は、寒い12月。
冬は、街を見たくなる心理があるような気がするけど(昨日も書いたね?)
そんな季節に
あたたかな灯りがともっていた街が
さまざまな人生が生きていた街が
一瞬で全てを奪っていった日のことを思いました。
そんな機会があった、12月12日。
12と聴いて思い浮かぶのは
十二音階
十二宮
十二支
十二単
十二使徒
十二使徒…
12がいっぱいだなぁ…と思った矢先
なにもなくなった
焼け野はらの中でボロボロになり佇む天主堂を偶然見たこと
十二使徒が思い浮かぶのは、特別な意味はないのかもしれないけど
そんな過去があったことを
冬に思い出したことを
ふいに書きたくなって、
書かなければいけないのかな?…と
勝手に思い、
今日、僕が感じたことを下手だけど
書いてみました。m(_ _)m
哀しみが、悲しみが
星に導かれ
光になっていますように。
街の灯りが、明かりが
ずっと続いていきますように。
『なんにもなかった』
あなたの光は導いていく
あなたを支える影は
今日も一日を無事送った
ぽつんと
佇む哀しみを
ある日背負った
引き換えに彼らは永遠となり
とつとつと
季節が来れば話すのだ
人という生き物は
可愛いけれど
時に、冷酷な赤ん坊になると
本当は
光なのに
本当は
あたたかな手をしているのに
風景には本当に
なんにもなかった
*
午後15時50分。
曇りだけど、富士山の上空だけ晴れています。
真っ白な富士山の頭のところが
あたたかな明かりで照らされています。
鳥が飛び
階段のような雲が浮かんでいます。
あの雲の階段を上っていったら
きっと、それはそれは素晴らしい世界があるのだろうな?
…なんてね、ほんの数分間の遥か彼方に見えた風景は
そんなことを思わせる、
優しい空に見えました。
今日は、偶然、興味深い写真パネルと出会いました。
広島と長崎の写真でした。
ほんの数枚なのだけどね?
広島では原爆ドーム
長崎では浦上天主堂が
元の姿も分からないくらいボロボロの姿で佇んで
ドームや天主堂のまわりは何にもない
人も建物も、草木一本もない
2枚の写真を見る機会がありました。
広島の写真は何度か見たことがあったけど
長崎の写真は、初めて見たと思います。
広島の写真かと思ったら、説明文を読んだら長崎で
写っている建物は、確かに天主堂でした。
間違えてしまうくらい、天主堂もボロボロで
まわりには何もない、青冷め途方に暮れた
悲しみすら消えてしまったかのような
冷酷なほど無味無臭であり
でも、“とてつもない痛み”を感ずる
そんな写真でした。
何度見ても衝撃的で
あの写真には写っていないものが
僕の想像も及ばない世界が写っているようなね…
二度とあってはならないと、消えていった
命が数え切れない位あること
草木一本も生えていない写真に
思った、今日のこと。
今は、本当に、平和だね?
屋根の下で眠られる
ご飯食べられる
今日のおかずは何かな?とワクワクする
働ける
ドライブできる
書店で立ち読みできる
お墓参りして
神社へ行ってお参り(お詣り)できる
メールできる
ボジョレー飲める
音楽を聴ける
ピアノが弾ける
草花を愛でられる
星空を眺められる
家族といられる
友人が、知人が、皆が
元気でいる
ものすごく、ありがたいこと、だね?
いつも、広島や長崎のことを思うのは
蒸し暑い真夏の頃だけど
今日は、寒い12月。
冬は、街を見たくなる心理があるような気がするけど(昨日も書いたね?)
そんな季節に
あたたかな灯りがともっていた街が
さまざまな人生が生きていた街が
一瞬で全てを奪っていった日のことを思いました。
そんな機会があった、12月12日。
12と聴いて思い浮かぶのは
十二音階
十二宮
十二支
十二単
十二使徒
十二使徒…
12がいっぱいだなぁ…と思った矢先
なにもなくなった
焼け野はらの中でボロボロになり佇む天主堂を偶然見たこと
十二使徒が思い浮かぶのは、特別な意味はないのかもしれないけど
そんな過去があったことを
冬に思い出したことを
ふいに書きたくなって、
書かなければいけないのかな?…と
勝手に思い、
今日、僕が感じたことを下手だけど
書いてみました。m(_ _)m
哀しみが、悲しみが
星に導かれ
光になっていますように。
街の灯りが、明かりが
ずっと続いていきますように。
『なんにもなかった』
あなたの光は導いていく
あなたを支える影は
今日も一日を無事送った
ぽつんと
佇む哀しみを
ある日背負った
引き換えに彼らは永遠となり
とつとつと
季節が来れば話すのだ
人という生き物は
可愛いけれど
時に、冷酷な赤ん坊になると
本当は
光なのに
本当は
あたたかな手をしているのに
風景には本当に
なんにもなかった
*