ブログ日記 日々のうつろい 

退職後パソコンとガイドのボランティアをし、カラオケ(ポップス)やダンス等で生活を楽しむオジサンのブログ。

今日は水曜日だけど、冬休みなので、ゆっくり…

2015-12-23 23:42:31 | 日記

 今日は天気予報通り雨になった。

 天気はマアマアだが風が強くて気温が低い状態が続いていただけにこの久し振りの雨は冷たくうっとうしささえ感じるほどである。

 今日は水曜なので先週までなら高大に行く為に朝早く起床し、朝食を作って食べた後、8時過ぎには自宅を出ることになるのだが、今週からは冬休みと言うことでしばらくは通うこともない分、リラックスは出来るが、色々他のことをする必要もあるのでそんなにゆっくりも出来ないが、当分はゆっくり出来るのは間違いない。

 冬休み中であっても1月にはCD会議が行われることになるので来年度、当WebコースのサブCDになってくれるTさんが加わることになり新旧のCDが参加することになり、合同会議後には懇親会を行なう予定になっているので参加を呼び掛けることになる筈である。

 今日はいつもと同じように自宅でメールやカレンダーのチェックなどをした後、特記するもないから今までの生活をしていく中で男一人が生きてきたことをお話ししようかと思う。

 私の生まれは日本海側の町であるが、日本海側の都道府県のキャピタルシティを除けば人口もそこそこある町である。

 戦中生まれで70歳を凌駕しているが、私たちの子供の頃は何でこんなに貧乏なんだろうと思ったものである。

 その当時は戦争に敗けてどん底生活をしているなんて何にも知らなかったからであるが、それでも元気一杯近所の子供たちと走り回って遊んだものである。

 男の子たちはチャンバラごっこやパッチン(メンコのこと)が盛んであちらこちらで色んなやり方で取り合いっこをしていたものである。

 後で分かったことだが殆んどの子供は栄養状態が悪いので鼻汁を垂れていて、時折服の袖にこすり上げながら遊んでいたものだから袖がテカテカと光っているほどである。

 勿論、衣服はツギハギだらけでそういった洗濯物は母親たちが堅い固形石鹸でタライに洗濯板を載せてゴシゴシと洗っていたから指は荒れていた。

 今から思えば当時小学生だった私達の母親は30代ぐらいだから今の同年代の女性の華やかさとは比ぶべくもない質素なものであった。

 その年代は大正生まれになるが、一番苦労をした年代の人達であると思われる。

 勿論戦争当初は20代から戦争の終り頃には40代ぐらいの男たちは徴兵されて軍隊に行くか、そうでなければ技術者や軍需作業の従事者が殆んどであった訳だが、父は軍属で南方の方へ派遣されたがたまたま熱帯の病気に罹り病院船で帰国したということであったが、派遣されて乗って行った船は途中で潜水艦の魚雷で撃沈されたということで沢山の同僚の人達が亡くなったそうである。

 病気にならずそのままその船に乗っていれば死んでいたかも知れないから、どこで何が起きるか分からないということである。

 また終戦になる昭和20年の春の夜、その町に空襲があり、近くの工場が爆撃されたそうで空襲警報が出たので、生まれて間もない弟を母が背負い、まだ小さな私が寝入っているのを叩き起こして手を引き防空壕へ逃げる途中、爆弾の破裂で破壊されて飛んできた破片が目の前に落ちたそうでもう少し先に行っていたらと思うとゾッとしたということであったが、私は当時のことを何も覚えていない。

 今日はこの辺りで締めさせてもらうがこの続きは又折りを見て記述したいと思う。