心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに №986

2013-11-24 20:25:38 | Weblog
拝火教の二重性
『神智学大要 第五巻太陽系』(出帆新社 発行)の大師匠による拝火教の教えの続きです。
『大師匠はかなりの長期間「市」に留まり、毎日神殿に通われて僧侶たちに法を説いた。
彼は火と水はあらゆるものを浄めるが故に決して汚染してはならず、水でさえも火によって浄められ、
火と水は二つの霊であり、火は生命、水は体であること、およびその他多くのことを教えられた。
後のオーマズドゥ(Ormuzd)(アフラ・マヅダともいう、拝火教の善神・光の神)、
アーリマン(Ahriman)(拝火教の悪の神)の教えは多分これより生じたものであろう。
オーマズドゥ(Ormuzd)の相手役アーリマン(Ahriman)は元来は悪の力ではなくて物質のことであり、
オーマズドゥ(Ormuzd)は霊の象徴であることを示す章句もある。
……(大師匠は)大きな演壇から最後の説法をなされた。
人々に智識を修得し、愛を行うべき義務を説き、
彼の教師としての後任であるスーリヤに従うべきことを命じられた。』
このように、火である生命と、水である体は二つの霊であり、
水でさえも火によって浄められることから、拝火教は一元論だとわかります。
大師匠は人々に智識を修得し、愛を行うべき義務を説いていますから、
魂による認識を深めることで、魂の特質を表現することを勧めているのだと思います。
目に見えない火の霊的世界と、目に見える水の形態の物質世界があり、
水である物質もまた火である霊によって浄められるといいます。
そういえば、以前取り上げたマイトレーヤの言葉(№276~278)の中に次のようなものがありました。
『身体は毎日、入浴を必要とする。
心(マインド)と生気(スピリット)も入浴が必要である。
あなたの生気はエネルギーの源である。
生気は疲労し得る。無執着という水が必要である。』
『認識があるときに、すべてが浄化される。
認識があるときに、すべてが許される。
認識があるとき、真我は己が行為者ではなく、創造の目撃者であることを悟る。
真我は心と生気と肉体の働きを目撃するが、それらから自由な存在である。
そうすれば、ストレスや混乱や無秩序はあり得ようか。』
『認識は個別化することはできない。
認識は至高なる存在と至高なる存在の生成を包含し、認識の中において、真我は平衡を経験する。
平衡の実践は無執着によって生み出され、保持される。
認識は無執着とともに増大するものであり、認識があるとき、人は超然として行動する。
これが起こるや否や、その魂(人)は心(マインド)と生気(スピリット)と肉体に平衡を経験する』
これらの認識に関するマイトレーヤの言葉(№276~278)を読んでいると、
魂による認識を火、真我と無執着を水、とすれば拝火教の教えと同じだと私には感じられますがいかがでしょう。
№987につづく

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