ナンバー2232 2024.07.26 離散の民ユダヤ人
古代のユダヤ人たちは故郷のパレスチナから遠いバビロンに捕囚されると、これまでとは全く違う生活を強要されましたが、ユダヤ人たちが集会所に集まり戒律やユダヤ人の歴史を学ぶこと、神に対して信仰を持つことは許されていたといいます。
これがユダヤ教の集会所シナゴーグの元となり、シナゴーグで律法を学び、礼拝をするユダヤ教の信仰のスタイルの元にもなりました。
またユダヤ人の歴史や伝統的な習慣や律法を集めて宗教としての経典ができてくると、一つの民族として信仰を忘れないでまとまろうとすることで、ユダヤ教が確立することになりました。
経典ができる過程で、自分たちが選ばれた民であることを再確認し、苦難が続くユダヤ人のもとに、いつかメシア(救世主)が現れてユダヤ人は救われるという、メシアを待望する思想もできます。
こうしてバビロン捕囚からパレスチナに帰還して、エルサレムに神殿が再建される頃にはユダヤ教が確立していたといいます。
しかし実際にパレスチナに帰還が許された時には、60年の歳月が過ぎていため、パレスチナのことを知らない世代もいました。
そのため実際にパレスチナに帰還したのは、一部のユダヤ人だけだったといいます。
パレスチナに戻らないユダヤ人のなかには、アケメネス朝の領土の各地に自分たちのコミュニティをつくり生活するようになった人たちもいたといいます。心では約束の地であるパレスチナを思いながらも、実際は離れ離れになって暮らす離散の民の歴史がバビロン捕囚から始まったといわれています。
しかしバビロン捕囚以前のモーセの時代にエジプトから脱出した時にも、40年という長い年月をかけてカナンの地にたどり着きました。
その時もエジプトを出た人々が全員カナンの地に着いたのではなく、他の地に行った集団もいて、そこから現在のイギリス王室が始まったという説があります。
またイスラエル統一王国が南北に分かれた後、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされて離散した人々の中に、日本にまで来た人たちがいて、それが日ユ同祖論になっているという説があります。
ユダヤ人の長い歴史の中には、ユダヤ教が確立する以前にも、ユダヤ人でありながら民族としての団体行動から外れて離散した多くの人々がいて、彼らはバビロン捕囚中にできたユダヤ教と経典を知らないことになります。
ナンバー2233 2024.07.30 に続くかと思います