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新説・日本書紀㉓ 応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立 福永晋三

2024-08-04 05:40:49 | 新説 日本書紀

新説・日本書紀㉓ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)12月8日 土曜日

応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立

神功天皇 位登宮で即位

[358年]冬10月に、群臣は神功を尊び皇太后といい、摂政元年とした。
だが、書紀はこの年を「辛巳」としている。[381年]に当たる。
書紀年代のはなはだしい矛盾である。

[382年]11月に、仲哀天皇を河内国の長野陵(北九州市小倉南区長野か、未詳)に葬った。
4人目の仲哀か。

[383年]春正月、「誉田別(ほむたわけ)皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余(いわれ)に都つくる。是をば若桜宮といふ」とある。
誉田別」には注意を要する。神功の子(応神)は「分家の皇子」である。
また、若桜宮は田川市川宮にある「若咲神社」と思われる。元宮は若咲橋のたもとにあった。
奇妙なことに、鳥取県若桜町は履中紀の「若桜宮」に由来するとあるから、あるいは田川の若咲神社こそ神功皇后の若桜宮ではなかったかと推測される。
また、西鉄バスの若咲神社停留所の所に、「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑が建っている。

書紀の記事と筑豊の伝承を擦り合わせると、次のようになる。

①[357年]12月、粕屋町宇美八幡で誉田別皇子を出産。ショウケ越えをし、飯塚市大分八幡で新羅遠征の物部軍を解散。

②橿日宮(飯塚市負立八幡)に帰還、誉田別皇子7歳まで成長。

※ 橿日宮(飯塚市負立八幡) → 香椎宮(福岡市東区)に訂正

③[364年]、位登宮(川崎町帝階八幡)に遷宮。半年後、誉田別皇子皇太子になる。神功、天皇位に登る。

香坂王・忍熊王の反乱

⑤[365年]春2月、穴門の豊浦宮に入り、二王の討伐に向かう。3月、忍熊王の軍を殲滅。

⑥381年、誉田別皇太子が天皇に即位し、神功は皇太后となる。

⑦383年、誉田別天皇(応神)磐余若桜宮(田川市川宮)に遷宮。

書紀によれば、神功皇后の記事は神功13年ですべて終わる。
神功皇后の薨去についてはこう記す。
「69年夏4月、皇太后、稚桜宮に崩ず。冬10月、狭城盾列陵に葬る。この歳己丑(389年)。」

4世紀に西日本を駆け巡った女帝も豊国に眠ったようだ。
田川市見立にある大きな前方後円形地形が神功の陵ではないだろうか。


応神天皇は2人いた

戦後史学は神功皇后までを架空とし、15代応神天皇からが実在としてきた。
また、応神は戦後の教科書に大書された「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」のうちの讃に当たるとされてきた。
だが、この点に関して、重大な疑問がある。

古事記の応神は品陀和気(ほむたわけ)命(誉田別)であり、書紀の応神は誉田(ほむた)天皇である。
この誉田にこだわった伝承が、久留米市の大善寺玉垂宮に伝わる『吉山旧記』に残されている。


※(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P88)
 玉垂命の没年は、神功皇后が「筑紫で産んだ」応神元年(270年・実年390年)と合致する。そして、玉垂命には「九体の皇子」がいたという。

斯礼賀志命(しれがしのみこと) ②朝日豊盛命・・・・・・(筆者注③~⑨省略)
『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、長男「斯礼賀志命」は朝廷に臣として仕え、次男「朝日豊盛命」は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。つまり、
◎九州王朝:玉垂命(~389)ーー長男「斯礼賀志命」(390~)ーー次男「朝日豊盛命」ーー(この系統が継ぐ)という系列だ。
 一方、玉垂命以後、五世紀の倭国は「倭の五王」の時代に入っていく。
 「倭の五王」の「」は晋安帝(396~418)の時倭王賛有り(『梁書』諸夷伝・倭)とされ、その後も421年と425年に朝貢している。438年に朝貢記事の見える「」は讃の弟とされる。『宋書』讃死して弟珍立つ。そして「珍」『梁書』では「弥」の息子が「済」(443年と451年に朝貢)。その息子「興」(462年朝貢)。その弟が「武」(478年朝貢)なのだ。つまり、
◎倭の五王:「」ーー」ーー息子「済」ーー息子「興」ーー弟「武」
という系列で、兄「讃」を弟「珍」が継ぎ、その系列が累代の倭王となる。これは、玉垂命の系列と一致する。そうであれば「」は斯礼賀志命であり、『書紀』では応神(天皇)に擬せられ、「」は朝日豊盛命となろう。
 通説では、「倭の五王」をヤマト天皇家の天皇と接合しようとするが、年代・血縁関係の何れかが矛盾するうえ、天皇が一文字を名乗ったことはなく、また中国王朝への朝貢記録もない。
 しかし、玉垂命を「筑紫の女王=倭国(九州王朝)の王」とすれば、年代・血縁関係も矛盾なく説明できるのだ。


応神天皇即位元年(不明)に(とう)大臣(=紀武内宿祢)が筑紫に下る時、天皇は御幼名誉田の2字を下賜された。
(誉田)大臣は[368年]1月7日に肥前水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を退治し、「その後筑紫安穏なり」とある(「鬼夜」の起源)。
翌年、御殿が成就し、人民は筑紫大臣と呼んだ。
[390年]薨去とある。

※(管理人注) 高句麗好太王碑には、「新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、(高句麗に)朝貢していた。しかし、391年に海を渡り、百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった」とあります。

さらに、『松野連系図』によれば、「讃」の親が「(とう)」となっていて、「倭の五王」の祖が武内宿祢(大臣)と思われ、久留米市の高良大社の奥宮は彼の墓所とまで言われている。

つまり、九州の東半分に神功豊国王朝が成立し、西半分に武内宿祢の創始した筑紫国王朝が成立したのではないかと思われる。


※【異説】 『古事記』の第八代孝元天皇の条に、次のような記述がある。孝元天皇と内色許男(うつしこお)の娘・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)の間に比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)が生まれた。その比古布都押之信命が木国造の祖・宇豆比古(うづひこ)の妹・山下影日売(やましたかげひめ)を娶って生んだ子が建内宿禰(たけのうちのすくね)(『日本書紀』では武内宿禰)で、この人物の九人の子を羅列し、さらにその子孫の氏族を書き連ねている。ここではっきりと蘇我氏が、内宿禰から枝分かれした氏族であることが記されている。
これに対し、『日本書紀』は、少し様子が異なる。第八代孝元天皇が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)(『古事記』にいう伊迦賀色許売命)を娶って生まれた子が彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)とあり、この人物が武内宿禰の祖父であることが記されているのだが、武内宿禰が蘇我氏とつながっていたのかどうか、まったく記述がない。(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P99)

※【異説】 高良山周辺にしばらく君臨していたトヨ(この一帯に、「豊比咩(とよひめ)」を祀る神社の密集地帯があるであったが、彼女はヤマトに裏切られ、筑後川を一気に下り、そのまま海路鹿児島県の野間岬を目指した疑いが強い。そして、この逃避行こそが、「出雲の国譲り」であると同時に天孫降臨そのものだったと考えられる。「日本書紀」の神話は、一つの同じ事件を二つの神話に分け、ヤマト建国にいったい何が起きていたのか、すべてを闇に葬ったわけである。
 ではなぜこのときのいきさつを「日本書紀」が必死に隠匿したかというと、それは、トヨ(神功皇后)の夫の正体に問題があった。それは仲哀天皇だったと「日本書紀」に書かれているが、じっさいには武内宿禰であり、蘇我氏の祖だった。そして、2人の間の子が応神天皇であり、これは神武天皇と同一人物であった。ヤマト建国時の大王が蘇我系であったことを、「日本書紀」はあらゆる手段を駆使して隠匿しにかかったというのは、こういう事情があったからだ。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P182)


次の世代が、筑紫王朝誉田天皇(倭王讃)と豊国王朝誉田別天皇とであり、2人の応神天皇が九州の西東に在位したと考えられる。


※(管理人注 再掲)
スサノオは蘇我氏だった

説明
1.スサノオ = 出雲大社の後方の「素鵞(ソガ)の社」に祭られている。
  スサ(susa) → スガ(suga) → ソガ(soga)

2.蘇我氏 = 武内宿祢(たけうちのすくね)の子孫(古事記の孝元天皇記にあり)

3.武内宿祢 = 武雄心命(たけおこころのみこと)の子
  「武雄心命(きのあたい)の菟道彦(うじひこ)の娘の影姫(かげひめ)を娶って、武内宿祢を生ませた」
   (日本書紀 景行天皇紀3年にあり)

4.肥君(ひのきみ、佐賀の君)の祖先 = 健緒組(たけおくみ)(肥前国風土記冒頭にあり)

5.武雄神社(佐賀県武雄市)の祭神
   1.武内宿祢
   2.武雄心命
   3.仲哀天皇  4.神功皇后  5.応神天皇
  ①付近に「素鵞(ソガ)神社」あり
  ②付近に「黒尾神社」あり(武内宿祢の母の影姫を祭る)
  ③付近に「玉垂神社」あり

6.大善寺玉垂宮(福岡県久留米市大善寺町)の祭神
    玉垂命(たまだれのみこと) = 別名:藤大臣(とうのおとど)
      ※藤大臣と武内宿祢は、氏でつながる
  ①正月7日の「鬼夜」の主神
    鬼面尊神(きめんそんしん)・・・鬼の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を退治する

結論
1.蘇我氏 = 武内宿祢の子孫

2.武内宿祢 = 大善寺玉垂宮の鬼夜の主神の鬼面尊神(あるいは玉垂命
         高良玉垂宮(福岡県久留米市御井町)の奥宮は武内宿祢の墓所と言われる

3.蘇我氏 = 乙巳の変で滅ぼされる

4.蘇我氏 = スサノオとして出雲大社に祀られる

5.スサノオの故地 = 佐賀

6.スサ(susa) → スガ(suga) → ソガ(soga) → サガ(saga)

※ スサノオが祭られている神社の名称にはいくつかあり、
主なものは須佐神社、須賀神社、素鵞神社、素戔嗚神社、祇園社など。



※(古代に真実を求めて 第1集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 1999.5月 P67)
 仏教418戊午年九州に伝来した。・・・・・・(418年と九州という)二つの結論の結節点として糸島郡『雷山縁起』(管理人注 『雷山千如寺法系霊簿』を含む)の「清賀」伝承を発見しえたのでした。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。


(本文終)





「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑。この池の東南に「若咲神社」があった

「松野連系図」の部分。縢・讃・珍・済と続く




新説 日本書紀「第24回(1/7) 応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立」(テキスト㉒、帝階八幡神社縁起、神功皇后征西の軌跡)(令和4年9月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第24回(2/7) 応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立」(水沼皇都の発見、吉山旧記)(令和4年9月16日) 福永晋三

新説 日本書紀「第24回(3/7) 応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立」(大善寺玉垂宮 鬼夜)(令和4年9月16日) 福永晋三

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