ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 11話の1 古代ギリシャ エーゲ文明~オリンピア競技

2019-08-26 08:52:14 | 新世界史5 古代ギリシャ

【エーゲ文明】
 では古代ギリシャに行きます。ギリシャの次はローマに行きます。
 まずギリシャの場所を確認してください。ギリシャは九州よりちょっと大きいぐらい。九州の倍の北海道ぐらいかな。ギリシャは日本よりも小さい地域です。

 ギリシャ文明の最初は海の文明です。ギリシャの海はエーゲ海です。この海は、トルコ半島つまりアナトリア半島とギリシャの間のきれいな海です。しかし地中海は塩分濃度が高くて魚が住まない痩せ海です。綺麗な海は痩せてる。きれいな草原は土地が痩せている。やせてる人間は栄養が悪い。土地でも海でもそうです。あまりきれいな海は住むにはよくない。

 その海にエーゲ文明が起こる。そのエーゲ文明に、今からいうクレタ文明ミケーネ文明があります。昔は独自に独立して発生したように言われていたけれども、やはりオリエント文明に近くて、その影響を受けています。

▼エーゲ文明




【クレタ文明】  最も早いのはエーゲ海の島で、東西に長いクレタ島という。エーゲ海のちょっと南にクレタ島がある。ここクノッソス宮殿という壮大な宮殿跡が発見された。みんな「これ何やろか、なぜこんな田舎の島にこんな建造物があるのか」と最初は思った。
 これは城壁を持たない平和な文明です。王の妻が牡牛に恋して産んだミノタウロスという牛頭人身の怪物が、この迷宮のような宮殿に閉じ込められていたという伝説もある。


神話の生きる島 クレタ 獣人ミノタウロスの謎


神話の生きる島 クレタ 文明消滅の謎



※ 「ミノタウロス」というのも、もともとは「ミノス王の牡牛」という意味で、力のシンボルであり、尊崇する対象だった。また当時、祭りのさいには、王が牛の頭をかぶり、牛神の姿になって現れたという。そのことから、ミノタウロスとは、この牛神になった王だった、と考えられている。(神々の足跡 中江克己 PHP文庫 P229)


 これは海洋文明です。船で海を渡って商売していた文明です。魚の住まない痩せ海は、見晴らしがきいて船の行き来には便利です。
 ただ民族系統は不明です。今のギリシャ人ではない可能性が高い。この文明は紀元前3000年頃から始まって、紀元前1400年頃に崩壊します。



【ミケーネ文明】  それが紀元前2000年頃になると北の大陸の方から人が侵入します。ギリシャ人が北方から南下して、前14世紀から前13世紀にギリシャ本土に王国を作る。小さな王国です。この文明をミケーネ文明という。これはクレタ文明とは違って、周りに城壁を作ったりして、非常に戦闘的で、王権の強い国です。王権のあり方がメソポタミア地方に似ています。

 このギリシャの気候で日本と違うのは、夏に乾燥するということです。日本も夏は暑いですけど問題は雨の量です。日本の夏は蒸し暑い。夕立はするし、梅雨は大雨です。水がない夏というのは植物の天敵なんです。そんなところで植物は育ちはしない。

 では人は何で食べていくか。農業では食えないです。ここでは農業は発達しない。雨が降らない。土地も痩せている。だから住める人間は限られている。こういうのを人口収容力が低いといいます。雨が降らないから、夏場の景色は緑が枯れて茶色なんです。日本の夏の景色は緑です。我々が抱く日本の夏のイメージは緑です。ギリシャの夏は茶色です。雨が降らずに、夏に草が生えないからです。

※ 紀元前8世紀頃、当時のギリシャの食料自給率は約3割程度しかなかったといわれています。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P36)

   だから海で交易するしかない。そのことはクレタ文明と同じです。でも海は危険です。そのエーゲ海や地中海で交易する。ここは綺麗な海で見晴らしはきく、濃霧も発生しない。魚は取れないけれど、綺麗で見晴らしがいい。船を浮かべて物を運ぶには最適です。地中海は交通に便利です。

 だからこのギリシャ地方は日本と違って、生産するよりも地中海を渡って交易したほうがいい。農業は人を定住させますが、交易は人を移動させる。しかし危険に挑まないと交易の利益にありつけない。
 交易というのは、子供のママゴトじゃないんだから、商談が成立しないときは、一瞬で戦いの世界に急変します。相手からぶんどっていく荒々しい世界に変わります。だから戦争が絶えない。交易と戦いというのは一見無関係に見えて、実は切っても切れない関係です。

※ それは集団的な移動ではなくして、いわば部族的共同態の「断片」が海にさまよい出たのである。そうしてこれらの「断片」は、必要に迫られておのずから「海賊」に変化する。 一度海に出れば、掠奪のみが生存の基礎であり、従って生活全体が闘争になる。 戦って勝てばその土地を占領し、家畜と女たちを自分たちのものにする。彼らがその夫や親を殺したところの女を、妻とするのである。その妻が、夫や親の敵である新しい夫に対してどんな復讐をするかもしれないという危険は、日夜彼らの生活につきまとう。今や彼らは力によって屈服せしめた土着人に労働せしめ、自らはただその成果を味わう。だから彼らの新しい仕事はその力を練って自らを守ることである。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P101)



【トロヤ戦争】 エーゲ海周辺ではもう一つの文明として、ギリシャの東隣のトロヤ文明があります。トルコ半島の西端です。ここと戦争をする。これをトロヤ戦争といいます。
 実はこれは伝説では、女をめぐる争いになっています。このトロヤ戦争の話は有名な「イリアス」などの叙事詩の舞台になっています。古くからある伝説で、これをまとめた人はホメロスと言われる。ホントにホメロスがいたかはどうかは分からないけど、ホメロスとは100人ぐらいのグループの名前だともいわれる。1人の作品かどうかはわからない。

 そこでトロヤ戦争が描かれています。女をめぐる話で、人の嫁さんにちょっかいだそうとして、こともあろうにバカなトロイヤの王子パリスが、スパルタ王の嫁さんヘレネーを奪うところから始まります。スパルタ王のメネラオスは、兄のミケーネ王のアガメムノンに応援を頼み、戦争が始まっていく。
 人の嫁さんを略奪して、国中を巻き込んだ戦争が起こり、多くの人間が死んでいく。あらすじはイヤな話です。学校で教えるような倫理的な話じゃない。しかし有名な話です。ヨーロッパ人はこれが好きです。映画になったりもします。最近ではブラッド・ピットが演じました。
 最後は「トロイの木馬」という有名な奇策を用いてスパルタ軍が勝ち、トロヤは滅んでいくという、ドラマ仕立てになっているんだけれど。


トルコの旅 41 「トロイ遺跡」



 このトロヤ戦争はミケーネ文明後、ギリシャ全体が戦争状態になっていくことを暗示しています。実際ミケーネ文明は前1200年頃、衰退していきます。

※ 「10年もの間、家を留守にして遠いトロイで戦争ごっこに熱中していたものだから、その間に国内の秩序が乱れ国力も衰え、外来民族に簡単に征服されてしまったのだ」 当たらずといえども遠からず、ではないかと思う。十年にわたったトロイ戦役を終え(前1184頃)、山ほどの戦利品を持って帰国したギリシャ軍の総大将アガメムノンは、王妃と王妃の愛人によって浴室の中で殺されたのである。ミケーネ文明を滅ぼしたのは、北方からギリシャに南下してきたドーリア民族であった。 ミケーネ文明の担い手であった人々が、殺されたり奴隷にされたりして、まさに徹底して排除されてしまったからである。ドーリア人のもたらした破壊はすさまじく、ギリシャ全土は、この後400年もの間、完全に沈黙してしまう。(ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P140)



【暗黒時代】 前1200年頃、ミケーネ文明が衰退してからそれ以降の400年間は、全くギリシャの歴史は分かりません。ギリシャ全体が混乱して暗黒時代になる。何が起こっているのかわからない。そういう意味で暗黒時代です。これが紀元前12世紀前8世紀まで、400年間続きます。その間に王権も消滅します。たぶん非常に血生臭いことが起こっていたんでしょう。

※ 未開の諸民族は、彼らの神々が彼らに勝利と幸運と安楽を提供する義務を果たさなかった場合、彼らの神々を排除するのを慣習としていた。それどころか神々を処刑することすら慣習としていた。 王たちはいつの世にあっても神々と同じように取り扱われてきた。この太古における王と神の同一性は、両者が共通の根から生じてきた事実を明瞭に示している。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P188)


 この400年間の歴史が分からないのは、人を刺し殺す戦いの中では字を書く余裕がないからです。歴史書とかも書かない。だから記録が残っていない。しかも混乱の中で文字も消滅してしまった。ビデオもない。あとは土を掘って発掘するしかないけど、それも限界がある。

 しかしこの前12世紀からの400年間に隣のオリエント地域で起こっていたことは、けっこう大事なことです。
 1.そのちょっと前の前1379年には世界初の唯一神の発生、つまりエジプトのイクナートンによる宗教改革があった。
 2.それから前1250年頃には、ユダヤ人の「出エジプト」という事件が起こっている。
 3.そして前1020年頃には、ユダヤ人初の国家であるヘブライ王国ができている。
 この暗黒時代は、こういう時代と重なるんです。すでに一神教の準備ができつつあるんです。

 ここが一番面白いところですが、それがわからない。えてして歴史は一番面白いところは激動の時代すぎて、歴史を残す余裕がない。だからよくわからないです。その中に生きている人間はそれどころじゃないんですよ。
 記録に残すにはどこかに余裕がないとできない。戦争の記録映像でも、本当に自分が必死で逃げている時に記録映画は撮れない。記録映画は余裕がある方、つまり勝った側の記録であることが圧倒的に多いです。
 沖縄戦で記録を取ったのも日本じゃない。勝った側のアメリカ側の8ミリです。アメリカ軍はそれだけ余裕があったんです。日本人がもし撮っておけば・・・・・・それどころじゃないけど・・・・・・また別の記録映画になっていたかも知れません。記録映画はふつう勝った側の立場での記録映画になります。

 ただこの時代は前1200~前800年頃だから、リディアの貨幣はまだない。まだぼちぼちとした交易です。しかし前7世紀に隣のリディアで貨幣が発明され、貨幣が流通し出すと、ギリシャの交易が一気に活発化します。



 【ポリスの成立】 この暗黒時代の間よく分からないまま約400年過ぎて前8世紀になると、突然、都市国家が出てくる。これをポリスといいます。
 都市を城壁でぐるっと囲んで敵の攻撃から守る。そういう都市ができてくる。それもあちこちに100も200もできはじめ、最終的には1000以上のポリスがギリシャにはあったといわれる。人口は一都市で5000人ぐらいかな。ちょっとした大きい村のようなものです。

 はじめは王政だった。しかし戦争に負けた弱い王様は責任取らされて殺されたりする。それで王権は消滅する。そのあと王になる者が出てこない。ここが今まで見てきた地域と違いますね。戦争に負けた王は責任を取らされて殺されるのは同じでも、その後は殺された王に代わる新しい王がでてくるのか普通ですが、ギリシャでは新しい王がでてきません。

 その代わり数人の有力者をリーダーとする国家になる。これを貴族政といいます。

※【インドの王権との比較】
※ (リグ・ヴェーダ時代のインドは)諸部族の上に王(ラージャン)が支配権をもって君臨した。王位は時として選挙によることもあったが、ふつうは世襲であった。ただ即位にさきだって、人民の承認をうる必要があった。王権はかなり強大であったが、各部族の集会の「同僚のうちの第一位にあるもの」という資格で選ばれた。
 つまり、集会に集まった人民の意志によって制限を受けたのである。部族全体にかかわる重大な用件について意志決定をするときには、部族の有力者たちが提示した方針を審議するため、部族の全員が出席する集会がひらかれたことは疑いない。しかしこの集会が実際にどのような役割をはたしたかは、史料不足のため、ホメロス時代の古代ギリシャの集会に類似しているということしかわからない。
 王の最大の義務は部族とその領域の保護であって、外敵と戦い、戦利品としての土地、奴隷、家畜の分配を行い、部族員に対する懲罰権をもっていた。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P92) 

※ (インドでは)王権の強化を目的とするこれらの儀式により、王の神格化への道が踏み出されたが、部族制を脱却しきれていないこの段階では、それはまだ形式的なものにとどまっていた。
 一方、儀式を執り行うバラモンは王に向かって、かれら(バラモン)を尊び、かれら(バラモン)の教えに従うことを誓わせている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P67)

※【メソポタミアの王権との比較】
※ メソポタミアの都市国家の政体は、祭政一致の専制王権であった。国家の主権者は国家の最高神であり、国家の君主は、主権者である最高神によって任命された神の代理人であって、国家の重要な役職は祭祀階級に独占されていた。・・・・・・
 メソポタミアのばあいには、都市国家時代に神殿祭司層がおおきな権力をもったため、その伝統が領域国家の時代にも存続し、神政政治を行うバビロニア王は、祭司層によって、正当な神の代理者であるという保証を受けなければならなかった。整った官僚機構と強勢な祭司層に支持された王権が強大であった点が、ギリシャ、ローマとはちがっている。・・・・・・
 (インドでは)むしろ王権は、呪術的な霊威をもつバラモン種姓によって制約された。メソポタミアやエジプトの君主が神の代理人というかたちで人民に君臨したような強力な王権が、インドには欠けていたことが特色としてあげられる。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P364)

※ (ギリシャの)ポリスの国制は、はじめは王制だった。王は、政治、軍事、宗教の最高権力をにぎっていた。しかしこの王は、オリエントの王のように絶対者ではない。彼の周囲には、地主であり、騎士でもある有力な貴族があって、王権を支えるとともに、またはそれを制限していたと思われる。また、国家の大事には、貴族を含めた市民の総会が開かれたが、この市民にさほど権利があったわけではない。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P89)

※【ギリシャの神々の零落】
※(●筆者注) ギリシャでは、王が消滅すると同時に、それをとりまく神官団も消滅している。さらに神の性格も変化している。崇高な神ではなく、人間と同じように笑ったり、腹を立てたりする人間と変わらない神になる。だからギリシャの神の姿はまったく人間と同じ姿に表現される。これを写実性に富んでいると賞賛するむきもあるが、歴史的に重要なのは、神の力が削がれてしまったことであり、そのなかで人々が信仰のよりどころを失っていたことである。ギリシャは強力な一神教を生みださなかったためそれらの神々が殺されることはなかったが、逆に神々しさに欠ける神々になっていった。それらの神々は演劇の対象にはなりえても、信仰の対象にはなりえなかった。
 こういう神々がローマ帝国にも流入していった。そういうなかで、人々の信仰を集めていったのが、オリエントで発生した強力な神をもつキリスト教である。キリスト教は、零落した神々のなかで、人々が求めていた精神的なよりどころを与えたのである。
 ① 神々の零落
 ② 神官団の消滅、
 ③ 王の消滅、
これがギリシャ暗黒時代の400年間におこったことである。
 このことの背景には、部族間の戦いのなかで、勝利をおさめられない多くの部族の神が、「ダメな神」として零落していったことがあげられる。
 さらにこれに加えて、家族の結びつきが弱かったことによる、王家の血縁組織としての弱さがある。
 父系制による一夫一婦制という結婚形態は、それほど古いものではなく、国家の発生と近い時期に発生した可能性がある。

※【ギリシャの家意識の軽さ】
※ 郷土の牧場を離れた男たちが、地中海沿岸の諸地方を征服して、原始的ポリスを形成し始めたとき、被征服地の女をとって妻とした。すなわち家族から脱出してきた男と、殺戮によって家族を破壊せられた女とが、ここに新しく家族を形成した。
 ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺しの話が多いのは、このように史的背景に基づくと言われている。 だからギリシア人がもと強い祖先崇拝の上に立っていたにもかかわらず、ポリス形成以後においては、家の意義はポリスに対してはるかに軽くなっている。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P169)

※ クロノス(ゼウスの父)は子供たちを、生まれるはしから(妻の)レアから取り上げては、自分の腹の中に呑み込んでしまった。それは、(クロノスの父母である)ウラノスとガイアから、「息子によって天上の王位を奪われる運命にある」と宣言されていたからだった。ゼウスは兄弟と協力し、自分の味方になる神々を、オリンポス山の頂上に集めた。そしてそこを本拠にして(父の)クロノスと戦った。(世界神話事典 角川書店 P400)

※【駄目な神】
※ 古代の戦争も、国と国、民族と民族、軍隊と軍隊の戦いである。しかし古代の戦争には、神と神の戦いとしての意味もあった。戦争に負けて、国や民族が滅びると、そこで崇拝されていた神も死ぬ
 このことは戦争での勝利という「人の側の要求」について、神は当てにならない、頼りにならないということを意味する。つまりこの神は、いわば駄目な神である。そのことが戦争の敗北・民族の滅亡という動かしようもない厳然たる事実によって、証明されてしまったのである。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P60)

※ 2世紀後半にゲルマン社会は、マルコマンニ戦争と呼ばれる戦乱と激動の時代を迎える。その結果、多くの伝統的な部族が解体し、新しい部族が誕生した。フランク族やアラマン族などがその例である。社会は完全に戦士中心に編成されたし、また王の性格にも変化が生じた。王となる者は血統より、むしろ軍隊の指揮者としての才能が求められるようになる。信仰の対象である神もまた交替した。彼らが豊穣と平和をつかさどるティワズを退けて、新しく拝跪しはじめたのは戦争の神オーデンであった。(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 P41)


 ギリシャは王がいない地域です。こういう地域は珍しいです。今までペルシアでもオリエントでも王様がいた。しかしギリシャには王様がいない。有力なリーダーしかいない。
 ギリシャになぜ王が発生しないのか。なぜ発生してもすぐ消滅したのか。これは教科書には書いてないけど、大事なことです。それは民主主義を考えることに通じるからです。
 戦争状態にある地域では、戦争に負けると神が殺され、それとともに王も殺されます。そうやって神と王は責任を取らされるのです。民衆が望むのは戦争に勝てる強いリーダーです。血筋は関係ありません。誰がリーダーとして能力があるか。それを選ぶのが選挙です。

※【民主政と軍隊】

※ アテネの民主政は、戦争や軍隊組織と関係が深い。(2018年度ニューステージ 世界史要覧 浜島書店 P45)

※ アテネは、初めは王制だった。王は、政治・軍事・宗教の最強最高権力を握っていた。しかしこの王は、オリエントの王のように絶対者ではない。彼の周囲には、地主であり、騎士である有力な貴族があって、王権を支えるとともに、またそれを制限していたと思われる。また、国家の大事には、貴族を含めた市民の総会が開かれたが、この市民にさほど権利があったわけではない。
 紀元前8世紀になると、王制は退けられて、多くの国が貴族制に移っている。王権は次第に小さくなって、王という名称は残るけれども、実権はなくなり、主として、宗教上の役目だけが残された高官にすぎなくなる。彼は、実際の政治や軍事権を委任されている他の高官たちとともに選挙される役人である。これらの高官は、貴族の中から貴族によって選ばれ、任期は制限されていた。その他の役人も貴族であるが、この貴族は同時に騎士として国家の軍事力の担当者であった。騎兵がまだ戦いにおける主体だったのだ。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P88)

※【インド・ローマとの比較】
※ (インドの)ブラーフマナ時代(前800~前500)には、部族連合の国家のあいだで戦いが繰り返され、弱肉強食によって多くの部族が併合された過程で、王権がしだいに形成されていく。この王権形成の歴史は、ローマの共和制のうちから皇帝権が生まれていく過程を頭において考えると理解されるだろう。平等な市民権をもったローマ市民のなかで、その序列が第1位にあるもの(プリンケップス)にすぎなかった統領が、しだいにその権限を自分の一身に集め、・・・・・・人民に対して絶対的な権限を持つもの(ドミヌス)として皇帝に成長していく。それと同じように、古代インドでも、これまで部族の代表者としての資格をもつにすぎなかった族長が、のちには強大な王権をうちたてるように成長していくのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P113)



【植民活動】 ギリシャは土地が痩せている。だから人口収容力が小さい。しかし人口が増えてきた。
 「うちの村にはこれ以上食わせるものがないから、村の外の隣の島に出て行け、海の向こうの対岸に出て行け」という。こうやって植民活動が行われる。

※【ギリシャ移民の特徴】

※ (ギリシアでは)人口の増加などによって、部族と部族との間の争闘を引き起こしたはずである。 かくして始められた人間の争闘が漸次熾烈になってきたときに、はじめて農民の民を海へ追いやるという情勢が現れてくる。海からの移住は何らかの切迫した事情のために男たちがその女子供や家畜を捨てて小舟をこぎ出すというような事件に始まっているらしい。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P101)
(●筆者注) このこともギリシャ社会における家族的結合の弱さと関係している。神話では、親の子殺し、子の親殺しの話がよくでてくる。

※ 植民者はおそらく独身の若者たちだったのだろう。・・・・・・
 「国が送り出すにもかかわらず航行しないものは死刑を科された。」・・・・・・
 植民は必ずしも成功するとはかぎらない。今日にまでその名が残っている多数の植民市は幸運な成功例であって、失敗し、闇のなかに消えていった植民の試みは少なくなかったにちがいない。植民市建設へと出かけたものの、貧弱な地味、疫病、天候不順、原住民との争いなどで建設に失敗し、故国に戻るに戻れず、あるいは戻ってももはや財産もなく、無念の生涯を送った者もいただろ。
 テラ(ポリス名)人はこのような先例を知っていたからこそ、植民が不首尾に終わったなら、帰国してもとの生活に戻れる、という条件をつけた。しかし、実際には、引き返してきた者たちに母国の人びとは石を投げつけて上陸を許さなかった、とヘロドトスは述べている。(世界の歴史5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P79)

※ 植民は、指導者にひきいられてめざす地に上陸するが、原住民や周囲の住民との戦いがあり、そのあと苦しい開拓がつづく。それらの物語はいまに伝わっている。ともかく植民地を定めると、土地を分配し、本国からもってきた聖火を神殿に点じ、本国と同じ守護神をまつり、都市をつくる部族のかずと名、暦、行政制度も本国と変わりなく決められる。
 しかし、このやり方は、普通に考えられる植民と大きな相違があった。植民市は、政治的に本国からまったく独立していたことだ。本国は母市ではあるが、植民市はそれの従属地ではない。心理的には母市につながりを感じていても、その行動にはなんの制約を受けることなく、ときには母市と争うことさえある。そのうえ、植民市は、周囲の原住民と同化することなく、あくまでもギリシャ人だけの町であって、母市と同じギリシアふうの生活を営みつづける。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P118)


 日本の貧しい明治時代にもそういうことがありました。長男だけが家の跡取りで、二男、三男は、「東京へ行け、大阪へ行け。場合によってはブラジルに行って働いてこい」と。日本人の植民はそれです。
 ブラジルになぜ日系人がいるのか。日本で食えなかったからです。観光に行っているんじゃない。今のようにたくさんのお金を持って海外移住する人とは違うんです。そういうのを植民活動という。その前提にあるのが、痩せた土地をめぐって激しいポリス間の戦いが続いているということです。

 続く。


コメントを投稿