ひょうきちの疑問

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言葉は、意味づけをした記号である

2020-03-16 05:55:43 | 歴史
月曜日

言葉は記号である。記号の組み合わせである。
まず、アイウエオ、などの音素があり、その組み合わせによって、ものごとを記号化する。
それは、まず記号化する対象を認識することによってはじまる。そこにはものごとを概念化する能力がなければならない。

言葉の本質は、音を発する声帯の発達よりも、ものごとを概念化する能力にある。
イヌをイヌとしてとらえる能力、ネコをネコとしてとらえる能力。そんなことは当たり前だと思ってしまってはならない。
われわれは今でも宇宙を概念としてとらえることができない。
イヌは個体により、色も形も違うのであり、すべて個体によって違う。そのなかの共通性を認識することによって、はじめて「イヌ」という記号が誕生する。これは概念化の産物である。簡単なようで簡単ではない。
それをどういう音素で表現するかは、人それぞれである。それは記号の本質ではない。

この概念体系は文化によって違う。文化という人間が造りあげたものによって、概念化がなされ、その文化に応じて概念が記号化される。
だから文化によって記号の意味するところは違ってくる。


音素自体は言葉の本質ではない。音素が10もあれば、ありとあらゆる概念の記号化は可能である。
アイウエオと、カキクケコだけでも足りるかもしれない。計算上は、5文字の単語だけでも、10×10×10×10×10とおりの言葉ができる。100,000語である。6文字の単語になると、1,000,000語である。

たとえば、なにげなく「文化」といっても、「文化とは何か」を説明することは思いのほか困難である。にもかかわらず、「文化」という共通の言葉で会話が通じる。
このことが言葉の本質である。そこには概念の記号化がある。
大事なのは「記号化」ではなく、「概念化」である。
この能力がどこからくるか、それが人間と動物の違いであり、人間の脳の秘密である。
もっといえば、人間という不思議な生き物の秘密である。

概念とは、ひとつには、見えないものをとらえる能力である。
人は見えないものを、心で見ている。
心とは「意味」のことである。
この「意味」の頂点に「神」がいる。
これが失われたときに、すべての「意味」は崩れる。
ドストエフスキーの「神がいなければ、すべてが許される」とは、このことである。
そうなれば、言葉さえ崩壊させる。人間の認識能力が消えてなくなるのである。
そのことは人間が人間でなくなることと同義である。

もしニーチェがいうように「神が死んだ」のだとしたら、神に代わる意味体系を見つけなければならない。
そうでないと人間は言葉を失ってしまう。
意味のないところに言葉は生まれないのだから。

言葉は、生きるための社会的価値体系を記号化したものである。
人は社会がなくては生きられない。

意味を教えることが、すべての教育の基礎にある。
言葉の意味が上滑りすることは、すでに教育の現場ではじまっている。
それは次の世代の社会が、もっと壊れていくことを意味しているのではないか。


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