ひょうきちの疑問

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お金とは何だ 26 新たな富とは何か

2018-10-10 10:18:03 | お金とは何だ

水曜日

人は、債権によって新たなお金をつくり、債務によって新たな富を作る。またはそれを強制される。

それによって、債権と債務が均衡する。
これが均衡することによって物の値段は一定に保たれる。

その新たな富によって、債務は返済され、債権と債務はともに消滅する。

1.お金の量が富の量より増えれば、物の値段は上がり、
2.逆に、富の量がお金の量より増えれば、物の値段は下がる。

債務による富をつくることに失敗すれば、物の値段は上がり、
債務と同じだけの富をつくれば、物の値段は均衡する。
逆に、債務以上の富をつくることに成功すれば、富を換金するためのお金が足らなくなり、お金の価値が上がる。つまり物価は下落する。

1が、債権と債務が発生したときであり、
2が、債務から富が発生し、その富によって債務が返済され、債権と債務がともに消滅したときである。

1の時点では、生産が活発になり、
2の時点では、庶民の生活が豊かになる。

1がインフレであり、
2がデフレである。

ではなぜデフレがいけないのか。
政府がそう言っている。デフレを脱却しなければならないと。
それは1の活動が不活発だからである。

政府によれば理想は、1と2が均衡し、お金の量と富の量が均衡して、物価が安定することである。
しかし2の状態だけが続き、1の活動が不活発になると、債務と債権が発生しなくなり、つまり新たなお金が発生しなくなり、物価は下がることになる。
つまり政府にとっては、新たなお金が発生しないことは、国の生産活動が低迷することなのである。

しかし人間の豊かさには限界がある。
一定の豊かさを手に入れた社会で、新たな富とは何だろうか。
衣食住の豊かさを手に入れた社会で、新たな富を生み出すとはどういうことなのだろうか。

そのためには、新たな発明・発見がなければならないだろう。
そのための基礎研究には莫大な費用を要する。
新たな発見は、応用科学ではなく基礎科学である。

国は、成長戦略を声高に主張するが、その成長戦略は空疎である。
財政難を理由に、基礎研究への予算を削っているのが実態である。

人々が衣食住足りているなら、なぜそこに新しい富をつくらなければならないのかという疑問は当然ある。

しかし政府は、ことあるごとに成長戦略といっている。
成長戦略といっていなければ、基礎研究費を削っていいだろう。
しかし成長戦略といったからには、新たな富をつくるための基礎研究費を惜しんではならない。

つまり政府の成長戦略とは、富の量的拡大に過ぎないのだ。車が10台売れていたのを20台売れるようにするというだけなのだ。日本人には車はすでに行き渡っているから、それを海外で売ろうとしてるだけなのだ。
しかしそれによって日本人がどれだけ豊かになるのだろうか。

こういう発想を取っている限り、新たな富は生まれない。
衣食住足りた社会での新たな富とは何なのだろうか。

ケイタイからスマホに変わったとき、確かに何かが変わった。
何か大きな質が変わったのだ。
それまでなかったものが生まれたのだ。
その是非はいまだ不明だが、そこから莫大な利益が発生したことは事実である。
日本のケイタイ製造メーカーの凋落は無残なものであった。

しかしそのことによって私は、日本のケイタイ製造メーカーが悪かったとは思わない。
こういうことができるのは、数万人に一人の天才に限られている。
しかも大きなリスクをともなう。
いま国民は本当にそんなことを望んでいるのだろうか。

私が言いたいのは、アベシンゾーが二言目には言っている「成長戦略」がいかに難しいことなのかということである。
特に衣食住足りた日本のような社会では。
アベシンゾーの言葉に、人としての軽薄さを感じるのは、なぜなんだろうか。