赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』

すでに生起して戻ることのできない変化、重大な影響力をもつ変化でありながら一般には認識されていない変化について分析します。

ジャーナリズムのあり方を問う

2015-03-01 00:00:00 | 政治見解

赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』(5)

ジャーナリズムのあり方を問う





「ペンは剣よりも強し(※1)」といわれたジャーナリズムも、いまや、第四権力(※2)とまで言われるようになりました。
>※1 文章で表現される思想は世論を動かし、武力以上に強い力を発揮するということ
※2 「マスコミには立法・行政・司法の三権を監視する使命がある」というのが本来の意味


でも最近では、本来の意味以上の「ジャーナリズムとは反権力の立場で体制批判をすることである」と拡大解釈したり、さらには、「反権力の立場で、政府や巨大資本の不正を追及するのがジャーナリズムの使命」と主張するジャーナリストも出てきています。

ジャーナリズムが主張するこの権利は誰に認定されたものなのでしょうか?

ジャーナリズム自身が勝手に唱えて、あたかも自分の特権であるかのように振舞っているにすぎないはずです。ここにジャーナリズムの尊大性が潜んでいます。このようなジャーナリズムの奢りが、今日の社会のゆがみをつくった元凶であることを、ジャーナリズム自らが自覚すべきではないでしょうか。


シャルリー・エブド襲撃事件の本質とは何か

今年(2015年)1月7日にフランスでシャルリー・エブド(※3)襲撃事件が発生しました。警官2人や編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら合わせて、12人を殺害した事件です。
※3 政治や宗教などさまざまなジャンルの有名人を攻撃する風刺画を数多く掲載してきている。中でも一番注目を集めたのは、イスラム教ならびに預言者ムハンマドに関する表現だった。

この事件は、イスラム過激派の犯行だといわれており、フランスのオランド大統領は「言論の自由に対する野蛮な行為であり、断じて受け入れられない」と非難声明を出しています。また、日本のマスコミも、「言論の自由や表現の自由を重んずるフランスに対する挑戦だ」と主張しています。

しかし、この問題について、ジャーナリズムを含む殆どの人が本末転倒な考え方に陥っているように思います。事件が「イスラムの過激派による犯行」ということだけが前面に押し出され、その奥にあるイスラム教世界の信仰問題、宗教の尊厳性の問題が殆ど語られていないのです。

イスラム教諸国はこのテロ行為について批判はしていますが、自分たちの宗教的指導者であるムハンマドを風刺画で侮辱されたという点については心底から怒りを感じているということを見逃してはなりません。イスラム教世界の人びとにとっては、神聖で尊厳なる存在を傷つけられていることに我慢がならないということを先に認識し、理解しておかなければならないのです。


「表現の自由」で人間の尊厳性をおとしめてはならない

今回のテロの直接の引き金は、シャルリー・エブドによるイスラム教世界全体への侮蔑表現であり、ヘイト・スピーチに当たります。差別と偏見に基づいて、イスラム世界を徹底的に蔑んだのです。ですから、イスラム諸国は、テロ行為は非難しても、西欧社会とともにテロと戦うということに躊躇しているのです。

したがって、今回のフランスの事件は、ISILのテロ事件とは全く本質の違う事件であると認識されねばなりません。むしろ、「表現の自由、言論の自由とは何か」、「それが地球規模での普遍的原理となるのか」を問われた事件である考えるべきです。問題の本質を単にテロ事件としてすり替えてはなりません。

シャルリー・エブドのようなジャーナリズムの尊大性、独善主義が、今日の世界全体を混乱に陥れている元凶であると言えるのです。なぜなら、彼らの言う表現の自由、言論の自由という言葉の奥に潜む、恨み心やあざけりに基づく情報発信が、受け手の憎悪の感情を拡大再生産させ、煽るだけになっているのです。それが紛争をもたらす元凶になっているのです。

シャルリー・エブドの事件は、イスラム教社会への風刺や揶揄などをすることで、国際社会まで巻き込んだ宗教的反目に至らしめてしまいました。ジャーナリズムの軽率な表現が世界を絶望の淵に追い込んだのです。実はこれこそが「ジャーナリズムによるテロ行為であり暴力行為」であるのです。


日本のジャーナリズムの最大の問題点

この問題は、日本のジャーナリズムにも言えます。ISIL側が「広報用」に制作し公開したプロモーション映像を流し続けたテレビ朝日。外務省が退避要請したシリアに取材に向かった朝日新聞。国民は、身の危険をおかしたり、国家を危機に陥れてまで報道して欲しいとは望んではいません。

また、さまざまなところでジャーナリズムの横暴さを目にします。テロや事件などにより殺害された被害者の家族や、さらには、災害で被災した人たちに「今どんな気持ちですか?」と質問している報道関係者の多いこと。そんなことを聞いてどうするのでしょうか。テレビの視聴者はそんなインタビューを聞きたくもありません。人の不幸に同情するふりをして、人の不幸を喜んでいるとしか思えないような品格のなさです。これこそ、被害者の人権を踏みにじっている行為なのではないでしょうか。

ジャーナリズムは事実をありのまま伝えるだけで結構です。解説も不要です。物事の本質を正確に理解していない記者や、偏った考えの解説者のフィルターを通すので真実が曲がって伝わるのです。日本のジャーナリズムは抜本的な反省が必要です。


真実の情報が発信できるネット媒体

幸いなことに、インターネットの普及とともに、個人で情報を発信し、それが世界に拡散するだけでなく、世の中に影響を与える時代が到来しました。いまでは、ジャーナリズムの論調よりも、個人の方が影響を与えているという事例も見ることができます。

昨年(2014)8月に朝日新聞の慰安婦記事取消事件がありましたが、これはネット社会に対して、朝日新聞が白旗を掲げた事件であったと言えるでしょう。朝日新聞はネットでの真実の拡散の力に敗北したのです。一人ひとりの力は小さくても、その総和の力は、巨大な朝日新聞でさえ揺るがしました。専門家筋からは朝日新聞は記事取消以降、実売部数が300万部を下回り、「世論形成する能力を喪失した」といわれるまでになりました。

また、最近では、ネットの力によりこれまでは考えられなかったことが起き始めています。朝日新聞に反省を求める訴訟が続発していることです。「朝日新聞を糺す国民会議」による訴訟(原告団2万人以上の集団訴訟)、「朝日新聞を正す会」による訴訟(原告400名、最終的に2000名以上)、さらには、米カリフォルニア州グレンデール市近隣に住む作家や僧侶らによる訴訟(2000名規模)が起きています。

このような一連の動きを見ると、自分たちに都合の悪い報道をしなかったり、偏った報道のジャーナリズムに対し多くの国民は、「既存のジャーナリズムを当てにせず、真実を発信し世論を正していかなければならない」との思いが、ネットを通し言葉となり行動となってきたということがよくわかります。

この動きがさらに加速し、「真実の情報発信」が増えることで世界は大きく変わるはずです。


あらゆるジャーナリズムは、「ジャーナリズムの正義とは何か」を改めて問うときが来たはずです。また、思想の自由、言論の自由が果たして人類の普遍の原理であるのか自問自答すべきでしょう。思想の自由、言論の自由のもとに発信される情報に権利の濫用はないのか、人びとの思想、行動、信仰について、侮辱したり、嘲笑したり、また挑発して、人間としての尊厳性をおとしめるものはないのかを点検する時が来ているのではないでしょうか。




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