たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2008年『フェルメール展-光の天才画家とデルフトの巨匠たち』_壊れた壁のあるオランダの町の眺望(2)

2019年07月28日 23時03分35秒 | 美術館めぐり
ダニエル・フォースマール
(デルフト1622-1669/70 デン・プリール)

《壊れた壁のあるオランダの町の眺望》

 1660-65年頃

「ハートフォードのワーズワース・アテネウム美術館やデルフトのプリンセンホフ市立美術館にある作品には、街の黒焦げた廃墟や、焼け散った木々、粘り強く被害者の救護にあたる救助隊員などが、新教会、旧教会、聖ヨーリス病院などといったデルフトが誇る有名な建築物を後と景に、横幅を最大限に生かした構図で描かれている。これらの作品は、街の破壊的なさまを広範にわたり描写しているという点で、爆発事故そのものの様子とその余波を描いたエフベルト・ファン・デル・プールの作品ときわめて類似する。どの作品にも、惨劇をすぐさま描いたことを主張するかのごとく、1654年という年記が入っている。

 しかしフォスマールは、復興に向けて動き出した街を縦型の構図でも描いている。フィラデルフィア美術館のジョン・G・ジョンソンのコレクションにある作品でも、全景に「デルフトの惨事」後の廃墟を、後景に新教会の尖塔を描写してはいるが、散策するカップルや、そのそばにいる包帯を巻いた少年-間違いなく事故の被害者である-と輪遊びをする少女を添えている。右側には雑談を交わす男性二人の姿も見える。惨事がヨーロッパ中の関心を集め、野次馬や、ボヘミアン国王の未亡人、エリザベス・スチュアート王妃などといった慰労訪問者がデルフトに引き寄せられ、惨劇を目の当たりにしたことが知られている。フィラデルフィア作品には青々とした木々が登場する。それ以前の作品に描かれていた焦げた大地も姿を見せない。事故から数えること一つ、二つの季節が過ぎ去ったのだろう。とは言え、多くのがれきはなお残っており、復興にはその後も数年が費やされた。


 本作品にも、木の葉や、手入れされた庭とおぼしきものが後景に描かれている。日常生活が戻りつつあることがしのばれる。しかし、廃墟、なかでも驚くほど爆心地に近い場所で描かれた一画などが、街の負ったいまなお癒えない傷を物語っている。とはいえ、風景上の傷として人目をひく歪んだ植物や壁をおおう蔦を思わせるものは微塵もない。その大胆な空間構成は、フォスマールがファブリティウスの同僚にして共同制作者であったことを思い起こさせる。フォスマール作品に、爆発で消滅したであろうこの有名な巨匠の諸作品がこだましていると指摘する者もいる。実際、興味深いこに、本作品におけるフォスマールの大胆にも断片化され、遮断された空間の使い方は、ファブリティウスの《歩哨》の諸特徴のなかに見出すことができる。どことなく不安げで、悲嘆の感情が沁みわたる本作品は、詩人のヨースト・ファン・デン・フォルデルがデルフトに捧げた弔辞を思い出させる。彼は、デルフトの廃墟を死体に埋め尽くされた教会墓地にたとえ、ついこの間、オランダの人々の救いの象徴となった火薬庫の倉庫が、一瞬にして破壊者に化すという皮肉を指摘したのだった。」







届いた、元気出そう

2019年07月28日 14時24分09秒 | 宝塚
 再販が発表された直後に予約していた紅5のDVDが届きました。7月30日発売予定となっていたので平日は受け取るのきびしいなあ、次の土日になってしまうなあと心配していたら、こんな人たちのために、日曜日に届くよう前倒しで発送してくれたということですかね。だとしたら、タカラヅカクリエイティブアーツ、サービスのクオリティ高いです。ありがたい。これで長い二週間を生き延びていけるかしら、生き延びていけるはず。

 台風通過からの熱波、冷房使っていると弟に怒られましたが使わないと死んでしまいます。外はものすごく熱い、暑い。一昨日の夜眠剤を使わずやっと6時間半ほどの睡眠、昨日も眠剤を使わずやっと8時間余りの睡眠。眠れると頭が回転するし気力も回復してきますね。睡眠は大切。昨日はまだ大雨が降る中を30分ほど自転車に乗りまたお風呂屋さんへ行きました。都心のスパを懐かしみながら、とにかく一週間溜まり切った毒を洗い流したかったし股関節と足が痛いのをほぐしたかったので行きました。まだ雨が降っている中をいつものごとく何種類かある露天風呂に出たり入ったりして過ごすこと2時間。あったまって汗が出たところで水を飲んで冷水をかけてまたあったまるを数分単位で繰り返すと生き返ってきます。疲労が蓄積されていることを実感しました。悪夢のような、ほんとに吐きそうな平日、こうして毒を洗い流さないとリアルに死んでしまいそうな気がします。やるだけやったのでいつやめてもいいという余白を自分に許しながら、収入は必要なのでつらくてもふんばるしかありません。また家を出るためには何十万も必要だし、収入がないと何の発言力もないし、自分のごはんを自分で買うこともできません。観劇することもできません。住民税の請求もきています。まだ開封していませんが社保加入の前の保険料の請求書も届いています。だから8月分の給料は必要。そのためにふんばる。ただそれだけ。台湾旅行に行ったしね、やめることができないようにするために行ったようなもの。

 一度リセットボタンを押したいと選んだ帰省の道。リセットボタンをちゃんと押せたのかどうかわかりません。ここは自分がずっと生きていく場所ではないことが確認できた帰省。歳をとってから生まれ育った所に戻ったあと事件を起こすのは極端な例だと思いますが、便利なら話はまた違ってくるかもですがさびれた所に戻るのは賢明なことではないようです。別に山奥ではないですが公共交通機関が整っている首都圏の生活とは雲泥の差。これからどこへ旅立っていきましょうかね。もう少し荷物を減らしたい。減らしてまたどこかへ旅立っていきたい。

 こうしてDVDを観たいとか、大劇場や東京まで観劇に行きたいとか思えるうちはまだ大丈夫なんでしょうね。この気力をなくした時が人生の終わりなのかな。あらたな家族をもつことに夢を描けなかった人生。なんのために生きているのかわからないと思うこともありますが自分のために生きればいいのだと思います。

 過酷な一週間が待っています。車危ないし、死なないように生き延びることが最大の目標。来週の月曜日休めたら梅田芸術劇場に行こうかなと目論んでいるのですが無理かな・・・。


 あきらめなかったから今がある。イバラだらけだったであろう道のりの、たどり着いた先はこうして劇団をあげて送り出してくれるというあたたかみ。このまま日本で生き続けることに希望を持てません。希望をもてるニュースがほとんどありません。そんな中であきらめなかった一人の女性がいるということは希望の灯。だからにわかファンでも歌劇の殿堂みていて心がふるえました。