桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2018年三月の薬師詣で・北区

2018年03月08日 23時35分35秒 | 薬師詣で

 三日ほど前の天気予報では、今日八日は終日曇でした。二日前ぐらいから曇のち雨と変わりましたが、雨になると予想されていたのは午後になってからでした。
 それなら、でき得る限り早めに庵を出て、去年来の念願だった茨城県の美浦村へ……と、心に期したのですが、問題は自分の体調です。
 このところ、一日じゅう体調が優れない、という日はなくてありがたいものの、朝のうちは大概頭がぼんやりしている、という日が多いのです。
 ところが、ごくごく、たま~に、朝から頭はスッキリ、という日もあるので、願わくば今月の八日は、そのごくごく、たま~に、に当たらないだろうかと期待していましたが、期待は外れました。
 天気予報も外れて、午前八時過ぎから雨……。早々に遠出は諦めて、東京は北区田端を歩くことにしました。



 家を出るのがお昼近くになってしまったので、出かける前に慶林寺に参拝します。



 山門は閉ざされていましたが、開いていた通用門を通って、本堂前にある小香炉にお賽銭をあげます。




 北小金→松戸→日暮里と乗り継いで、田端駅で降り、北口に出ました。
 生憎プリンタが故障してしまったので、いつも携行するグーグルの地図がありません。
「街っぷる東京23区」という昭文社発行の地図帳を持ちました。眼が悪くなった私には字が小さ過ぎるので、携帯用のルーペも持たなくてはなりません。


 傘を持ち、薄ら寒いので手袋を嵌め、地図を見るときには、どっちかの手に傘を持ち、空いた手の手袋を取って地図を開き……ルーペはどうするのじゃ!




 長らく東京に棲み、取材をする仕事で日々いろんなところに出向く、という毎日を過ごしてきたので、東京二十三区内のJR駅は、比較的新しくできた埼京線の浮間舟渡とか横須賀線の西大井駅などを除くと、ほとんど乗り降りしたことがある、いわんや山手線をや、と思っていました。
 今回田端へ行くことに決めたあと、ん? 田端ぁ? もしかすると、いわんや山手線をや、ではないかもしれないぞ、と思ったのですが、某月某日、どこそこで電車に乗り、どこそこで降りた、といちいち記録をしているわけではないので、予断は許しません。再開発などされていたらお手上げだが、駅頭に立ってみれば、きたことがあるかないかはすぐにわかる。
 そのように思いながら、駅を出て目にした光景は、かつて見たことのないものでした。
 おまけに真っ先に目に飛び込んできたのは、この長~く、高~い階段です。高所恐怖症を持つ私には一気にやる気をなくさせる光景です。
 加うるに雨。さらに老眼。

 この日の予定を巡り終えたあと、この階段を上る必要はなかった……どころか、上ったのがかえって遠廻りだった、ということがわかるのですが、勝手知らぬ街だったので、最初から余計な遠廻りが始まります。

 雨で脚を滑らせることもなく、老眼で踏み外すこともなく、へっぴり腰でも、なんとか無事に階段を上り終えましたが、ヤレヤレと呟いたあと、どうしようかと思い始めました。
 薬師詣でをするために出かけてきているのですから、薬師詣でをせずに帰るわけにはいかないが、ついでに廻って行こうと考えていたお寺は端折ることにしようか、と考えたのです。
 そう考えながらも、ふーむ、どうするか、と思いながら歩いて行きます。



 先の階段を上ったあと、適当に歩いていたら、芥川龍之介の旧居跡に出ました。
 芥川さんはここで「羅生門」「鼻」「河童」などを執筆し、自裁して三十五歳の生涯を終えたのもここです。傘を片手にしばし黙祷。

 芥川さんと薬師詣ではなんの関係もないのですが、偶然関係の深い場所に巡り合ったことで、なんとなく勇気づけられたような気になって、折角出かけてきたことだし、またくるかどうかわからない土地なのだから、巡ることのできるお寺は巡って行こうと心を決めました。



 最初に目指すのは与楽寺でしたが、最初から場所がわからなくなりました。
 勘違いして進んだところに、たまたま屋根付きのガレージがあり、車は出払っていたので、しばし屋根をお借りして傘を置き、バッグから地図とルーペを取り出しました。
 地図には「与楽寺坂」の文字があって、その横に「卍」印と「与楽寺」、とあるのですが、折角雨宿りができたのに、得心が行くまでじっくりと眺めることができません。雨だけではなく、結構強い風があって、開いたまま地面に置いた傘をクルクルと吹き飛ばそうとするのです。転がり始めた傘の柄をつかまえつつ、ちょっと方向違いにきているぞ、となかばわかった気になって、地図をバッグに入れ、きた道を戻り始めました。

 芥川さんの標識に出会う前、緩い下り坂があったのを見ていたのですが、それが多分「与楽寺坂」であろうと目星をつけたのです。
 しかし、坂の上にはなんの標識もありません。間違っているかもしれぬぞ、と思いながら、恐る恐る下ります。



 坂を下り切ったところ、間違いなく与楽寺坂を下ったのだと得心できる標識がありました。



 坂を下り切って、左に廻り込むと、与楽寺(真言宗豊山派)の山門がありました。
 創建は不明とされていますが、弘法大師がこの地に寺を建てたのが始まりといわれています。ということは、九世紀初頭の創建。



 与楽寺本堂。
 本尊は弘法大師作と伝えられる地蔵菩薩像ですが、俗に賊除地蔵と称されて、人々の信仰を集めてきました。
 そのいわれは、というと……。

 ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたそうです。すると、どこからともなく大勢の僧侶が出てきて、盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返してしまいました。
 翌朝、本尊の地蔵菩薩を見ると、足に泥のついているのがわかり、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだ、と信じられるようになった、ということです。



 本堂左前にある阿弥陀堂。与楽寺は江戸六阿弥陀の第四番です。

 次に訪れるのは東覚寺です。



 下調べをしていたとき、この上り坂が東覚寺坂と呼ばれているとあり、地図を見れば、この坂の左側に東覚寺の卍印があって、墓地も見えたので、上って行けば東覚寺があると思ってしまいました。
 画像奥・高いビルの見えるほうが田端駅です。



 結果的には廻り道をしたことになりました。
 先の坂を上り始めてからこの山門前に着くまで、東覚寺の寺域の背後をほぼ四分の三周、グルリと巡ったことになります。実際は先の坂を撮影した地点から画像の左方向へ行けば、ものの一分で門前に着いていたのです。



 東覚寺本堂。
 先の与楽寺と同じ真言宗豊山派の寺院です。本尊は不動明王(弘法大師の作と伝えられています)。
「北区史」によれば、源雅という僧が不動明王を勧請して本尊とし、延徳三年(1491年)、神田筋違に一寺を建立。のちに根岸に移転したあと、慶長の初めごろ、現在地に移転したということです。



 山門右手、観音堂前にある赤紙仁王尊。
 病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されているので、阿像も吽像も赤紙をベタベタ貼られて、見る影もありません。



 さらに右手には鳥居がありました。田端八幡宮です。「江戸名所圖会」には田畑八幡宮と記されています。祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと=応神天皇)。
 ここがお寺で、薬師如来が祀られているとしたら、高所恐怖症を圧してでも、上らなければなりませんが、仰ぎ見るだけで退散します。



 参道には神輿庫が並んでいました。
 さほど大きな神社とは思えませんが、神輿の数から推測すると、結構な数の氏子がいるのだと思われます。



 東覚寺を出ると、緩いながらも、また上り坂です。この坂の名はないようです。



 坂を上り切ったあたりで左に折れると、ポプラ坂という標識がありました。
 名の由来はここにポプラ倶楽部というテニスコートがあったからです。
 明治四十一年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)がつくったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。いまは田端保育園になっています。



 ポプラ坂はかなり急な下り坂でした。北区教育委員会の掲示板によると、高低差は4・69メートルということですが、見た目はそれ以上です。



 ポプラ坂を下り切って右に曲がると、法華宗陣門流の大久寺がありました。

 小田原にある大久寺(日蓮宗)のホームページによると、天正十九年(1591年)、小田原城主・大久保忠世が一族の菩提を弔うために創建したのが前身です。寺名の「大久」とは大久保の「保」を省いたといわれています。
 忠世の長子・忠隣は、二代将軍・秀忠のとき、老中となりましたが、本多正信と対立。改易されてしまいますが、同時に寺も衰退したので、石川氏の養子となっていた忠隣の二男・忠総が江戸・下谷車坂への移転させたのち、明治三十六年に当地に移転。
 一方、前身である小田原の大久寺は大久保忠任という人が石塔・位牌を戻して、小田原の地に再興した、とあるのですが、私の調べが行き届いていないのかどうか、いまのところ、忠任という人物は見あたりません。




 今日の目的地・光明院(真言宗豊山派)に着きました。大久寺門前から50メートルもありませんでした、が……。



 門は閉ざされたまま、ほかに通用門らしき入口もありません。
 境内に付属の幼稚園があります。園児の安全を守るため、門をオートロックにしている旨の断わり書きがありました。



 私用に過ぎないのに、案内を乞うて門を開けてもらうのも忍びなく、山門の格子の間にカメラのレンズを突っ込んで撮影。
「北区史」によると、本尊は大日如来で、薬師堂に聖徳太子作の薬師如来が祀られている、とあります。
 開基創立は不詳ですが、天正十九年(1591年)七月の検地水帳に「光明院」という記載があるので、安土桃山時代にはすでに存在していたことになります。
「江戸砂子」には「薬師は府内の七薬師の第二番として、昔は大に世に著はれた」と記されていますが、そもそも府内七薬師とはどこどこなのか。「江戸砂子」を手に入れたいと思って入るのですが、現状で手に入れられるのは和綴じの古書しかありません。手に入れたとしても、読めるかどうか、はなはだ疑問ではあります。

 格子の間から望めるお堂は本堂のようなので、どこに薬師堂があるのかわかりません。カメラ撮影のあと、扉越しに手を合わせて辞去します。

 庵に帰ったあと、境内に入った人のブログを見つけましたが、薬師堂については触れられておらず、画像もありませんでした、


 
 光明院横の緩い坂を上り、八幡坂と呼ばれる坂道を横切ると、大龍寺(真言宗霊雲寺派)がありました。
 創建は慶長年間(1596年-1615年)。「新編武蔵風土記稿」には「右(大龍寺)は不動院浄仙寺と号せしに、天明の頃僧観鏡光顕中興して今の如く改む。本尊大日を置く」と記されています。
 僧・観鏡光顕とは湯島にある霊雲寺の僧でありました。



 本堂は周囲を圧するような堂宇です。
 門前の石柱には「真言宗大龍寺」とあっただけなので、霊雲寺派の寺院だとは知りませんでしたが、湯島にある霊雲寺本堂をコンパクトにした感じで、よく似ています。



 門前に建てられた案内には正岡子規の墓があると記されていたので、お参りして行こうと思いましたが、墓域に通じるらしき門は鉄扉がガッチリと閉じられていました。



 かつて大龍寺が別当だった上田端八幡神社。
 祭神は先の田端八幡宮と同じ応神天皇。ただし、こちらでは誉田別命(ほんだわけのみこと)。



 光明院から大龍寺へ行くときに横切った八幡坂を上り切って少し歩くと、東覚寺を出たあとで上った緩い坂の坂上に出ました。



 まだ我が地方では開花を見ないのに、ここではすでに白木蓮(ハクモクレン)が咲いていました。

この日歩いたところ


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