桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2019年七月の薬師詣で・葛飾区~江戸川区

2019年07月08日 22時50分42秒 | 薬師詣で

 今月は今年五月に行こうと考えていたのに、体調が思わしくなかったので、行くのを取りやめた地区を歩きました。
 京成線の青砥から総武線の小岩までの行程です。



 出かける前に慶林寺に参拝し、お賽銭をあげて行きます。

 七月八日といえば、例年梅雨のド真ん中です。この時節、いつも心配しなければならぬのは雨具です。
 ところが、休むことなく薬師詣でをつづけていることを、お薬師さんが愛でてくださるのか、梅雨のド真ん中にもかかわらず、今年も雨に祟られることはありませんでした。
 今年も……というわけは……。
 薬師詣では2011年の正月八日から始めましたので、今回が九回目の七月ということになります。九回中、雨が降ったのは、2012年と2014年の二回だけです。それも、2012年は降ったのは未明で、朝八時過ぎには熄んでいました。すなわち、梅雨のド真ん中だというのに、傘を片手に歩かねばならなかったのは2014年の一度だけだった
、ということなのです。

 一方、七月、八月、ともすると九月も、薬師詣では暑さの中の苦行でもあります。去年七月は最高気温31・5度の中、足立区を歩いていました。2017年は同33・3度の中をつくばみらい市、2016年は牛久市で30・3度。
 ところが、今朝九時、我が地方の気温は20度ちょうど。え? 七月なのに、ですか? といいたくなるような気温でした。



 常磐線で金町まで行き、京成電鉄に乗り換えます。



 金町から京成金町線に二駅だけ乗って、高砂で乗り換え。そこから一駅だけ乗ると青砥です。
 今日最初の目的地は寶蔵院という真言宗豊山派の寺院ですが、途中、いくつかお寺があるので、寄って行くことにします。



 最初に訪れたのは青砥駅から徒歩六分の寶泉寺です。 真言宗豊山派の寺院。創建は慶長十七年(1612年)。本尊は大日如来。

 次の普門院は捜しあぐねてしまいました。



 こんな雑然とした路地の右奥にあり、路地の入口からは寺らしき手がかりが何も見えなかったので、地図を片手に歩きながら、一度は通り過ぎてしまっています。



 ようやく捜し当ててみれば、日蓮宗の寺院だったので、写真だけ撮って退散。

 青砥駅を出てから次の南蔵院へ歩く途中、到るところで子どもたちの声に接しました。通りすがりに眺めて行くと、保育園や幼稚園が結構ありました。マンションもそこここにあります。少子高齢化が叫ばれて久しいのに、青砥というところは日本の希望の星になるかもしれません。



 普門院から六分歩いて南蔵院。ここも真言宗豊山派の寺院です。長保年間(999年-1004年)に創建されたと伝えられています。



 奥戸橋で中川を渡ります。



 歩道の幅は充分にありますが、水面までは結構な高さがあって、高所恐怖症には禁物。おまけに全長約300メートルという長さ。
 できれば一段低くなっている、左の自転車レーンを歩ければ、川面を見ずに済みそうで安心できるのですが、ときおり走ってくる自転車があるので、そうもいきません。中途半端に怖い、という妙な気持ちを懐きながら、なんとか渡り終えました。

 奥戸橋を渡り終えると、環七通りにぶつかります。
 この日の天気予報は終日曇でしたが、環七通りを歩くころから陽射しが出て、少しずつ暑くなってきました。



 環七通りのスポーツセンター前交差点から七分ほどで、
専念寺に着きました。
 浄土宗の寺院。元和八年(1622年)、照誉存両和尚が創建したと伝えられています。この日は庭師が入って、境内の樹々の剪定中でした。



 専念寺からわずか二~三分で、今日最初の目的地である寶蔵院に着きました。真言宗豊山派の寺院です。
 応永二年(1395年)の創立。本尊は阿弥陀如来。

 


 広い境内は鬱蒼と茂る樹々に囲まれ、小さな森を形成しているような雰囲気があります。
 木立に囲まれて薬師堂がありました。ここに祀られている薬師如来は式部薬師と呼ばれています。
 式部とは竹内敬持(たけのうち・たかもち:1712年-68年)の通称。江戸時代中期の神道家で、尊王論者です。その門下で公卿・徳大寺公城(きんむら)の家臣・本堂良喜は公城が実権を奪われた宝暦事件(1758年)の際、京を追われ、この寶蔵院に身を寄せていました。その良喜のあとを追ってきたのが公城の娘・妙姫です。師の式部から拝領の薬師仏を背負ってきました。竹内式部は獄死しますが、二人はこの地に堂を建てて、薬師仏を安置し
、師の冥福を祈ったと伝えられています。それがこの薬師堂であり、式部薬師です。



 薬師堂近くには、おびただしい数のお地蔵様と供えられた風車がありました。



 薬師堂山門前に建つ薬師如来の説明板。悲しそうな物語があるような雰囲気ですが、限られたスペースでは説明が尽くし難いと推察されます。



 薬師堂側の山門を出ると、目の前が新中川の堤防でした。野良猫殿が悠然と歩いておりました。

 

 奥戸新橋の歩道の幅は先に渡ってきた奥戸橋の半分ほどしかありませんが、橋の長さも144メートルと奥戸橋の半分、川面からもさほど高いとは感じられないので、余裕綽々で渡ることができました。

 奥戸新橋を渡っているこの道は奥戸街道です。橋を渡り切ると、100メートル足らずで、江戸川区に入ります。
 次の目印は小岩駅北口交差点。
 私はインターネットをさまよったり、その他の知識によって、薬師如来をお祀りしている寺院や御堂を見つけると、グーグルマップの「」=スター付きの場所に保存しておくことにしています。別にリストをつくり、寺院名(薬師堂名)、宗派、所番地、備考など、一覧表に書き加えておきます。それをためつすがめつしながら毎月の訪問地を決めるのです。



」マークをつけておいた場所に着きました。
 囲いで覆われていますが、隙間から覗くと、中は草茫々でした。薬師如来が祀られているような雰囲気はありません。
 帰ってから調べてみると、ここはホテルニューオークラというホテルのあった跡でした。
 インターネットで識った情報では、五年前に火事を出して、そのまま廃業になったらしいことと、ホテルと謳っていても宿泊施設はなく、宴会場……とありましたが、かつてはホテルだったのです。
 もう四十年以上になりますが、小岩で一泊する事情があって、私は妻子ともどもここに泊まったことがあるのです。
 それはそれとして、なぜ「」マークを付けたのか、出先ではよくわかりません。薬師堂らしき御堂はありそうもないので、首を傾げつつその場をあとにしました。



 帰りはどういうふうに帰ろうかと思案しながら小岩駅のコンコースを通り抜けて、北口から南口に出ます。



 小岩駅から四分歩いて、興聖寺に着きました。
 今回訪れた中では唯一我が宗派(曹洞宗)の寺院です。昭和十二年九月、布教所が開所されたのが始まりです。この日は人の気配はなく、ひっそりと静まり返っていました。



 次の東養寺までは少し距離がありました。 興聖寺から徒歩十五分。真言宗豊山派の寺院。
 草創の由来は覚裔というお坊さんが鴻ノ台(国府台)合戦で里見家が滅亡した際、家老の持仏であった木造薬師如来立像を本尊として一寺を建立したもので、通称「入谷の薬師様」と呼ばれています。
 国府台合戦とは戦国時代、下総国国府台(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏対里見氏。天文七年(1538年)と永禄六年(1563年)の二度にわたる合戦の総称です。

 東養寺参拝で今日の薬師詣ではおしまいですが、すぐ近くに影向(ようごう)の松で有名な善養寺があるので、そこに寄ってから帰ることにします。



 善養寺山門。前の東養寺もこの善養寺も訪れたことがあります。2010年六月のこと。九年も前です



 山門をくぐると、50メートルほど前方に国の天然記念物 ― 影向の松が枝を拡げています。



 高さは8メートルほどですが、東西方向約28メートル、南北方向約31メートルにも及び、繁茂面積は800平方メートル以上。



 善養寺は室町時代の大永七年(1527年)、山城醍醐山の頼燈法印が霊夢のお告げによって小岩の地を訪れ、堂宇を建立したのが始まりと伝えられています。しかし、それより二十年近く前の永正六年(1509年)の柴屋軒宗長「東路のつと」に当寺の記事があることから、寺の草創は寺伝よりもさかのぼると考えられます。本尊は地蔵菩薩で江戸時代の作です。



 影向の松が東へ枝を延ばす先には不動堂。



 仁王門には横綱が飾られています。小岩出身の第四十四代横綱・栃錦がつけたものです。



 仁王門。この裏側 ― 右に横綱が飾られ、左には土俵入りをする栃錦のフィギュアが飾られています。



 帰りはかなり疲れ果ててしまいました。歩くのはやめて、歯科医師会館というバス停から小岩駅南口まで京成バスに乗ることにしました。

この日の行程

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする