今月の薬師詣では江東区深川を歩いてきました。
じつは、先月のうちに、今月の薬師詣では茨城県つくば市、来月は同県美浦村、と決めていたのです。その理由は、今月八日は日曜日、来月八日は火曜日(平日)だから、です。
どちらも鉄道駅からバスに乗らなければなりません。つくば市のほうは土日祝であれば、一日乗り放題のフリーパスが買えます。フリーパスがなければその日予定している行程のバス代が九百円かかるところが五百円で済み、美浦村のほうは平日でないと、帰りのバスの時間の具合が悪いのです。
今朝は肌寒い思いのする朝でした。実際はそんなに寒くなかったのかもしれませんが、暖かいのを通り越して、暑いと感じるほどの日がつづいたので、体感温度が狂わされたのでしょう。瞬時ではありましたが、まだ片づけずにいたコタツのスイッチを入れたほどでした。
で、体調はどうであったかというと……やはり寒いからか、朝のうちは意気軒昂とは行かず、身体のエンジンがなかなかかからない。
つくばまで行くとなると、あまりボヤボヤしていられません。出発が遅くなれば、帰ってくるころには日が暮れてしまいます。いまの時期は日中暖かくても夜は冷えます。
十時になったら、つくば作戦を決行するか、近場に変更するかを決しようと思いながら、どちらにしても必要な昼食用の握り飯を握っていました。
十時を過ぎました。まだいま一つ気乗りがしません。
つくばまでの遠出は諦めて、近場に変更することにしました。ノートPCを開いて、どこへ行くことにするか、検索。
江東区? 葛飾区? 足立区?
地域別に薬師如来をお祀りしている寺院や御堂をファイルしてあります。いろいろ眺め、比較検討した結果、江東区にすることで落ち著きました。
急ぐ行程ではないと決まったので、出かける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
参道の御衣黄桜(ギョイコウザクラ)は満開に近づいています。
北小金~北千住~曳舟と乗り換えて、東京メトロ半蔵門線の清澄白河で降りました。この駅で降りるのは初めてですが、門前仲町界隈を主として、深川には数え切れぬほどきています。
ただ、千葉県民となってからは行きにくいところと化してしまったので、訪れたのは十年前と八年前の二度だけ。
清澄白河駅を出て三分。最初に訪れたのは浄土宗正覺院です。厨子入木造薬師如来立像(江東区有形文化財)が祀られています。
毎月八日は薬師如来の縁日なのに、法要その他がほとんどないことは、薬師詣でを始めて八年ともなると、慣れっこです。
ただ四月だけは別です。お釈迦様の誕生日と重なるので、多くのお寺には花御堂が置かれて、賑わっています。甘茶をかけて拝む人がいたりすればなおさらです。そういう人がいなくても、華やいだ雰囲気があります。
正覺院でも客殿前に花まつりの花御堂がありました。
前回参詣したのは八年前です。
ついこの前……とは思わないが、そうか、もうそんなに経ったのか、と感慨深いものがありますが、そのときは本堂前の鉄扉が閉ざされていたので、広角レンズがないと真正面から写真を撮ることができませんでした。今日は扉が開け放たれていたので、道路に出て撮影することができました。
寛永六年(1629年)、あとで訪れる霊巌寺の塔頭として霊巌島に創建されたお寺です。開山は霊巌寺と同じ、のちに京都・知恩院第三十二世となる雄誉霊巌上人です。明暦の大火(1658年)で焼失後、現在地に移転しました。
正覺院前の道を挟んで、成等院、長専院と並んでいますが、前にも訪れているので、今日は参拝を省略。霊巌寺だけ表敬訪問して、次の目的地に向かうことにします。
霊巌寺は寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人が隅田川河口を埋め立てて霊巌島を築いたときに創建されました。明暦の大火後、先の正覺院と同じく現在地へ移転。
霊厳寺本堂です。
後ろに見える高層建築はコンフォートホテル東京清澄白河。古きよきものと新しいものとのマッチングは、都会の寺院ならではのいい構図だと思いますが、どうでしょうか。
江戸六地蔵の一。
樂翁・松平定信の墓所。この日も鉄の門扉は閉ざされていました。
霊巌寺にも花御堂がありました。
霊厳寺をあとに、門前仲町方面に向かって清澄通りを南下します。
江東区立平野児童館前に建てられた滝沢馬琴誕生の地の案内板。
馬琴は明和四年(1767年)、旗本・松平信成(別名・鍋五郎)の用人を勤める下級武士の五男として、このあたりにあった松平邸内で生まれました。
案内板の下に見えるモニュメントは、馬琴の代表作「南総里見八犬伝」九十八巻百六冊の和綴じ本を積み上げたものです。
海辺(うみべ)橋を渡ります。
橋の下を流れるのは仙台堀川です。
霊厳寺前から十五分歩いて、高野山真言宗・萬徳院に着きました。
創建は寛永六年(1629年)、場所は八丁堀材木町。創建から十四年後の寛永二十年、現在地に移転。いまのところ、その他の詳細は知れませんが、本尊・薬師如来と書かれた御朱印を見たことがあるので、お参りにきたのです。
本堂の写真を撮ったあと、私は思わず「あっ」と叫んでいました。極度の高所恐怖症を持っているのに、左の階段を上らないと賽銭箱には到達できないとわかったからです。
薬師詣ででお邪魔するお寺には、必ずお賽銭を上げることに決めています。賽銭箱の見当たらない寺もあるので、そのときは致し方なしと思いますが、賽銭箱があるのにお賽銭を上げなかったことは、かつて一度もありません。
しかし、賽銭箱があるとわかっているのに、行けるかどうかわからないというのは初めて。どうするかとしばし逡巡。
意を決して階の下に立ちました。両側に手すりがあります。両手でつかめる位置です。つまりそれだけ幅の狭い階段だということです。幅がもっと広く、願わくば傾斜が緩やかであれば、片手しか触れない手すりでも高所恐怖症は和らぐのですが……。
途中に踊り場が二か所。これを省いていいから、そのぶん傾斜を緩くしてほしかった。
段数は〆て二十六段ありました。否、わずか二十六段しかなかったというべきなのでしょうが、私にはあまりある段数でした。
上りはへっぴり腰で、下りは差し足すり足でお賽銭をあげ、なんとか無事地上に生還。
この萬徳院には力士、親方、行司の墓が多く、江戸時代から相撲寺として親しまれてきました。
私は歳とともに大相撲にもプロ野球にも関心が薄れ、ことに大相撲は貴乃花関連、京都・舞鶴巡業関連で、すっかり興味を失いかけています。
あと一か所だけ寄って、清澄白河駅へ引き返すことにします。
寄りたかったところとは、伊能忠敬先生の住居跡でした。
この碑以外に伊能先生を偲べるものはありませんが、先生は寛政七年(1795年)、五十歳のときから文化十一年(1814年)、六十九歳のときに八丁堀亀島町の屋敷へ引っ越すまで、この地で暮らしたのです。
先生の十次にわたる測量行のうち、一次から八次まで、この旧居から出発しています。
清澄通りを海辺橋の南詰まで戻ってくると、彩荼庵(さいだあん)跡の石碑と縁側に腰かけているていの芭蕉像がありました。
江東区が建てたこの石碑には「さいとあん」と仮名が振ってありますが、「さいたあん」、もしくは「さいだあん」と読むのが一般的なようです。
彩荼庵とは芭蕉の弟子・杉山杉風(1647年-1732年)の号でもあり、杉風が持っていた別荘の名でもあります。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前、しばらくここに滞在してから、千住に向けて旅立ったのです。
偶然ですが、今日所縁の場所を訪ねた三人とも、江戸時代という短命であることが当たり前の時代に、長寿をまっとうしました。滝沢馬琴は八十二歳、伊能忠敬先生は七十四歳、杉山杉風は八十六歳。
仙台堀川に沿った小径に「芭蕉俳句の散歩道」などという案内があったので、歩いてみましょう。
どんなところか、と足を踏み入れてみましたが、特段のことはありませんでした。
芭蕉が「奥の細道」で詠んだ、代表的な句が木札に書かれています。
「閑さや~」とか「荒海や~」とか、木札は都合十七枚。建てた人の労は多とし、すべてをカメラに収めた私の労も多としますが、キリがないので、画像添付は二枚で終わりにします。
「芭蕉俳句の散歩道」を歩き終えると、清澄橋です。ここで仙台堀川を渡ると、正面に清澄公園、右手に清澄庭園。
公園は無料、庭園は有料。有料といっても、都立の公園ですから、わずか¥150です。六十五歳以上の私は¥70。
そのわずかな金額を惜しんだわけではありません。ひところと違って、すでに歩き疲れています。
行きに降りた清澄白河駅から帰るのですが、そこまで辿り着けるかどうかという体調。庭園見学はパス。
公園を通り抜け、庭園の入口を過ぎたところに浄土宗本誓寺がありました。
ここにも花御堂。
深川には宿題を残しています。
幕末期の勘定奉行であった矢部駿河守の墓所を二度訪ねていながら、二度とも墓石を見つけられていないのです。余力があれば帰りに、と再々挑戦を期していましたが、すっかり歩き疲れてしまっていたので、今日の日はギブアップです。
帰りの電車は行きの順路をそのまま戻ったのですが、北千住に着いたとき、乗っていた車両の扉口が千代田線に到る下り階段の真ん前でした。
エッチラオッチラ降りて、乗換通路を進み、千代田線プラットホームへ下る階段上まで行くと、ドッと上ってくる降車客。どっちの電車がきたんでェと透かしみれば、止まっていたのは私が帰る方面に向かう電車です。
千代田線から常磐線へ直通する電車は、北千住の次の綾瀬止まりと私が乗るべき我孫子直通と交互にやってきます。直通か否か、いずれにしても間に合わねェ、となかば諦めながら、またエッチラオッチラ下りつつ、行き先表示をみれば我孫子行です。間一髪で先頭車両に滑り込むことができましたが、滑り込み組が扉の周辺に立っているので、当然空いている座席などありません。
ところが、次の綾瀬で坐っていた二十人ぐらいの客がドッと降りてしまったのです。おぢさん、シメシメとばかり着席。
こうして今月も薬師詣でをしたあとは、ほんのちょっぴり佳きことがありました。