時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

狂気は静かに、そして確実にやって来る

2006年10月31日 | 憲法・平和問題
読者諸兄がよくご存知の次の言葉から、今日の記事を始めよう。
『ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動に出なかった。
次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動に出なかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を増したが、それでもなお行動に出ることはなかった。
それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから立って行動に出たが、その時はすでに遅かった。』
ナチスの時代に、戦争に反対したドイツの牧師、マルチン・ニーメラーの言葉である。
今に生きる人間から見れば、戦前、日本の軍部やドイツのナチスの狂気をどうして阻止できなかったのか、不思議に感じる人が多いであろう。
しかし、当時の人々をそういう狂気に駆り立てたものは、指導者による周到な洗脳や世論操作、想像を絶する過酷な思想弾圧などであった。
人間は、環境への優れた適応力を有しているがゆえに、ゆっくりとした環境の変化には、さほど苦もなく適応していく。そして、行き着く所まで行って、初めてその歩みを振り返り、痛恨の思いに浸ったのが、あの敗戦の日であった。
いま、入学式や卒業式での「国歌」斉唱、「国旗」掲揚の強制、教育基本法の「改正」、閣僚による核保有容認発言、自衛隊のイラク派兵、防衛庁の「省」への格上げ問題、9条の形骸化を目的とする憲法「改正」など、徐々にではあるが、確実に国民に対する洗脳や世論操作が進んでいる。
たとえば、読者諸兄の中で、「国歌」斉唱を潔しとしない方も少なくないであろう。しかし、自分の子供や孫の小学校の入学式の「国歌」斉唱で、起立もせず、悠然と席に座り続けているには相当な勇気が必要であろう。心ならずも、起立する方もいるのではなかろうか。このようにして、群集同士の監視が生まれ、起立しなかった父母は異端視されるようになり、やがては「国家」斉唱の際は起立すべしとの考えが意識の中に刷り込まれ、このような世論が徐々にではあるが、確実に形成されてゆくのである。
消費税などもそうであろう。
消費税の導入の際には、国民も低所得者に不利なこの間接税の本質を見抜き、猛反対をしたが、5%への税率のアップの際には、それほどの世論の高揚もなく、そして今や、10%台へのアップも「やむを得ない」と考える国民が半数に及んでいるのである。政府による財政赤字宣伝、少子高齢化による福祉・医療対策の必要性、緩やかな税率のアップ等々によって、多くの国民の感覚は麻痺し、「消費税止むなし」との洗脳を甘んじて受け入れつつあるのである。
多くの読者諸兄は、自分の生きた時代よりも、少しでも平和で住みやすい世の中を子孫に残したいと願いながら日々を過ごしていることであろう。
それを実現できるかどうかは、現在を生きている我々の考えや日々の行動にかかっていることを肝に銘じておきたいものである。


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