フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

なぜ外国人を研究するのか?

2008-12-25 23:50:16 | Weblog
クリスマスはウィーンでは家族のお祝いなので、街はしんと静まりかえる。

今はどうか知らないけれど、20年前は店もレストランも閉まって、文字通り氷で固く凍てついた石畳を歩くと、カンカンとまるで『第3の男』の一シーンのように足音が響いた。それくらいシンとする。ウィーンで一番古く、小さなルプレヒト教会に行くと、夜のミサが行われていて、司祭の祈りに合わせて、人々は子供の頃から空で覚えている祈りの歌を続けていくのに出くわしたものだ。こちらは物見高いだけの外国人であって、一言も発せず、ただ呆然とするしかないのだ。12月に入ってやけにBachの曲がラジオから流れると思ったが、考えてみれば、Bachは宗教音楽だったのだ。12月以外、Bachの曲がラジオから流れることはない。世俗的なウィーン人にとってもさすがに12月だったのだろう。

今日は修士論文の締切。ぼくのところでも1人提出。ベトナム人のコミュニケーション問題についてまとめてくれたもの。僕らはベトナムの人々について何も知らないと思う。彼らは人から叱責されたり文句を言われたときには雰囲気を良くするために頬笑むのだ。そして、謝るときには心から謝らなければならないため、納得しなければ決して謝らない。しかし、僕らとまったく関係がないわけではない。坊ちゃんの世界や小泉八雲の世界には同じように行動する日本人がいたのではないのか?

午後は将来構想の会議で将来のない話。ここは現在の日本だなあと思ったり。

ところで。

先週は不満足ながら、日本人の参加する接触場面について話す機会があったけれど、最初は出来る限り平均的な日本人について語ろうと思って準備をしていた。外国人が接触しそうな日本人の平均像を構成してみたかったので。けれども、やっぱりやっていくと境界にいる日本人や日本人とすら思わない人々に関心が向いていく。だからそれは外国人を対象としたぼくの研究の延長に他ならないことになってしまった。なぜ自分はこんなに外国人の研究をしているのかと、東の空にオリオンが昇ってくるのを眺めながらあらためて考えようと思ったのだが、即座に答えはかえってきてしまった。ぼくが外国人だから。簡単なことだった。そう言い切る覚悟があるかどうか怪しいものだけど、きっとぼくだけのことではないだろうと自分を励ますことにしたい。
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