フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

コミュニケーションの基盤となる規則と基底規範

2008-06-19 23:17:03 | today's seminar
この2つは似て非なることは注意しておいてよいと思います。

基盤となる規則とは、たとえば日本人とオーストラリア人がコミュニケーションに入るときにどちらかの母語の規則を基盤とする場合に言います。ただし、これらの規則はその場面の規範にはなっていないので、コミュニケーションの基本材料というほどの意味になります。

一方で、基底規範は、基盤となった規則の中から、その場面に適切なものを選択したり、修正したり、新たな規則を創造したりして形成されるものであり、相互行為のためにも、またその評価のためにも使われるものと言えます。だから、日本人とオーストラリア人が、英語を基盤の規則として採用しても、英語母語話者の規範そのままでコミュニケーションをするわけではなく、二人の間の交渉によってどの程度の規範が許容されるのかが決まっていくのです。

そんなことを月曜日の博士課程の学生さんたちと考えていたのですが、そのときに、2年前のニューヨークのバスターミナルでの話をしました。チケット売り場の窓口の人たちは、じつにさまざまな客の話に対して、言葉遣いなどはまったく気にしないで、じっと聞きながら、要求が何であり、その要求は可能か否かという点だけに集中しているように見えました。私はその様子を見ながら、この場面は何だろう?接触場面?と思って説明が付かなかったわけですね。なぜならそこにはコミュニケーションの規範のことなどまったく重視されていないように思われたから。

授業が終わって、帰り際、あそうなんだと思ったことがありました。

たとえば日本の社会では基底規範がじつにはっきりしていて、日本人は言葉遣いが規範に沿っているか否かを聞いているのでしょう。しかし、ニューヨークの窓口係は、基底規範などを前提に出来ない場所に座っているために、基盤としての英語の規則から意味を読み取ろうとしていたのではなかっただろうか。別な言い方をするなら、彼らは基盤としての言語規則から規範を交渉し、作り上げようとしていたのです。逆に、日本では、規範は交渉されるものではなくすでにそこに在るものなのだと思います。

もしこの理解が正しいとするなら、現在の相互作用に関する研究のいたるところで主張され前提とされている「相互作用の中で意味が作られていく」という観察は、ニューヨークでは正しいが、日本では受け売りの誤解にすぎない、ということにもなりそうです...
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