今週、大学院の授業でGumperz, Cook-Gumperzの編集によるLanguage and Social Identity (1982, Cambridge: Cambridge University Press)の第1章 Introductionを読んでいた。この論文集が対象としているのは、アメリカの移民や非標準英語の話者たちが自分たちのethnicityを示す話し方を指標としてコミュニティを形成しはじめた新しいタイプのethnicity identityである。
その説明を読んでいて、言語能力ではなく社会言語能力上のクセのようなものが誤解を与えること、それだけでなくポスト産業社会のさまざまな官僚主義的な手続き(e.g.就職面接)において問題が起こることが主題になっていることはよくわかった。
ただ、ぼくはまたべつなことも考えていた。移民たちが2世、3世になり、言語問題が消えたときに現れる言語問題を考えたときに、当事者たち、研究者たちも、メインストリームのアメリカ人と移民のインターアクション場面を接触場面とみなしていたのだろうか、ということだ。おそらくそうはみなしていない。だからここには接触場面であることを認めないことによって問題の所在が潜在化されてしまう、新たな言語問題が生じているのだろうと思った。アメリカの研究者が接触場面に理解を示すことが少ないことは明らかだ。そして、先日のシンポジウムに来てくれたチェコの人々もまた接触場面について触れることが非常に少ないことも示唆的だ。
ある相手とのインターアクションの場面を特別なものとして捉えること、それは相手自身を別な態度でもって接することにつながるが、それは彼らの対人的な信念と相容れないものがあるのかもしれない。つまり、あくまでも普遍的な人間として相手を遇することが基本態度としてあり、接触場面の概念はそこから逸脱してしまうように感じられるのではないか。だから接触場面の代わりに権力概念が持ち出されると、とても受け入れやすく感じられる。普遍的な人間同士を基本にしながら、そこでの力関係で不均衡が生じると考えれば、なんの違和感もない。
日本社会では相手の姿や言葉から特別扱いすることは朝飯前のことだ。そして、接触場面研究が始まった、日本人とオーストラリア人のインターアクションにおいては、両者の相違はあまりに明らかであり、接触場面は認めざるを得ないものであった...。
写真は研究室のある建物から帰りがけにみた夕焼け。40年前のレンズをつけて写してみた。Abent Rotというほどではない。