今日の大学院授業でようやくNeustupny(1985)の村岡訳を読み終わりました。やはり印象は圧倒的です。もちろん、この論文では訂正理論correction theoryが全面に出ており、調整と訂正がほぼ同じ意味で使われていたりしますが、Masumi-Soさんの借用語の研究、Marriottさんの日本人女性の英語場面研究、Asaokaさんのパーティー場面の研究を縦横に駆使しながら、新しい接触場面の理論を構築していきます。とくに次のような文は、昔から目から鱗が落ちる思いをしたところです。
「このフォリナー・トークという概念は確かに極端なほど役立つ道具である。しかしながら、もし私たちが一つ一つ段階を進んでいき、フォリナー・トークを単に簡略化以外の訂正過程を含むように拡げ、さらに語の狭い意味での言語以外の行動にも拡げていくなら、結局、フォリナー・トークは単純に「接触場面における母語話者による訂正」と同義になるのではないだろうか?」
読み終わってから、さらに借用語について話題が出ました。メルボルンに住む日本人同士が日本語で話しても英語からの借用がたくさんあるという話から、日本でも中国人同士、ベトナム人同士では、やはり日本語が借用されるという話です。それも「あいさつ」がよく日本語で行われるという話が盛り上がりました。スリランカ人同士ではそんなことはないと学生が言うのですが、じつはシンハラ語母語話者同士での挨拶は英語からの借用で行われるのです。さらに日本語を借りる必要はないのでしょうね。こんな例外からも、どうやらあいさつは借用されやすいことがわかります。
「このフォリナー・トークという概念は確かに極端なほど役立つ道具である。しかしながら、もし私たちが一つ一つ段階を進んでいき、フォリナー・トークを単に簡略化以外の訂正過程を含むように拡げ、さらに語の狭い意味での言語以外の行動にも拡げていくなら、結局、フォリナー・トークは単純に「接触場面における母語話者による訂正」と同義になるのではないだろうか?」
読み終わってから、さらに借用語について話題が出ました。メルボルンに住む日本人同士が日本語で話しても英語からの借用がたくさんあるという話から、日本でも中国人同士、ベトナム人同士では、やはり日本語が借用されるという話です。それも「あいさつ」がよく日本語で行われるという話が盛り上がりました。スリランカ人同士ではそんなことはないと学生が言うのですが、じつはシンハラ語母語話者同士での挨拶は英語からの借用で行われるのです。さらに日本語を借りる必要はないのでしょうね。こんな例外からも、どうやらあいさつは借用されやすいことがわかります。