新学期2週目。今週は一昨年からはじめた「多文化接触論」の枠組みについて話すことになり、いくつか手元にある文献を読みながら考えていた。以下、3論文について覚え書き。
住原則也ほか(2001)『異文化の学びかた・描きかた』世界思想社 その1章
この論文では、ぼくも新版日本語教育事典で書かせてもらったけれど、グローバル化がもたらす共通化とその反応としての固有化の話。つまりグローバル化が地球全域に拡がっていくだけでなく、かならずそこに抵抗や伝統の再編成やノスタルジアが生じることがわかりやすく語られている。そして固有化を認めた途端に自国内の多様性・異質性もまた認めなくてはならなくなるのが論理的な帰結であることも指摘している。
丸山真純(2007)「「文化」「コミュニケーション」「異文化コミュニケーション」の語られ方」伊佐雅子監修(『多文化社会と異文化コミュニケーション』三修社
丸山氏の論文はこの教科書の最後に載っていて、もしかしたらそれまでの章で書かれていることを批判しているのではないかと思うのだけど、コミュニケーション・モデルの中でノイズとして捉えられる異文化コミュニケーションに対して、構築主義的な異文化コミュニケーションを主張したもの。接触場面研究でもよく「円滑なコミュニケーションのために」という言葉を使ってしまうことがあるが、ぼくにはいつもひっかかるものがあった。丸山氏はそれが結局、固定したコードを共有した集団のコミュニケーションを良しとする前提から来ていることを明かしている。その他にも論点盛りだくさんで、たとえば参加者の文化が異なるからコミュニケーションに影響を与えるのではなくて、異文化コミュニケーションを行ってから自文化、他文化が意識される。つまりコミュニケーションが文化を構築していく、など明瞭に表現してくれている。
小林悦夫(1993)「第2言語としての日本語教育の課題」『中国帰国者定着促進センター紀要』第1号
これはずいぶん前の論文だけど、ここで提出されている「第2言語として」、つまり日本で人生を送ることになる外国人居住者(ただしここでは中国帰国者)のための日本語教育という文脈について、これ以上の深みと精緻さで論じているものはないように思う。つまり、小林氏が提起した問題はいまだに日本語教育で熟考されていないという気がする。田中望さんの影響があるのだと思うが、同じように影響を受けている人々に比べて、とてもバランスの良い見方をしている。外国人を受け入れるということに対する日本社会のさまざまな感情が解きほぐされている。
*
久しぶりに熱の入る授業をいくつかしてすっかり筋肉痛になる。
今日は新宿まで言語政策学会の会議に出かけた。昨日と打って変わって陽気が戻る。
定例会のほうでは丸山英樹氏(国立教育政策研究所〈NIER〉)による「欧州の社会統合政策に見る言語と文化ートルコ系移民を中心にー」の話。最後のところで丸山氏がさまざまなトップダウン式の言語政策には限界があるのではないか、複言語を学習しようとか、少数言語話者の権利保障とか、上からの視点から政策をかかげても、個人の選択や意図が残ってしまうのではないかという問題提起が面白かった。要するにトップダウンの言語政策よりもボトムアップの言語政策を模索する必要があるという指摘なのだろうと思い、質問をしてみたら、ボトムからアップさせる必要があるかどうかも考えるべきではないかと答えてくれた。つまりインターネットも含めて横のつながり(ネットワーク)のほうがずっと強力であって、トルコ系(じつはイスラム系)移民の例を見ていると、国による政策のほうが後手にまわってどうしたらよいかわからない場合が一部に出てきているという。これは1つの視点である。
住原則也ほか(2001)『異文化の学びかた・描きかた』世界思想社 その1章
この論文では、ぼくも新版日本語教育事典で書かせてもらったけれど、グローバル化がもたらす共通化とその反応としての固有化の話。つまりグローバル化が地球全域に拡がっていくだけでなく、かならずそこに抵抗や伝統の再編成やノスタルジアが生じることがわかりやすく語られている。そして固有化を認めた途端に自国内の多様性・異質性もまた認めなくてはならなくなるのが論理的な帰結であることも指摘している。
丸山真純(2007)「「文化」「コミュニケーション」「異文化コミュニケーション」の語られ方」伊佐雅子監修(『多文化社会と異文化コミュニケーション』三修社
丸山氏の論文はこの教科書の最後に載っていて、もしかしたらそれまでの章で書かれていることを批判しているのではないかと思うのだけど、コミュニケーション・モデルの中でノイズとして捉えられる異文化コミュニケーションに対して、構築主義的な異文化コミュニケーションを主張したもの。接触場面研究でもよく「円滑なコミュニケーションのために」という言葉を使ってしまうことがあるが、ぼくにはいつもひっかかるものがあった。丸山氏はそれが結局、固定したコードを共有した集団のコミュニケーションを良しとする前提から来ていることを明かしている。その他にも論点盛りだくさんで、たとえば参加者の文化が異なるからコミュニケーションに影響を与えるのではなくて、異文化コミュニケーションを行ってから自文化、他文化が意識される。つまりコミュニケーションが文化を構築していく、など明瞭に表現してくれている。
小林悦夫(1993)「第2言語としての日本語教育の課題」『中国帰国者定着促進センター紀要』第1号
これはずいぶん前の論文だけど、ここで提出されている「第2言語として」、つまり日本で人生を送ることになる外国人居住者(ただしここでは中国帰国者)のための日本語教育という文脈について、これ以上の深みと精緻さで論じているものはないように思う。つまり、小林氏が提起した問題はいまだに日本語教育で熟考されていないという気がする。田中望さんの影響があるのだと思うが、同じように影響を受けている人々に比べて、とてもバランスの良い見方をしている。外国人を受け入れるということに対する日本社会のさまざまな感情が解きほぐされている。
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久しぶりに熱の入る授業をいくつかしてすっかり筋肉痛になる。
今日は新宿まで言語政策学会の会議に出かけた。昨日と打って変わって陽気が戻る。
定例会のほうでは丸山英樹氏(国立教育政策研究所〈NIER〉)による「欧州の社会統合政策に見る言語と文化ートルコ系移民を中心にー」の話。最後のところで丸山氏がさまざまなトップダウン式の言語政策には限界があるのではないか、複言語を学習しようとか、少数言語話者の権利保障とか、上からの視点から政策をかかげても、個人の選択や意図が残ってしまうのではないかという問題提起が面白かった。要するにトップダウンの言語政策よりもボトムアップの言語政策を模索する必要があるという指摘なのだろうと思い、質問をしてみたら、ボトムからアップさせる必要があるかどうかも考えるべきではないかと答えてくれた。つまりインターネットも含めて横のつながり(ネットワーク)のほうがずっと強力であって、トルコ系(じつはイスラム系)移民の例を見ていると、国による政策のほうが後手にまわってどうしたらよいかわからない場合が一部に出てきているという。これは1つの視点である。