フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

日本語教育学を異文化接触の社会言語学をもとに構想する

2008-01-16 23:31:59 | today's seminar
昨年の10月から千葉大の日本語教育学の将来について考えを温めていました。とりあえず、自分の中ではある程度までまとまった気がするので、忘れないように書いておきます。さて、うまく書けるかな...

日本語教育学という分野はまさに学際の極みで、教育学、日本語学、応用言語学、そして実践的教育指導、などのさまざまなアプローチからの研究や実践が行われてきました。逆に言うと、ほとんどのアプローチは日本語教育学に固有の学問領域というよりも、それぞれの寄って立つ分野の応用といった面が強いように思います。

それでは、固有の領域はないのか?ま、ないのかもしれないのですが、私が思っているのは、接触場面に端を発する異文化接触研究こそその領域の有力な候補ではないかということです。それは、ネウストプニー先生がかつて言ったように、日本語教育は、接触場面で外国人と日本人がどのようにどのように日本語を使い、どのようなインターアクションをしているか、というその現場から出発すべきだという考えに立っています。

つまり、どのように教育すべきか、日本語とはどのような言語か、というのも大切だけれども、日本語教育学の中心に置くべきなのはこの異文化接触の場面なのだと思うのです。

千葉大の日本語教育学において、私は、こうした異文化接触の理解と研究を土台にして、日本語教育について学んだり、研究を進めたりする学生を育てたいと思っています。ですから、学生さんには外国人の生き方や外国語によるコミュニケーションに強い関心をもってほしいと考えています。

そんな安易な考えで日本語教育が出来るか、なんて叱られるかもしれないのですが、だんだん育ってきて海外で教え始めている若き日本語教師の皆さんを見ると、私の考えは間違っていないと少しだけ自信のようなものが持てる気がしています。日本語を教えることの前に、相手ときちんと向き合うことを前提にして(これ以外に異文化接触の基本はないでしょうし)、日本語を教え始めている姿が何とも嬉しいのです。

異文化接触は、しかし課題が山積しています。たんに外国人とコミュニケーションをする場面を理解すればよいというわけではないと思います。たとえば、その外国人とはどんな人なのでしょうか。もしかしたら出身国ではマイノリティかもしれません。あるいは多言語使用者かもしれません。中国帰国者だっているのです。だから、異文化接触の研究は、社会言語学の基礎の上に、言語使用、コミュニケーション、インターアクションについて考えていきますが、他方では多くの社会研究や文化批判ともつながる可能性を持っているわけです。

私はそうした異文化接触の社会言語学をコアにしながら、さまざまな開かれた学問とのネットワークの中に、千葉大の日本語教育学を構想したいと思います。
(あ、なんか青年の主張っぽくなってしまったので、これにて終了!)
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