RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

二枚肉の霊力と石庭の景石で肝を据える日

2009-06-19 14:04:22 | つぶやき

(ラッパを吹き鳴らせダチュラ)

祝!ホークス交流戦V2
よかったね
気を引き締めて
そして日本一へGOです

そんな朗報にも気は晴れず
頭痛と胃痛でバァファリンリン
その上
金縛りならぬ 金欠縛り中の
汗と涙の日々を
開き直るにはまだまだ修行もたりぬし
なにか肝の据わる手立てを
探していたが
そんなにうまくは行かないもん
せいぜい眠れぬ夜に本でも読んで
心を平常心にさせる言葉を
拾ってみる・・・程度よ。

この前
「日本の庭」について
いろんな人が語る本に載っていた話

鹿児島の知覧の日本庭園の話で
石庭の景石のなかには九割方土に埋めて
地上にはほんの一割の姿しか
見せていないものがあるという

そこの主人が
その石をじっと見詰め
「あの石は我が家が燃えても
桜島が噴火しても微動だにしないぞ。」
と心に念じて
「肝を据える」 という
庭の効用としては
なかなかに
ナイスなものであると思う
だから
肝を据えたい時は石庭に行こうと思う
いけない時は
何処か禅寺の石庭でも思い浮かべてみよう
我が家の近所にも石が沢山置かれてある
不思議空間があるが
どうもほとんど地上に姿があって
逆に不安定感を助長してくれる
ふん
やはり霊力を貰えそうな
シャーマニズム石庭の景石を
思い浮かべるしかない



シャーマン?
といえば霊力
霊力って言えば二枚肉だ
先日
新聞を読んでいた自転車君が
「「漢字の物語」って記事
面白いよね、読んでる?」
と言った
「まあ~時々ね」
とるる
その日の漢字は
「追」だった
実際、最近はあまり読んでいない
ちょっと読んでみるとする


その日の漢字は「追」だった

「追」や師匠の「師」に共通の
偏部分の意味は
軍隊が出陣する時の肉の形だそうな
しかも二枚の肉が繋がった形
うんうん 繋がってるね

此の肉には自軍を守る霊力があると
考えられていたそうな
だから軍隊には必ず二枚肉を携帯した
師の右の部分は刀を表すので
軍隊が別れて闘う時
二枚の肉を切り離す人のことを
「師」と呼びましたと 

大切な肉切りの権限は
氏族(共通の祖先を持つ人たち)
長老の仕事であり
引退後。若者の指導にあたったから
「せんせい」の意となったらしい

「追」は二枚肉を持って道を行く意
であり
敵を追撃するときにも
二枚肉を持たせたことから
此の字が成り立ったそうで
「帰」の旧字にも二枚肉が入っていて
帚の部分が霊を祭る廟を酒をかけた
帚(ほうき)で清める姿を表し
軍隊を守ってくれた二枚肉を供えて
無事の帰還の儀式をしたことから
「帰」の字が成り立っている
と書いてあった

確かに面白いなあ
たまたま今読んでいる
「儒教とは何か」加地伸行著
って本に
こんなことが書かれてあった

「中国人の思考は漢字によってなされる
漢字は本質的には表意文字であり物の写しである
まず先に物があり
それに似せた絵画的表現としての漢字の字形が生まれ
自然的存在として物の世界が優先する

「はじめに ことば(神)ありき」
ではなく
「はじめに 物ありき」なのであり

形而上的世界より形而下的世界に
中国人の関心が向かうようになる
こういう構造だから中国人は物事に即し
事実を追って考えるという
現実的発想になったのである。
現実とは物に囲まれた具体的な感覚の世界である
このため、感覚の世界こそ中国人にとって
最も関心のある世界とならざるをえなかったのである。
中国人は現実的で即物的で現実に密着する
五官(五感)の世界こそを優先する
これはこの世のものである。

美人を見たい、いい音楽を聴きたい、良い香りをかぎたい
おいしいものを食べたい、気持ちのよいものにさわりたい
この現世の快楽を措いて、他になにがあろう。
これが中国人の現世観である。
とすれば、中国人は、快楽に満ちた此の現世に
たとえ一分でも一秒でも長く生きたいと
願わざるをえないではないか。
来世とか、天国とか、地獄とか、そのような現実感のない
フワフワとしたものは、中国人にとっては
信じがたい虚構の世界であった。」



このようなお話がまあ
しょっぱな から展開するので
大変興味深い
なにが?って
だって快楽を正しいと認める民族はもう
かなりごきげんなロック精神民族じゃない?
仏教では五官の快楽を煩悩だと否定するし
キリスト教も人間の原罪がどうのこうの
って言う
儒教精神ってかなり
ポジティブシンキングなんじゃない?
また たのしからずや精神
かしら?

漢字ありき
ってところから入って
言葉=物 だったという
発想だから
最近なんか繰り返し思う
「真理は肉体にあり」
っていう考えは
ちょっと儒教的かもしれないなあ
なんて思うわけです

ていうか
まだ儒教の
じ、じゅの字も
わかっちゃいない
のに
のに
もうこれです
はいそれでしょ!
だって難しいことは飛ばして読むからね
これこそ五官(感)で読むってことよ(笑)
石に霊が宿り 肉にも霊が宿る
そなたこなたに・・・じゅ。


(縦波の連続の規則性が貧乏ゆすり波に繋がる)

儒教といえば孔子なんだ
と思っていたけど
孔子以前の儒や儒家というのがあるとか
大儒・小儒に分かれるとか
礼教性と宗教性の両面があるとか
まあいろいろ知らない難しげなことは
いつものごとく置いといて

面白かったことだけ挙げるとね
こんなことも書かれてあった

「儒教では肉体は死とともに抜け出た霊魂が再び戻ってきて
憑りつく可能性を持つものとされる」

だから遺体は大事なものとしてこまごまと取り決められた
儀式によって弔うし、完全な遺体であることを望むから
臓器移植などを否定する人も必然的に多くなる
ということらしい

おりしも衆院本会議で臓器移植法改正案の
「脳死は人の死」
という位置づけが可決されたとか
本人が生前に拒否表明をしなければ家族の同意で
臓器提供を可能にするという案
衆院に送られた
心臓が動いていても脳が機能しなければ
確かに生きているとは言えぬかもしれないが
大切な人が横たわり
心臓が鼓動をしているのに
死んだとは認めにくい
多分
実際にその場になったら認められない
気がする
いや鼓動が止まっても認めたくない
場合もあるだろう

「しかし、仏教的には死者の肉体は、もはや単なる物体にすぎない
死者は成仏したのである。あるいは、成仏しない場合、
その霊魂は生の時間から中陰という別の時間にはいったのである。
その肉体には、もはや、仏教的意味は無い。」
とこの本には書かれてある

とすると
葬儀で人が祭壇の遺影やお棺に拝むのは
たぶん儒教的 なんだね
仏教的には
導師となる本尊様にどうぞお導きくだされ
と拝むのが本筋らしく
たとえば本尊の替わりに架けられた
宗派の名号の掛け軸に向かって拝む
のが本来だとこの人はおっしゃる
だから日本には
儒教的感覚と仏教的感覚の入り混じった
葬義や法要が定着しているということかな?
仏式の中に儒が入り込んでいる
儒教というのは葬儀抜きには語れないらしい


(大丈夫ですか?と声をかけたくなる丸太君)


もともとは原始儒家と呼ばれた
シャーマンから発生したとある
孔子は母方がこの原始儒家で
父方は農民だったそうで
だからこそ原始からの意識改革や
儒教の体系作りをなしえたという

なるほど!って 思うのでした
こんなのも面白い

儒の礼制(喪礼)の「三年の喪」
(父の死に子が喪に服する期間のこと)は
実質的には二年目の命日(儒教的死後日数の数え方
二年と一日、死の前日から数える)だそうで
仏教的に行なう3回忌はこの儒教の喪礼の模倣らしく
祥月命日の祥の字も13ヶ月後の満1年目の忌日を小祥
三年の喪を大祥ということから仏教に転じたという

こんな話も

「昭和天皇の喪服期間は一年であったが
これは八世紀、奈良時代の「養老令」とやらで
天子や父母の服喪期間としては三年の喪を
一年の期間としていることに基づくのだろうか。
その影響で庶民も自分の肉親の喪服期間を
勝手に一年とし肉親が亡くなると
次の年の正月の賀状を出さないのだろう」

とあった
ね、面白いでしょ
あなたも私も儒教の影響下ってことでしょ?
ちがう?



儒教の話なんか読むと
仏教ってかなりクールで厳しく
ネガティブに思えてきたなあ
まあ思想のない我ら俗人には
時に堂々巡りしながら
「肝を据える」ためのノウハウを
右往左往探すってことだな
とりあえず
自分が埋まっちまう前に
心の庭に石を九割埋めてみるよ
ロックな気分で?
自家製梅酒ロックに
大粒バッファリン割り込んでさ

そうね