RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

涅槃から半寝へとコウノトリは米を運ぶろぐ

2009-07-11 14:12:05 | ぼちぼちですわ

(街の公園には無造作に太古への郷愁が置かれる)


朝方ベッドで足がつりました
もうほんまに勘弁してや
足から逆に吊り下がった状態の
タロットカードの絵を思い浮かべながら
攣った右足を赤塚不二夫の
イヤミのしぇ~
な角度で揉み解すのだ
マグネシウム不足かも知れぬ
なむ

南無といえば
儒教の本を読んだら
一方で仏教のことも
なんとなくおぼろげに
ばくぜんと
気になりだした
なむなむ


(マイほうき持参で魔法使いは綺麗好き?)

仏教は
紀元前5世紀頃
ガンジス河中流域
シャーキャ族の聖者シャカ・ムニ
こと
ゴータマ・シッタルダから発生した

だけど
インドではそれほど花開かず
いったんは消滅したんだ
その仏教が何故か
東南アジアと
もうひとつは
中国(後漢~南北朝~隋~唐)へと
伝来し
朝鮮(高句麗~百済)を経て
日本に入り
今日の日本仏教へと変遷して来た
日本に入るまでに
いわばどのくらい
中国流・朝鮮流・日本流に
変換されたのかは
簡単にはわからないに違いない

膨大な仏典は
その翻訳者たちの解釈で
サンスクリット語だか
バーリ語だか なんだかから
漢文などへと編纂された

あまりに膨大な仏典経典を
すべて理解できる聖者はいないから
それぞれが
それぞれの時代と文化に
サイズを調整変換しただろうと思う
もともと
シンプルな教えだったとしても
ブッダの弟子たちから翻訳者たちを
経て
ガンジス河流域の言語から漢文へと
その漢文経典が
日本に入ったあとも
変化していった
と思う

ウィルスという遺伝子が
動物の体内で変化するごとく

だって
ウイルスは
生き物の細胞に入りこんで
自分が持っている遺伝子を出して
その生き物の遺伝子がある
細胞核の部分を
乗っとるからね
遺伝子という設計図を
ウイルスは
自分流に書き替えてしまう
その上ウイルスは細胞の中で
次々と自分の子をつくって
細胞を破壊してしまう

多くの宗祖宗派に別れ
ますます
複雑化していった日本流仏教
ちょっと喩えが悪いが
常に
設計図は書き替えられてしまう
運命だ


(忘れられた小さき花は結構すっくと立っていた)


言葉と言う
不完全なコミュニュケーションの手段を
使って
なにかを伝えようとすると
誤解が生まれ
その時の都合のよい誤解は
その時代時代に正解となり得る
という
そこんとこが
面白いといえば面白いけど
歴史もそうだ
その国その時々に都合のよい様に
語られてきた

宗教や哲学思想は
人と人が解り合う為というより
紛争の火種に役にたってきた
いや役にたたなかったというべきか

人と人が解り合う
とはなんなのか
という
大きな疑問

解り合う
ということは
ほぼ同じ様な認識をもつことが
出来たという
あいまいな
確かめようのない
きわめて不可思議な
もしくは
空虚な感覚を持つこと
ではあるまいか

解り合うとは
いわば
赦し会うこと

愛し合うこと
の狭間に
立ち往生する
ことじゃないかしら

これまた
不完全な言葉の挾間に
落ち込むのが関の山


(なんか言った? にゃー語も勉強しいや)

ばかだね
わからないことを
つぶやくことに何の意味があるのか
意味がないからつぶやく
きっと
意味のあることは
大抵
まっこと
怖くてつぶやけない

肝っ玉がすわらない
一生肝がすわることはない
それが人間
肝がすわることは悟りを開くことだ
悟る人は皆ブッダだから
涅槃に居る

こっち側は涅槃ならず半寝の境地
寝てるのやら 起きてるのやら
いまだ判断つかず
うつけなり




米がなくなりかけた頃娘から届いたお中元の米
サンキュウーベリグッドタイミングよ
これでもうちょっと生き延びれる
なむなむ



こうのとりは遺伝子組み換えでない自然米を運んできた



こうちゃんの田んぶろぐ

ここで獲れたらしいクリックすると見れるコウノトリの田んぼ



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