礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

カルロス・ゴーン日産会長解任事件の本質

2018-11-24 01:26:16 | コラムと名言

◎カルロス・ゴーン日産会長解任事件の本質

 新聞報道によれば、日産自動車は、今月二二日、臨時取締役会を開き、「カルロス・ゴーン容疑者」の会長職と代表取締役の解任を決めたという。おそらく、一九日のカルロス・ゴーン氏の逮捕は、この「解任」のための布石であったと見るべきであろう。この逮捕が、法律上、妥当なものであったか否かという判断はしばらく措く。しかし、この逮捕が、「国策」の一環であったことは、ほぼ間違いないだろう。端的に言えば、この逮捕=解任事件の本質は、「国策」である。
 この事件については、新聞報道とネット情報以外に、ほとんど情報を持ち合わせないが、その狭い情報の範囲内で感じたこと考えたことを、以下に述べてみたい。標題を「カルロス・ゴーン日産会長解任事件の本質」としたが、実際は、「カルロス・ゴーン日産会長解任事件についての雑感」といったあたりである。あくまでも「雑感」ということで、箇条の形で、しかも順不同で述べてみる。

 まず素朴な疑問だが、カルロス・ゴーン代表取締役会長、グレッグ・ケリー代表取締役が「勾留」されているという異常な事態のなかで、「臨時取締役会」を開くことは許されるのか、また、そこでの決議は有効なのか。
 日産自動車は、このあと臨時株主総会を開き、ゴーン、ケリー両氏の取締役を解任するものと見られる(取締役選任は、株主総会の決議事項)。しかし、この取締役解任についても、1と同じ問題点を指摘せざるを得ない。また、この臨時株主総会の席で、ゴーン、ケリー両取締役の解任が否決されるという可能性は、まったくないのか。
 この事件では、事前に、日産自動車会社幹部と検察との間で「司法取引」が成立していたというウワサがある。そのウワサの真偽は確認できないし、その取引の内容も明らかにされていない。しかし、いかにもありそうな話である。もし、事前に司法取引が成立していたとすれば、まぎれもなく、これは、「国策事件」である。
 最初に述べたように、この一連の事件(「司法取引」(?)、ゴーン氏の逮捕、ゴーン氏の代表取締役会長の解任など)を、コラム子は、「国策事件」と捉える。おそらく、フランス側も、そのように捉えていることであろう。だとすれば、フランスは、今後、国家として、何らかの対抗措置を講ずる可能性がある。また、日仏首脳の間で、今後、何らかの外交上の決着が図られる場合がありうる。この事件が、「国策事件」であったことは、その段階にいたって、全世界の前に明らかになるだろう。
 かつて日産自動車は、深刻な経営危機にあったところを、カルロス・ゴーン氏の非凡な経営手腕によって救われた。日産自動車にとっては、カルロス・ゴーン氏は、「大恩人」とも評すべき存在である。その「恩」に対して、日産自動車は、逮捕にともなう解任という「仇」で返したわけである。これは、日本企業の経営風土からは出てこない大胆にして過激な手法である。いったい、この筋書きを書いたのは誰だったのか。
 日産自動車の中に、こういった大胆な手法を行使できる幹部がいたとすれば、同社は、かつてのように、経営危機に陥ることはなかったろう。また、その経営危機を乗り越えるために、カルロス・ゴーン氏のような外国人を呼んで、その助けを借りる必要もなかったはずである。世間を驚かせた今回のゴーン会長解任劇を見ると、その筋書きを書いたのは、少なくとも、日産自動車の幹部「以外」の人物または組織だったと推測される。仮に、今回の解任劇が、日産自動車幹部の筋書きによるものだとすれば、その手法の当否は別として、「日産は変わった」と評することができる。逆に、日産自動車幹部が、社外の何者かによって書かれた筋書きに従ったのだとすれば、「やはり日産は変わっていない」と言われることになる。(注)
 一九日にカルロス・ゴーン氏が逮捕されたというニュースを聞いたとき、最初に思い出したのは、「ロス疑惑」の三浦和義氏が、観光のために訪れた米自治領のサイパン島で逮捕された事件である(二〇〇八年二月二二日)。今回の事件を機に、外国を訪れた日本の政財界の要人、ジャーナリスト、文化人などが、現地の法律によって逮捕されるケースが増えるかもしれない。
 の(注)である。二二日二一時三四分配信の毎日新聞記事(電子版)〝<日産>ゴーン支配終幕 独裁「自分で決められぬ会社に」〟は、記事の最後を、次のように結んでいる。
《20年弱に及んだワンマン支配。ゴーン前会長とともに代表取締役として経営を担った経験のあるOBは「当初は彼をルノーの回し者とみなしていた。しかし、私的な野心や利益のためだったとはいえ、必死に日産を大きくした姿には感謝している面もある」と複雑な心境を語る。そしてこう自戒した。「日産は自分たちの運命を自分たちで決められない会社にしてしまった。責任は私たち歴代経営陣にある」》

*このブログの人気記事 2018・11・24(10位の星野君は久しぶり)

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百済王族については纏った学説を聞かない(中山太郎)

2018-11-23 04:18:47 | コラムと名言

◎百済王族については纏った学説を聞かない(中山太郎)

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その六回目(最後)。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 なお、【 】内は原ルビ。一部に疑問のものもあるが、すべて原文のままである。

▲交野行宮の故趾と百済寺の興廃  西有寺【さいいうじ】の住職鈴木玄透媚々【びゞ】として詳【つまびら】かに語る。曰く交野【かたの】の行宮【こうきう】を百済王神社のあるところと云ふのは旧記に違ふてゐる。行宮は現在の樟葉【くすば】――崇神〈スジン〉の朝に彦国葺【ひこくにふき】が賊を討ちし糞袴【くそばかま】の地――の藤原【ふぢわら】と云ふ場所で、即ち藤原継縄〈フジワラノツグタダ〉卿の別業〔別荘〕を指したものである。然し此の行宮は極めて一時的のものと見え、凌雲集【りよううんしう】に嵯峨天皇の御製で過交野離宮感旧作と題して追想昔時旧館、凄涼涙下忽霑襟、廃村已見人煙断、荒院唯聞烏雀吟、荊棘不知致舞処、薜麗向恋情深、看花故事誰能語、空望浮雲転傷心とあるのを拝しても、久しからざりしことが判明します。現今行宮の礎石【いしずゑいし】と称して社地内にある石は、悉く百済寺の土台石でありまするが、中には光仁帝の郊祀壇【こうしだん】の名残りと云ふ人もありますけれどもそれも間違ひで、郊祀壇は交野の一本杉と云ふところが其の古跡で、網島桜宮線【あみじまさくらのみやせん】の津田駅に近い杉村がそれであります。百済寺は勿論百済王族の冥福を祈るために建立せられたものであらうが、興廃〈コウハイ〉の年時に就いては確【しか】と知れない。日本逸史【にほんいつし】に延暦十二年〔西暦七九三〕銭三十万及長門阿波両国稲各一千束、特施入河内国交野郡百済寺とあるから、此の頃隆盛【りうせい】を極めたものと見れば過ちはあるまい。百済寺は一名を万法蔵院――多少の疑ひはあるが――とも云ふたらしい。百済王族の勢力退転後に破却されて大和国当麻寺に移され、当麻寺は百済寺の名残りと元亨釈書【げんこうしやくしよ】に記してある。而して其の廃寺の跡へ今の百済王神社を斎祀したのである。河内名所図会【かはちめいしよづゑ】に中宮百済王神社今存す、古〈イニシエ〉は伽藍【がらん】ありしが後廃して礎【いしづゑ】を残すのみとあるが実際に適したものと思ふ。又百済寺の本尊仏と伝へられてゐる薬師如来、日光月光【につかわうがつくわう】の両仏、及び十二神將の木像、其他の法具も此寺に預つて居るが、法具から推すと百済寺は真言宗である。全体是等の諸仏体は、百済寺廃せられて後は梅林寺【ばいりんじ】と云ふ寺にあつたのを、其寺の住持【じうぢ】が大酒飲みで遂に寺まで飲潰【のみつぶ】し、愈々廢寺となるに就いて此寺へ持ち込んだのであります。百済寺が当麻寺の先【せん】をなしたものならば、本尊仏が梅林寺に伝はる筈がないから、是は元亨釈書が誤りか本尊が偽ものか其のうちの一つである。ところが、本尊仏は中々立派の作で、百済伝来のものと折紙がついてゐる。御覧あれと案内してくれたので見ると、二尺ばかりの座像、端厳微妙【たんごんみめやう】の相を備へ、判らぬながらも巨宗【きよそう】の作と感じ入つた。殊に驚かされたのは厨子【づし】の精巧麗致を極めてゐることであるが、美術眼を有してゐぬそれがしなどは、唯々感じ入るばかりであつた。
 百済王族に関する伝説、書けばまだ中々にある、王後首の墓碑銘と、某博士の違算問題、自称百済王氏の嫡統三松家の由来など其尤【ゆう】なるものであるが今は擱【お】く。唯終【をはり】に臨んで一寸云ふて置きたいことは、百済王族と云へば其何れの方面から見るも興味ある研究の題目である。河内一国の古代文化は勿論のこと、少しく誇張して云へば、随分大束〈オオタバ〉を申上げても差支がない。がドウ云ふ風の吹き廻しやら是に関する纏つた学者の説を聞いたことがない。――誰だい、隅の方で百済の研究なんかくだらないなんて悪口をたゝくのは。

 民俗学者の中山太郎は、今から百年以上前の一九一四年(大正三)に、百済王族については、「纏つた学者の説を聞いたことがない」と述べた。おそらく、この事情は、今日においても、変わっていないのではなかろうか。

*このブログの人気記事 2018・11・23

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百済王禅興、善光寺に閻浮檀金の仏体を安置

2018-11-22 01:30:27 | コラムと名言

◎百済王禅興、善光寺に閻浮檀金の仏体を安置

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その五回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 
▲百済王の侍臣三十六氏と善光寺如来  余善〔与次郎〕氏云ふ。百済王に随つて彼国〈カノクニ〉から来た侍臣【じしん】は合計三十六氏ださうです。其の中でも余氏と云ふ私の先祖が兄株【あにかぶ】で、年代は判然しませぬが何でも孝謙帝の天平勝宝〈テンピョウショウホウ〉六年〔西暦七五四〕八月八日に太皇太后〈タイコウタイゴウ〉藤原宮子娘〈フジワラノミヤコイラツメ〉の御菩提【おんぼだい】のために法華経百部と梵網経【ぼんもうきやう】百部とを写経した。其の筆者のうちの余乙虫【よのおとむし】、余法孝【よのはうかう】と云ふのが、先祖から何代目とあります位ですから、途方もなく古いのでせう。三十六氏のうち今では三四軒しか此村には残つてゐませぬが、墓地だけは大昔のまゝ三十六家、チヤンと保存せられてゐます。御殿山(惟喬〈コレタカ〉親王の宮趾)から渚の院(同上)へ行く田圃【たんぼ】中に点在してゐるのがそれであります。徳川家御盛【ごさかん】の頃は此の村は近江の信楽【しがらき】代官の支配であつたが、此処【こゝ】と信楽とは二三十里も隔つてゐて万事に不便だからと上役人【うはやくにん】に願つたところ、何でも信楽と此の村とは同類の百済人だと云ふことで其のまゝ泣寝入り、それでも村内では三十六氏と云へば巾利【はゞき】きの草分け百姓、産土【うぶすな】の百済王神社の祭礼の時には四【し】の間【ま】と云ふて拝殿に四つ座敷があるが、その座敷一間【ひとま】に九人づゝ詰めてゐたもので、神主でも此の氏子だけには一目【いちもく】置いたものだ。名主【なぬし】とか組頭【くみがしら】とか云ふ役柄【やくがら】のことも三十六軒で廻り持で、私も明治になつてから村長を八年勤めました。それに信州の善光寺如来は、本多善光【ほんだよしみつ】と云ふ人が仏像を拾つて堂を建立したと世間では伝へてゐるが、此村の口碑には、其善光は、百済王の禅興――一に善光にも作る人が、本国から持つて来た閻浮檀金【えんふだごん】の仏体を安置したものだと云つてゐる。…………その禅興が、何がために信州くんだりまで出かけたと云ふのが、それは此村では理解のできる人はあんめいよ。【以下、次回】

 文献派民俗学者として知られる中山太郎であるが、この論文では、フィールドワークや聴き取り調査をおこなっている。
 上で引用した部分は、その全文が、聴き取りを起こしたものになっている。聴き取りの対象は、「百済王の侍臣として韓国から来りしと云ふ余氏の後裔」を自称する余善与次郎〈ヨゼン・ヨジロウ〉氏である。聴き取りをおこなった場所(余善氏のいう「此処」)についての記載はないが、「御殿山」、「渚の院」といった名称から、大阪北河内の交野〈カタノ〉であったと推定される。当時の北河内郡交野村、今日の交野市である。

*このブログの人気記事 2018・11・22(9位に珍しいものが入っています)

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ここに一寸解せぬ問題が二つある(中山太郎)

2018-11-21 03:35:34 | コラムと名言

◎ここに一寸解せぬ問題が二つある(中山太郎)

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その四回目。昨日までに紹介したのは「百済王族の郷土と其伝説(上)」(『郷土研究』第二巻一号、一九一四年一月)で、本日から、「百済王族の郷土と其伝説(下)」(『郷土研究』第二巻二号、一九一四年二月)の紹介に移る。
 なお、【 】内は原ルビ。一部に疑問のものもあるが、すべて原文のままである。

  百済王族の郷土と其伝説(下)  中 山 太 郎

▲桓武帝の母后と百済王族の栄達  桓武帝の母后新笠姫【にひかさひめ】は、百済王族の系統なる和朝臣【やまとのあそん】高野乙継【たかのおとつぐ】の女で、続紀【しよくき】によると、光仁〈コウニン〉帝潜龍【せんりよう】の時に納【い】れて妃となすとある。此皇后天津日嗣御子【あまつひつぎのみこ】を生み奉りてより、百済王族の一門遽【にわ】かに時めき出し、正一位の極位【きよくゐ】を贈らるゝもの二名、蕃人【はんじん】にして始めて相府【さうふ】に入るもの一名、後宮【こうきう】に召されし女御【によご】一名。遂に百済王族等者朕之外戚也今所以擢一両人加授爵位也との大詔が下るほどの栄達【えいたつ】見るに至つた。日本後紀の筆者〔藤原緒嗣ほか〕をして、中納言従三位和朝臣家麿薨、贈従二位大納言、家麿贈正一位高野朝臣乙継之孫也、其先百済国人也、為人木訥無才学以帝外戚特被擢進、蕃人入相府自此始と驚嘆させ、伴信友【ばんののぶとも】をして「蕃神考【はんしんこう】に京都の平野神社は桓武帝の母后を奉祀【ほうし】せるものなりと考証させるなどの素晴らしい勢【いきほひ】であつた。がこゝに一寸【ちよつと】解【げ】せぬ問題が二つある。一〈ヒトツ〉は桓武帝は百済王等は外戚なりとまで仰せあるにかゝはらず、「神皇正統記」に、日本と韓国と同じ国なりとの意味を記せる文書は桓武帝の朝〈チョウ〉に悉く焼棄せらると云ふことゝ一は百済永継【くだらのながつぐ】は初め藤原内麿〈フジワラノウチマロ〉に嫁し、真夏及び冬嗣の二子を儲け、後に桓武帝の女嬬【によじゆ】となられたことである。解せぬことは強ひて解する必要もないから、此侭にしてソツと片付て置くが、当時列聖の後宮【こうきう】に百済氏を見ること頓【とみ】に加り〈クワワリ〉、桓武帝には、教法教仁貞香の三妃あり、嵯峨帝には、貴命、慶命の二女御あり、仁明〈ニンミョウ〉帝に永慶の一妃あるなど、其の重【おも】なるものである。上〈カミ〉の好むところ、下〈シモ〉の流行をつくり、権門の間にも此の風をなし、御台所【みだいどころ】は百済に限りますよなどと飛んだところで出雲の神をまごつかせ、宮掖鶏障【きうえきけいしよう】の辺り〈アタリ〉頻りに、日百【にちはく】同盟が実行せられたのである。藤原継縄〈フジワラノツグタダ〉妻百済氏賜正四位と続紀にあるのは之が明徴で、川柳子の所謂あの面【つら】とぬかしたと女憤【いきどほ】りと云ふ手合でも、百済と云へば種切れとならんず捌【さば】け方、玉の輿【こし】屋も底を払ふとは目出度〈めでたき〉ことなり。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2018・11・21

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オイ三松君、あれは王仁ではなく辰爾の木像だよ

2018-11-20 04:27:56 | コラムと名言

◎オイ三松君、あれは王仁ではなく辰爾の木像だよ

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その三回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 
▲辰爾王の木像が王仁の換玉  全体博士王仁【はかせわに】といふ人は、百済出かいと問ふ人があつたら、イヽエ百済で産湯を遣【つか】つたのではない、百済国を経て日本へ来た漢室の人さと答へるのが理屈のやうだ。それを何でも斯【かん】でも王仁は百済の人なりとするから辰爾王【しんじわう】の木像が、王仁の換玉【かへだま】となるやうなドヂを踏む訳になるのである。百済王統の嫡々と云ふてゐる三松家には大昔から清めの問と云ふのがあつて、其間の棚にチンデ様と云ふのが祀【まつ】られてあつた。神体は煤【すゝ】と垢で眼口【めくち】も見分【みわか】ぬやうな古木像であつたが、三松家伝統の什器【じうき】として珍重【ちんぢう】してゐた。勿論チンデ様なるものは何の神とも何の仏とも知りもしなければ又知らうともせずして棚の上に置きつ放してゐた。すると西村天囚【てんしう】君が宋学史と云ふ書物を著して其巻頭を飾るべく博士王仁の像を物色した。偶々【たまたま】三松氏が百済王の嫡流だと耳にしたので、天囚君ナニかありませぬかと尋ねると、之ではお役に立ちませんかと取出したのは例のチンデ様、イヤ之は珍だ、之は妙だと早速コロタイプに仕立て宋学史の真先【まつさき】に博士王仁の木像と名乗りを挙げ近くはよつて眼にも見よと云はぬばかりの大見得【おほみえ】、天囚君も近頃の掘り出し物とひけらかす。三松君も之はゆく往々【ゆくゆく】くは男爵家の宝物だと吹聴する――此の侭で済めばナンのこともなかつたに、或る物識家【ものしりか】がオイ三松君、あの木像は博士王仁ではなくつて敏達〈ビダツ〉帝の朝〈チョウ〉に烏羽【からすは】の表【へう】を読んで船史【ふねのおびと】に叙せられた辰爾の木像だよと肩を叩いたので、喫驚【びつくり】敗亡【はいぼう】段々家乗【かじよう】を調べて見るとチンジ様は辰爾様の間違ひと知れ、之は近頃の珍事出来【しゆつたい】と洒落ても居られず、大童【おほわらは】になつてでつちあげたのが百済王神社で発売する辰爾王木像の絵葉書、間違へば間違ふものだよ、かやゝかゝつれの字余り都々逸【どゞいつ】にでもありそうなことなり。

 文中に、西村天囚「宋学史」という書名があるが、正確には、西村天囚『日本宋学史』である。この本は、一九〇九年(明治四二)に、梁江堂書店(東京)、杉本梁江堂(大阪)から発兌されている。その八ページと九ページの間には、たしかに「王仁木像 木下順菴旧蔵」というキャプションがついた一葉の写真がある。見ると、まさに、「眼口も見分ぬやうな古木像」である(国立国会図書館のデジタルコレクションで確認)。
 最後のほうにある「かやゝかゝつれ」は不祥。博雅のご教示を乞う。
 さて、本日、紹介したところまでが、「百済王族の郷土と其伝説(上)」(『郷土研究』第二巻一号、一九一四年一月)である。次回は、「百済王族の郷土と其伝説(下)」(『郷土研究』第二巻二号、一九一四年二月)の紹介に移る。

*このブログの人気記事 2018・11・20(8・10位に久しぶりのものが)

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