◎オイ三松君、あれは王仁ではなく辰爾の木像だよ
雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
本日は、その三回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
▲辰爾王の木像が王仁の換玉 全体博士王仁【はかせわに】といふ人は、百済出かいと問ふ人があつたら、イヽエ百済で産湯を遣【つか】つたのではない、百済国を経て日本へ来た漢室の人さと答へるのが理屈のやうだ。それを何でも斯【かん】でも王仁は百済の人なりとするから辰爾王【しんじわう】の木像が、王仁の換玉【かへだま】となるやうなドヂを踏む訳になるのである。百済王統の嫡々と云ふてゐる三松家には大昔から清めの問と云ふのがあつて、其間の棚にチンデ様と云ふのが祀【まつ】られてあつた。神体は煤【すゝ】と垢で眼口【めくち】も見分【みわか】ぬやうな古木像であつたが、三松家伝統の什器【じうき】として珍重【ちんぢう】してゐた。勿論チンデ様なるものは何の神とも何の仏とも知りもしなければ又知らうともせずして棚の上に置きつ放してゐた。すると西村天囚【てんしう】君が宋学史と云ふ書物を著して其巻頭を飾るべく博士王仁の像を物色した。偶々【たまたま】三松氏が百済王の嫡流だと耳にしたので、天囚君ナニかありませぬかと尋ねると、之ではお役に立ちませんかと取出したのは例のチンデ様、イヤ之は珍だ、之は妙だと早速コロタイプに仕立て宋学史の真先【まつさき】に博士王仁の木像と名乗りを挙げ近くはよつて眼にも見よと云はぬばかりの大見得【おほみえ】、天囚君も近頃の掘り出し物とひけらかす。三松君も之はゆく往々【ゆくゆく】くは男爵家の宝物だと吹聴する――此の侭で済めばナンのこともなかつたに、或る物識家【ものしりか】がオイ三松君、あの木像は博士王仁ではなくつて敏達〈ビダツ〉帝の朝〈チョウ〉に烏羽【からすは】の表【へう】を読んで船史【ふねのおびと】に叙せられた辰爾の木像だよと肩を叩いたので、喫驚【びつくり】敗亡【はいぼう】段々家乗【かじよう】を調べて見るとチンジ様は辰爾様の間違ひと知れ、之は近頃の珍事出来【しゆつたい】と洒落ても居られず、大童【おほわらは】になつてでつちあげたのが百済王神社で発売する辰爾王木像の絵葉書、間違へば間違ふものだよ、かやゝかゝつれの字余り都々逸【どゞいつ】にでもありそうなことなり。
文中に、西村天囚「宋学史」という書名があるが、正確には、西村天囚『日本宋学史』である。この本は、一九〇九年(明治四二)に、梁江堂書店(東京)、杉本梁江堂(大阪)から発兌されている。その八ページと九ページの間には、たしかに「王仁木像 木下順菴旧蔵」というキャプションがついた一葉の写真がある。見ると、まさに、「眼口も見分ぬやうな古木像」である(国立国会図書館のデジタルコレクションで確認)。
最後のほうにある「かやゝかゝつれ」は不祥。博雅のご教示を乞う。
さて、本日、紹介したところまでが、「百済王族の郷土と其伝説(上)」(『郷土研究』第二巻一号、一九一四年一月)である。次回は、「百済王族の郷土と其伝説(下)」(『郷土研究』第二巻二号、一九一四年二月)の紹介に移る。
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