◎こと近衛公に関してはウソハッタリを書かなかった
今月20日の記事で、富田健治の『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)という本に言及した。実は、当ブログでは、これまで何度も、同書の紹介をおこなっている。この本は、富田健治が、『明るい政治』と題する政治機関誌に連載した回想をまとめたものである。
この回想は、第一号から第五六号からなり、当ブログでは、これまで、そのうちの、第四〇号、第四一号、第四二号、第四三号を紹介している。
本日は、最後の第五六号「五年間の執筆を終るにあたって」を紹介してみたい。
(五六) 五年間の執筆を終るにあたって
(昭和三十六年二月十日記)
結語―
昭和三十年九月十日「近衛公の思い出」第一回を、この「明るい政治」に載せて以来、回を重ねること、五十数回、凡そ〈オヨソ〉五ヵ年に亘ったのである。顧みて能くも書けたものだと思う。自分の生涯のうちに、一度は近衛公―少くとも自分の見た近衛公―の真実の姿を書いてみたいと思っていたのであるが、図らずも「明るい政治」に連載する機会に恵まれ、茲にその本望を達することが出来たのである。併し馴れない筆を執ってみると、毎号の「近衛公の思い出」執筆は容易ならざる仕事であった。一回位休ませて貰いたいと思ったことも度々あったが、その都度編集担当の浦中君から督促されるので、原稿締切の前日、夜午前二時、或るときは三時頃迄、執筆を強行したこともあった。そんな翌日は一日ねむ気を催したことであったが、同時に如何にも一大難事業を遂行し得たような気持ちもして甚だ楽しかった。
この意味に於て張り合のある五年間の「近衛公の思い出」作業がつゞいて行った。そして「明るい政治」が私に最も関係深い政治新聞であり、従って私の宣伝機関紙とさえ言われるものであったけれども、こと近衛公に関しては、絶対にウソハッタリを書かなかったことを茲に更め〈アラタメ〉てお誓いする。勿論私の主観に属し、他人を批難するような記事の皆無でなかったことはこれを認めるし、又その限りに於て心からお詫びもするものであるが、記事の真実性に付いては、これを御信用願いたいと思う。
この「近衛公の思い出」に対しては、内容が難しい、もう古くなったことで、時代遅れだ、いかにも戦前派の記事だと批評される方もあったが、他面、非常に面白い、はじめて日支事変、日米交渉、大東亜戦争の真相が解った。近衛公と言う人の真実に触れることが出来たと毎号激励して下さる方も案外多かった。
そこで今私はこの「近衛公の思い出」を初回から読み直して、一巻の書にまとめてみたいと思っている。実は昨三十五年〔1960〕夏、何処か山にでも篭ってこれを実現したいと念願したことがあったが、恰も〈アタカモ〉総選挙気構えとなり、遂にその願望を果すべき機会を失したのである。そこでこの夏迄の間にはぜひこのことを速成致したいと心勇んでいる次第である。
近衛公に付いて語るべきことは、まだまだ多いと思う。近衛公の私生活、殊に、婦人関係のことに付いて私に色々問われる人がある。併し私は元来、武藤〔章〕陸軍軍務局長が私をひやかして「君は無粋な近衛の侍大将で、内のことは何も知らない男だ」といったが、終生正にその通りであった。私は公と舞妓の侍る酒席を共にしたことは、長い一生を通じて恐らく、二、三回位であったと思う。又千代子夫人その他家族の方々にも御高誼を頂いたが、家庭深くはいり込むという態〈テイ〉のものでは全くなかった。私は公人として近衛公に接し、後には総理大臣対内閣書記官長として接するのみであったし、第三次近衡内閣総辞職後は、勅選貴族院議員として、近衛公の公的、政治的側近として共に大東亜戦争の早期終結に努力していたのであった。戦争中は軍部に迎合して英米撃滅論を強調し、戦後には、口をぬぐって昔からの平和論者、民主主義者面〈ヅラ〉をしている多くの政界、財界、新聞界の人達に比べて、私は幸福者であったと思っている。それは近衛公という見識秀れた、気品の高い、迎合性のない政治家の側近であったればこそ、私の態度は、幸いにして過誤なきを得たからである。
それを思うにつけても、あの平和主義の、あの日支友好、日米親善のために努力して事、志と違った近衛公を、心からお気の毒に思う。この「思い出」がこういうことに付ても、その真相を伝え、近衛公に対する誤解を解き得れば望外の喜びである。
戦後十六年を経過して、我国の経済は見事に復興した。物資も豊富になった。所得倍増の政治経済が高調されている盛況である。
併し外、国際関係を振り返ってソ連、中共を中心とする共産圏と我国との関係はどうであろうか。朝鮮半島、ラオス・インドネシヤ等東南アジアと日本との関係は如何〈イカン〉。遠くアフリカ、ドイツ、中南米における米ソ両陣営の対立も日本の関心事でなければならぬ。
しかも日本国内の政情はどうであろうか。昨年〔1960〕六月の安保闘争を頂点とする国内左翼勢力と国外共産勢力との関連、我国の全学連、総評、日教組、マスコミの傾向を果してどう評価したらよいのであろうか。
国会乱入の集団暴力とこれに続く個人テロの続出、今こそ良識ある我国民は、一体日本はこれで良いのか、またどうしたらよいのかと真剣に考究し、殊に政治家は我国の現状と将来に思いを致し、その対策具現に全力を挙げなければならないと思う。
私はこゝにおいて、マッカーサー占領軍司令官によって強制実施せられた現行日本国憲法そのものについても、今一度冷静に考えて見なければならない時機がきたと思う。国民主権、言論自由の名の下に、国家の象徴たる天皇を侮辱する文章が載せられてなお且つ大して反省も起らないような現状をみては、こゝに我々は、我国の秩序紊れ〈ミダレ〉て、共産革命への条件の日一日と具備されつゝあることも憂慮せずにはおれないのである。
近衛公は京都大学時代の社会主義的傾向、後にはファッショにも心を惹かれたが、畢竟、自由主義者であったし、政治的には議会主義政党主義者であった、怒りもせず喜びもせず、讃め〈ホメ〉もせず、貶し〈ケナシ〉もせず寛仁大度〈カンジンタイド〉の巨人であった。しかし日本の伝統、殊にその伝統の中心たる天皇に対しては、心から尊敬の念を持し、天皇中心の国家観こそが、日本の礎〈イシズエ〉と確く〈カタク〉信じていた人であった。この信念は近衛公において蓋し揺ぎなきものであったと信ずる。
現行日本国憲法においても天皇は「国家の象徴」であり「国民の統合の象徴」である。近衛公在世であれば、私は必ずや近衛公はこの象徴を中心とし、日本の伝統のうちに、 進歩と創造への基礎を置いたのではないかと思う。
こゝに永きに亘る「近衛公の思い出」の読者諸彦〈ショゲン〉に心から御礼を申し述べ終結の辞といたす次第である。 (おわり)
今月20日の記事で、富田健治の『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)という本に言及した。実は、当ブログでは、これまで何度も、同書の紹介をおこなっている。この本は、富田健治が、『明るい政治』と題する政治機関誌に連載した回想をまとめたものである。
この回想は、第一号から第五六号からなり、当ブログでは、これまで、そのうちの、第四〇号、第四一号、第四二号、第四三号を紹介している。
本日は、最後の第五六号「五年間の執筆を終るにあたって」を紹介してみたい。
(五六) 五年間の執筆を終るにあたって
(昭和三十六年二月十日記)
結語―
昭和三十年九月十日「近衛公の思い出」第一回を、この「明るい政治」に載せて以来、回を重ねること、五十数回、凡そ〈オヨソ〉五ヵ年に亘ったのである。顧みて能くも書けたものだと思う。自分の生涯のうちに、一度は近衛公―少くとも自分の見た近衛公―の真実の姿を書いてみたいと思っていたのであるが、図らずも「明るい政治」に連載する機会に恵まれ、茲にその本望を達することが出来たのである。併し馴れない筆を執ってみると、毎号の「近衛公の思い出」執筆は容易ならざる仕事であった。一回位休ませて貰いたいと思ったことも度々あったが、その都度編集担当の浦中君から督促されるので、原稿締切の前日、夜午前二時、或るときは三時頃迄、執筆を強行したこともあった。そんな翌日は一日ねむ気を催したことであったが、同時に如何にも一大難事業を遂行し得たような気持ちもして甚だ楽しかった。
この意味に於て張り合のある五年間の「近衛公の思い出」作業がつゞいて行った。そして「明るい政治」が私に最も関係深い政治新聞であり、従って私の宣伝機関紙とさえ言われるものであったけれども、こと近衛公に関しては、絶対にウソハッタリを書かなかったことを茲に更め〈アラタメ〉てお誓いする。勿論私の主観に属し、他人を批難するような記事の皆無でなかったことはこれを認めるし、又その限りに於て心からお詫びもするものであるが、記事の真実性に付いては、これを御信用願いたいと思う。
この「近衛公の思い出」に対しては、内容が難しい、もう古くなったことで、時代遅れだ、いかにも戦前派の記事だと批評される方もあったが、他面、非常に面白い、はじめて日支事変、日米交渉、大東亜戦争の真相が解った。近衛公と言う人の真実に触れることが出来たと毎号激励して下さる方も案外多かった。
そこで今私はこの「近衛公の思い出」を初回から読み直して、一巻の書にまとめてみたいと思っている。実は昨三十五年〔1960〕夏、何処か山にでも篭ってこれを実現したいと念願したことがあったが、恰も〈アタカモ〉総選挙気構えとなり、遂にその願望を果すべき機会を失したのである。そこでこの夏迄の間にはぜひこのことを速成致したいと心勇んでいる次第である。
近衛公に付いて語るべきことは、まだまだ多いと思う。近衛公の私生活、殊に、婦人関係のことに付いて私に色々問われる人がある。併し私は元来、武藤〔章〕陸軍軍務局長が私をひやかして「君は無粋な近衛の侍大将で、内のことは何も知らない男だ」といったが、終生正にその通りであった。私は公と舞妓の侍る酒席を共にしたことは、長い一生を通じて恐らく、二、三回位であったと思う。又千代子夫人その他家族の方々にも御高誼を頂いたが、家庭深くはいり込むという態〈テイ〉のものでは全くなかった。私は公人として近衛公に接し、後には総理大臣対内閣書記官長として接するのみであったし、第三次近衡内閣総辞職後は、勅選貴族院議員として、近衛公の公的、政治的側近として共に大東亜戦争の早期終結に努力していたのであった。戦争中は軍部に迎合して英米撃滅論を強調し、戦後には、口をぬぐって昔からの平和論者、民主主義者面〈ヅラ〉をしている多くの政界、財界、新聞界の人達に比べて、私は幸福者であったと思っている。それは近衛公という見識秀れた、気品の高い、迎合性のない政治家の側近であったればこそ、私の態度は、幸いにして過誤なきを得たからである。
それを思うにつけても、あの平和主義の、あの日支友好、日米親善のために努力して事、志と違った近衛公を、心からお気の毒に思う。この「思い出」がこういうことに付ても、その真相を伝え、近衛公に対する誤解を解き得れば望外の喜びである。
戦後十六年を経過して、我国の経済は見事に復興した。物資も豊富になった。所得倍増の政治経済が高調されている盛況である。
併し外、国際関係を振り返ってソ連、中共を中心とする共産圏と我国との関係はどうであろうか。朝鮮半島、ラオス・インドネシヤ等東南アジアと日本との関係は如何〈イカン〉。遠くアフリカ、ドイツ、中南米における米ソ両陣営の対立も日本の関心事でなければならぬ。
しかも日本国内の政情はどうであろうか。昨年〔1960〕六月の安保闘争を頂点とする国内左翼勢力と国外共産勢力との関連、我国の全学連、総評、日教組、マスコミの傾向を果してどう評価したらよいのであろうか。
国会乱入の集団暴力とこれに続く個人テロの続出、今こそ良識ある我国民は、一体日本はこれで良いのか、またどうしたらよいのかと真剣に考究し、殊に政治家は我国の現状と将来に思いを致し、その対策具現に全力を挙げなければならないと思う。
私はこゝにおいて、マッカーサー占領軍司令官によって強制実施せられた現行日本国憲法そのものについても、今一度冷静に考えて見なければならない時機がきたと思う。国民主権、言論自由の名の下に、国家の象徴たる天皇を侮辱する文章が載せられてなお且つ大して反省も起らないような現状をみては、こゝに我々は、我国の秩序紊れ〈ミダレ〉て、共産革命への条件の日一日と具備されつゝあることも憂慮せずにはおれないのである。
近衛公は京都大学時代の社会主義的傾向、後にはファッショにも心を惹かれたが、畢竟、自由主義者であったし、政治的には議会主義政党主義者であった、怒りもせず喜びもせず、讃め〈ホメ〉もせず、貶し〈ケナシ〉もせず寛仁大度〈カンジンタイド〉の巨人であった。しかし日本の伝統、殊にその伝統の中心たる天皇に対しては、心から尊敬の念を持し、天皇中心の国家観こそが、日本の礎〈イシズエ〉と確く〈カタク〉信じていた人であった。この信念は近衛公において蓋し揺ぎなきものであったと信ずる。
現行日本国憲法においても天皇は「国家の象徴」であり「国民の統合の象徴」である。近衛公在世であれば、私は必ずや近衛公はこの象徴を中心とし、日本の伝統のうちに、 進歩と創造への基礎を置いたのではないかと思う。
こゝに永きに亘る「近衛公の思い出」の読者諸彦〈ショゲン〉に心から御礼を申し述べ終結の辞といたす次第である。 (おわり)
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