礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

百済王は朕が外戚なり(桓武天皇)

2018-11-19 01:52:21 | コラムと名言

◎百済王は朕が外戚なり(桓武天皇)

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その二回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 なお、【 】内は原ルビ。一部に、疑問のものがあるが、すべて原文の通りである。

▲百済王族の系統と其本貫地  百済王族の系統は帰化来朝の年時を異にするに随ひ其の宗族を別にしてゐるので截然【さいぜん】と判明せぬが、要するに百済教慕王【つもわう】六世の孫なる貴須【きしゆ】王より出でて三系統に分つことができる。最古は博士王仁【はかせわに】の系統に属する西史【かうちふひと】の一族、中古は日本で生れたので嶋君【しまのきみ】と云はれた武寧王【ぶねいわう】の系統を引ける和朝臣【やまとあそみ】の一族、近古は義慈王から分れて我邦【わがくに】で黄金を始めて発見したと云ふ敬福【けいふく】の一族がそれである。百済王と号する敬称は此の三系のうち敬福の叔父にあたる昌成【しやうせい】と云ふ人が、持統帝から許されたのであると云ふが、余り当【あて】にはならぬやうだ。桓武帝は、武寧王系の百済族を指しても百済王は朕が外戚なりと云はれてゐる。古い話だが神功皇后は三韓の王は日本の狗【いぬ】なりと仰【あふ】せられたとあるから、此の頃の百済王族などは、狆【ちん】ぐらゐにしか当らぬので、猫の尻つ尾のやうな名でも、王と云ふたものかも知れぬ。大宝の戸令【これう】にも凡没落外蕃得還、及化外人旧化者、所在国郡、給衣類とあるほどゆゑ、懸【かゝ】り人のくせに、王面【わうづら】が聞いて呆れると叱言【こゞと】を云ひながらも大きい眼で見てゐたのであろう。而して此の三系統から分脈【ぶんにやく】した百済族の数は実に百十五族の多きに達し、姓氏録【しやうしろく】の蕃別の三つに割つて其の一を脊負【しよ】て立つといふ大入叶【おほいりかなふ】、コウ繁殖されては百済もくださらねえと駄洒落【だしやら】れたかどうかは知らぬが【この】夥しき百済族の本貫【ほんくわん】は殆んど河内一国に限るといふ有様で、当時の河内十四郡中、どちら向ても百済族、鼻つき合せたり踵【かゞと】を踏んだりする大混雑、押すな押すな前が支【つか】へてゐると云ふ騒ぎ、今から思ふとよくアノ掌【てのひら】ほどの河内国へ納まつたものと不審も起る、がそこがそれ食客【ゐそろう】の悲しさ三杯目にはそつと出すやつさ。【以下、次回】

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中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」(1914)

2018-11-18 08:22:28 | コラムと名言

◎中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」(1914)

 先日、雑誌『郷土研究』のバックナンバーを通覧していたところ、その第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)に、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」が掲載されているのを見つけた。
 この論文は、のちに「百済王族の郷土」と改題され、『日本民俗学 随筆篇』(大岡山書店、一九三一)に収録されている。しかし、その際、中山は、文章表現などを大幅に改めている。そのオリジナル版を読んでみるのは意味のあることだろう。本日以降、数回にわたって、この論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介してみたい。
 原文には、ルビが多めに振られていたが、引用にあたっては、必要と思われるもののみを残した。

  百済王族の郷土と其伝説(上)  中 山 太 郎

 三十石とくらわんか船とで有名なる河内国枚方【ひらかた】町の東口で京阪電車を棄て、東北に向つて四五町行くと、在原業平【ありはらのなりひら】が七夕姫【たなばたひめ】に宿借らんと、伊勢物語に詠んだ天の川の辺【ほとり】に出る。水少く、石多く、百草瀬を狭め、雑木淵を埋【うづ】む――天の川どころかい泥の溝とも云ひたいやうな流れを越して、更に爪先登りに三町ばかり歩むと百済王族【くだらわうぞく】の宗廟【そうびやう】なる北河内郡山田村大字中宮【なかみや】、百済王神社の鳥居前に達するのである。
 社殿は桓武帝の交野行宮【かたのゝこうきう】の故地――とは後人の附托した真赤【まつか】な説であるが、兎に角に附近一帯の地に大鏡でお馴染【なじみ】の、惟喬【これたか】のみこの亭榭【ていしや】を設けられし交野鳥立【とたち】の原、然も境内には、年古【ふ】りたる木立の下に光仁帝が置かせられた拝天祭星の郊壇【こうだん】の礎石【いしずゑいし】やら、在りし昔の百済寺【くだらじ】の土台石【どだいいし】やらがゴロゴロしてゐるので、何となく神寂【かみさび】びて見ゆるが、本殿の瓦の花菱【はなびし】の神紋【しんもん】などが麗々しく附けてあるのを拝まされては、折角咽喉【のど】ぎわまで出かけてきた有難味をソツと奥歯で噛み殺してしまひたくなる。宝前に、鵜自物頸根【うじものうなね】突抜き祭神はと仰向【あほの】くと、ぺンキ塗の額に書きも書いたり左方素戔鳴命【すさのをのみこと】、右方百済王神社、これでは相撲の呼び出しのやうだわいと左右を見ると、瀬戸焼【せとやき】の狛【こま】が睨み合をして居る。我れ知らずヤレヤレを千遍ばかり唱へる。なんぼ新羅【しらぎ】のえ蘇尸茂梨【そしもり】まで跡を垂れた遠歩きの好きな素戔鳴命でも、百済王と寄り合ひ世帯【しよたい】とは、奇抜すぎると思ふても見たが相手は神様、凡人【ぼんにん】の非礼を受けやう筈もないと考へ直して社務所に神官【じんくわん】を訪ねると、此の神官が勇将の下【もと】に弱卒なしで、物を識【し】る識らぬの境を超越してござるのだから恐れざるを得ない。何を尋ねても存ぜぬ知らぬ――それでも絵葉書は三枚一組で十五銭だけは知つてゐる代物【しろもの】ゆゑ愈々以て助からない。ナニか古文書か社殿のようなものはありませぬかと開き直ると、神官曰く、先項京都大学の学生さんが来て此の巻物は見せると却【かへつ】て笑はれるから決して見せるなと云ふたゆゑ、縁起はあるが見せられぬと、それでも平【ひら】に頼むと初穂【はつほ】はお志次第と見料【けんれう】の催促が迂廻運動をはじめる。一見に及ぶと成ほど学生さんの云はれた通りの笑はれもの。それでも神官殿は口尖【とが】らして、此の巻物は先代の神官が、木津の阿部はん(此の地方で有名なる系図書きで、大和河内の神社仏閣には、此者の手になる偽縁起【ぎゑんぎ】頗る多し)に頼みやはつて、三十両といふ金を出しはりましたんだつせと例の大阪弁で噛みつくやうにほざく。此方【こちら】も此の神官ではあきまへんと絵葉書頂戴の初穂なげ出しの社務所駈け出しと極【き】めこんで、更に百済寺の本尊が預けてあると云ふ西有寺【さいいうじ】の住職、百済王の侍臣として韓国から来りしと云ふ余氏【よし】の後裔【こうえい】余善与次郎【よぜんよじろう】氏、百済王の嫡統と称して己【おれ】は近いうちに男爵になるのだと鼻うごめかしてゐる三松俊雄【みまつとしを】氏の三氏から聞き得たる百済王族の伝説は、ザツと左の通りでござりまする。【以下、次回】

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美濃部達吉博士の弟子は師の学説を忌憚なく批判した

2018-11-17 01:30:18 | コラムと名言

◎美濃部達吉博士の弟子は師の学説を忌憚なく批判した

 鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)から、その「あとがき」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。本日、紹介するのは、「あとがき」の「Ⅳ」の後半である(四〇七~四〇九ページ)。
 引用者注は、【 】で示した。引用文中にある〔 〕は、原文にあったものである。

 このような意味で、先生【美濃部達吉】の憲法理念は、新体制の中に安定したもののように見えたが、先生の没後、占領軍の管理統治体制が終了すると共に、追放解除、それにいわゆる逆コースが次々と効果を現わし、今やわれわれがもう一度民主主義の基本理念を追究し直さねばならないという危機に当面している。私はこの意味でいわゆる伝統的憲法学の再評価を試みるべきだと思っている。それが最後の論文「伝統的憲法学の意義と限界」であるが、その前にもう一編「美濃部先生の比較憲法史的研究」というものを見ておきたい。美濃部先生が、歴史を基礎にした比較法研究に関心をもっておられたことは、そのドイツ留学の経緯を見ても知られるところだが(美濃部達吉「退官雑筆」『議会政治の検討』昭和九年、五八四頁)、それが明治憲法の歴史的位置づけをはっきり捉えて、その解釈論を展開されていることは、今日先生を再評価するに当たって欠くことのできない視点である。
 明治憲法は歴史の中間地点に立っていた。それは、明治初期の官僚的独善的政府から、明治期・大正期にかけての開明的・民主主義的政府への転換期に当たって、この両者をどう処置するかの政治的抗争のさ中に位置していた。この時に当たって、最も強く後者の立場に立って、大日本帝国憲法の解釈論を展開された学者は決して少なくなかったが、その中でも傑出した一人が他ならぬ美濃部先生であった。先生が機関説問題の渦中に立たされ、貴族院議員を辞任されるという悲劇的な結末を迎えるにいたって、なお毅然としてその学説を変えず、ついには暴漢にピストルで射撃されるという事態に立ちいたっても、依然として書斎にこもって執筆を続けられた態度には、頭の下がる思いがする。
 今日の日本国憲法はかなり広い範囲で基本的人権を認めており、それは今日の有能な憲法学者たちの、たゆまざる努力によることの多いことは認めざるを得ないが、現代と比べてはるかに客観的な条件の悪い事態の下で、今日の民主主義の基礎を築かれた先生の理論の一端を、先生を追悼する雑誌の中に書かせて頂いたことに深く感謝したい。
 最後の「伝統的憲法学の意義と限界――美濃部・佐々木学説の評価」は、右のような伝統的憲法学――具体的にいえば、美濃部・佐々木両博士を中心とする学派――の意義を再評価しようとする試みである。美濃部博士と佐々木【惣一】博士の間にはその弟子の構成にかなり顕著な違いがあって、美濃部博士の弟子たちは先生の学説を忌憚なく批評しているので――例えば、宮沢【俊義】教授は先生の代表の観念を強く批判し(美濃部教授還暦『公法学の諸問題』昭和九年、所載の「国民代表の観念」)、田中二郎教授は公物の時効取得の問題について美濃部先生と激しい論争を交わされた(田中二郎「公物の時効取得」民商法雑誌三巻一〇号〔昭和一〇年〕所載)、先生の弟子たちの間には学問的に可成り自由な空気が満ち充ちていたのに対し、佐々木先生の弟子たちの間には、先生を中心に一致団結して宿敵官僚主義と戦うという気概が現われていた。
 私は、美濃部学説、佐々木学説の今後の運命について、軽々に予言をしようとは思わない。しかし、これらの学派の自由のための戦いが、今日の日本の礎を定め、未来への発展の足がかりを残した功績は、はっきりと評価しておく必要があることを信じて疑わないものである。
【一行アキ】
 最後に、このささやかな論文集をまとめるに当たって、東京大学助教授渡辺治君に格別の援助を頂いたことを感謝したい。同君は収録各論文を徹底的に点検し、引用文の出典を明らかにし、行文の不明瞭なものについてはこれを正し、最後に全編を整理して、読者諸氏の今日見られるような体系に整えて下さった。もちろん内容に関する異論は多多あったようであるが、これには目をつぶって専ら整理にのみ集中された努力には、満腔の謝意を献げるのにやぶさかではない。この他、在外研究から帰国早々の専修大学助教授石村修君の御助力を得たことにも深く感謝したい。
 有斐閣の方々、とくに編集部長の大橋祥次郎さんと編集部の大井文夫さんには、出版全般にわたって並々ならぬ御世話を頂いた。またこの小著については、筆者が研究生活の初期に一四年半に亘ってお世話になった東京大学社会科学研究所所員の皆さん、中でも公法関係の高柳信一、渓内謙、奥平康弘の方々の御好意は忘れがたい。録して心からの謝意を表したい。
 これらのささやかな論文が、危機に面している日本国憲法の健全な未来への発展に少しでもお役に立つことを祈って筆をおく。
  一九八四年七月四日     鵜 飼 信 成

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佐々木惣一博士の反論に再反論できなかった

2018-11-16 01:52:07 | コラムと名言

◎佐々木惣一博士の反論に再反論できなかった

 鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)から、その「あとがき」を紹介している。本日は、その二回目。本日、紹介するのは、「あとがき」の「Ⅳ」の前半である(四〇五~四〇七ページ)。

        Ⅳ 
「佐々木惣一博士の『日本国憲法論』について」以下四編は、いずれもいわゆる伝統的憲法学の貢献を評価すると共にその問題点を指摘したものであるが、一方で若い清新な学者たちの反対を免れないと同時に、問題点の指摘が不十分であるという批判を受けたものである。時代が変わり、学説が進歩すると共に、旧時代の学説がこのような運命を辿ることは自然の結末で、いつの時代でもこれは避けがたい過程である。しかし、筆者は、筆者の立っている立場を軽々に変えることはないであろう。これはこれで日本憲法学史上の一時期の表明であると信じている。
 これら四編のうち、第一の佐々木博士に対する拙ない書評に対しては、先生自らこれに対する反批判を加えられたことは、後学にとっての極めて喜ばしい反応であった。私はそれを熟読玩味し、大いに教えられるところがあった。先生の好意ある反論には感謝の外はない。しかしそれに対し再度反批判をすることは私にはできなかった。それはそれでよかったと私は思っている。しかし美濃部〔達吉〕先生とその一門対佐々木先生とその一門との間に、学問的には、一方で穂積〔八束〕=上杉〔慎吉〕=井上〔孚麿〕学派と対立する共通の姿勢がありながら、他方、その学問的方法には大きな違いがあることを知り得た。しかしこれら両派の間には感情的なしこりや反感が全然なく、全く友好的な関係で互いの学問的研究を理解し合っていることは、すばらしいと思う。
「美濃部博士の思想と学説――その歴史的意義」は、傍題として書き添えられている「謹んで先生の霊に捧ぐ」という言葉が示すように、昭和二三年(一九四八年)、先生の逝去直後に書かれたものである。戦後の先生の活動については、いろいろの批判もあるが(例えば、昭和二〇年秋、新聞紙上に発表された憲法改正無用論についての主張に対する批判など)、私は先生の言動が首尾一貫したものであることを固く信じて疑わない。その一例をあげれば、新しい行政機関の一つに全国選挙管理会委員長という職があった。先生の理論の一つの重大な要点に、国民代表機関としての国会の重要性、とくに議員の選任過程としての選挙管理の意義という論点があった。総司令部もこれを理解していて、すべての中央官庁のうちただ一つ内務省だけに解体を命じ、その権限を新設の、つまり旧憲法下には存在しなかった、独立性をもった、合議制官庁である行政委員会に分け与えてしまったのである。何れも重要な意味をもった制度改革であったが、中でも全国議管理会は警察の権限と切り離されることによって、従来のように内務省による選挙干渉などの行われる余地をなくしたことは、美濃部先生の理想を実施したものといえよう。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2018・11・16

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新旧両憲法は全く別個の根本規範に根ざしている

2018-11-15 02:00:22 | コラムと名言

◎新旧両憲法は全く別個の根本規範に根ざしている

 昨日は、鵜飼信成のエッセイ「宮沢憲法学管見」(一九八四年二月)を紹介した。本日は、鵜飼信成の著書『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)を紹介してみたい。といっても、紹介するのは、本文ではなく、「あとがき」である。
 同書の「あとがき」は、たいへん長く、二十三ページもある。「Ⅰ」から「Ⅳ」までの四部で構成されているというのも珍しい。ここで、著者は、同書に収録した論文について、その思い出などを語りながら、みずからの学問生活を回顧している。非常に貴重な話が多い。本日は、この「あとがき」のうち、「Ⅲ」を紹介してみたい(四〇四~四〇五ページ)。

        Ⅲ
「憲法秩序の変遷」。宮沢俊義教授の八月革命説はいつまでも問題のようで、例えば、樋口陽一教授(「タブーと規範」世界一九八六年六月号)と菅野喜八郎教授(「八月革命説覚書」法学四七巻二号――内容目次の英文では、“Memorandum on Miyazawa's Theory of 'August Revolution'”となっている)との間の論争等、何れも重要な問題点を指摘している大変興味ある論争である。根本的には革命といわれるものは何かということにあるが、八月革命説は、もともと丸山真男教授が研究会で提示したものを宮沢教授が、丸山教授の承諾を得て憲法学者の説として発表したことに私は関心をもっている。革命という観念は憲法とくに実定憲法の中には存在の余地がなく、主として政治学者の関心事である。しかし日本国憲法の場合には、事情が少し違う。それは憲法の文面の上では、日本国憲法が、従来の大日本帝国憲法の継続であることをしきりに表明している(例えば、日本国憲法の上諭には「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顯問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とあって、これは新憲法が全く新たなものであって、それと旧憲法との間には革命的断絶があるという考えを明示的に否定し、日本国憲法は明治憲法に定める憲法改正の手続を踏んで作られた明治憲法の改正憲法であるということを宣言したものである)。
 しかし「日本国民の総意に基」くという日本国憲法の本質と、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」という明治憲法の本質とが、基本原理の同一性を保持しているとは到底考えられない。そこで、明治憲法はそれ以前の憲法と同一性をもっていたが、新憲法と明治憲法との間では断絶があるという見方が出てくる。いわば法的な本質においては全く別個の根本規範に根ざした二つの憲法であるが、ただ政治的な便宜から、マッカーサーが、両憲法の間には「完全な法的持続性」が保障されなければならないという声明(昭和二一年六月二一日「議会における討議の三原則」の第二)を発したこととを調和させるためには、政治学者も憲法学者も、この過程を一応政治革命とした後、憲法学者はこの変革を法秩序全体の変遷としてどう説明し、政治学者は政治力、政治意識等政治過程の変革の過程としてどのように説明すベきかという課題に当面して、これを如何に処理するかに苦心したものと理解するのが正しい。
 だから政治学者は、昭和二〇年(一九四五年)八月の段階で、古い憲法秩序の崩壊を確認すると共に、新しい憲法秩序の基本原理を予測したのに対し、憲法学者は、新しい憲法秩序がほぼ定まってから(マッカーサーの新憲法草案が示されたのは昭和二一年二月一三日、これに基づく日本政府の憲法改正草案要綱が公表されたのは同年三月六日)、これらの法(経過法的規定や国際的法規を含む)の理論的脈絡を説明したのである。宮沢教授の八月革命説が公表されたのが、昭和二一年五月号の「世界文化」誌上であるのは、そのためであると私は考える(鵜飼信成「宮沢憲法学管見」ジュリスト八〇七号)。
 本編は、わが国が過去に経過した四つの憲法秩序(①明治憲法前の憲法秩序、②明治憲法下の憲法秩序、③管理法秩序、④日本国憲法秩序)が、全体としてどのような実体法秩序の変遷を示していたかについて分析したものである。

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