礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

71年前の2月11日の出来事

2016-02-11 04:56:09 | コラムと名言

◎71年前の2月11日の出来事

 書棚を整理していたところ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)という本が出てきた。
 著者の中村正吾〈ショウゴ〉(一九〇九~一九七六)は、もともとはジャーナリストだが、戦争末期の小磯国昭内閣に国務大臣として入閣した緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉のもとで、秘書官を務めた経験を持つ。
 この本においては、「朝日新聞記者/前国務相秘書官」を名乗っている(同書扉)。
 著者は、国務相秘書官在任中に「日誌」を書いていた。この『永田町一番地』という本は、「私の日誌そのままを取材した」ものだという。読んでいて、戦後における視点から、編集がなされている印象は避けられなかった。しかし、「日誌」を踏まえていることは疑いないだろう。興味深い事実、意外な事実などが、次々とあらわれる。本日は、一九四五年(昭和二〇)二月一一日の日誌、つまり、七十一年前の今日の日誌を紹介してみよう。

二月十一日
 小磯〔国昭〕総理の盟友、二宮〔治重〕文相は病気のため再起不可能の状態にあつた。従つてこれに関連する内閣再度の改造が予期されてゐた。
【一行アキ】
 小磯総理は文相に児玉〔秀雄〕国務相を充て、書記官長には、はじめ山崎巌氏を考へた。この山崎案は直ちに立ち消えとなつて、石渡〔荘太郎〕蔵相に話を持ちかけた。石渡蔵相はこれを拒絶し、代はりに廣瀬〔久忠〕厚相を推した。そこで小磯総理は廣瀬厚相の書記官長案を決意し、一方厚相は吉田〔茂〕軍需相の兼任とせんとしたが、吉田軍需相から「とても手がまはらぬ」と断はられ、そのため厚相には相川〔勝六〕次官を昇格することに内定塁した。相川次官の昇格は廣瀬厚相が書記官長就任の条件であつたともいはれる。とに角、廣瀬厚相は、折柄の空襲最中、総理官邸防空壕内で小磯総理に口説かれて決定を見た。
 今度の内閣改造は厳秘中に而かも短時間に行はれた。新聞発表もやつと、市内版締切りに危く間に合つた程度である。
【一行アキ】
 国務大臣兼書記官長は最近稀有のことで、いはゆる大物書記官長の実現である。廣瀬新書記官長が大物であるかどうか。消息通の見るところでは、否定的である。相川厚相に対しては殊に内務官僚がかなり不満で一般に失望の色が濃い。
 今度の改造もまた小磯総理の失敗に数へられた。この内閣にとつてプラスになるどころかマイナスだといはれてゐる。改造によつて内閣は決して強化されないといふことを再び見せつけられた。閣内のチグハグな空気が今度の改造で一掃されるどころか益々、深くなつた。内閣が倒れるのは客観的情勢に基くが、それとともに、閣内の不一致による。内閣の不一致が収拾つかなくなつた時、内閣の最後である。

 この文章だけでは読みとれないが、廣瀬国務大臣兼書記官長、相川厚相の親任式がおこなわれたのは、二月一〇日の夜八時半だったという(二月一〇日付「日誌」)。なお、軍需相の吉田茂(一八八五~一九五四)は、のちに首相となる吉田茂(一八七八~一九六七)と、同姓同名の別人である。

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