礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

渡辺教育総監、安田優少尉を銃撃す

2016-02-15 02:46:00 | コラムと名言

◎渡辺教育総監、安田優少尉を銃撃す

 一二日、国立国会図書館に赴いた際、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)も閲覧してきた。
 大谷敬二郎は、東京憲兵隊特高課長、東京憲兵隊長、東部憲兵隊司令官などを歴任した憲兵中のエリートである。二・二六事件の時は、憲兵大尉で、東京憲兵隊付として、青年将校の取調べにあたった。『にくまれ憲兵』(日本週報社、一九五七)など、著書多数。
 さて、『昭和憲兵史』は、今回、はじめて手にとったが、上下段組み、七九四ページの大冊であった。とりあえず、渡辺錠太郎教育総監襲撃事件のところだけ、読んでみた。以下に引用する(一八七~一八九ページ)。

 9 渡辺邸の襲撃と護衛憲兵
 叛乱軍は三長官の一人渡辺教育総監を軍賊としてその私邸を襲撃して惨殺した。渡辺総監の天皇機関説言動に憤慨した青年将校がその辞職を勧告乃至強要していたことは、既述したが、彼の身辺には危険が迫っていた。この年一月には、浅草のテキヤの親分江口佐八が乾分〈コブン〉七、八人を使って渡辺大将暗殺を企て警視庁に検挙されたこともあり、大将私邸にも多くの脅迫状が投げ込まれていた。だから大将自身もひしひしと身に迫るものを感じていた。高宮太平〈タヘイ〉氏が戦後書かれている〝暗殺された二将軍〟によると、当時満洲にいた高宮氏に二月の始め、渡辺大将から一書が届いた。それにはこんな一節があった。
「卑賎に身を起し人民の極位に昇り候事、偏に〈ヒトエニ〉天恩優渥〈ユウアク〉之賜〈タマモノ〉、一身を邦家に捧げ誓而〈チカッテ〉宸襟〈シンキン〉を安んじ奉らむことを期する覚悟に御座候最近特に貴兄御在京ならば御意見を承り度〈タシ〉と存〈ゾンジ〉候件多く、時に夢裡〈ムリ〉貴兄と会談する事あり御推察被成下度〈ナラレクダサリタク〉候」
 驚いた高宮氏は南〔次郎〕軍司令官や東条〔英機〕憲兵司令官に会って、この手紙をみせ、中央の情勢に何事か不吉の予感があるのではなかろうかと尋ねたと、そのいきさつが書かれている。事実、大将は当時国軍の前途に心痛し、身に迫る危険には十分の覚悟をしていたことを窺われる。こんな情勢であったから東京憲兵隊長は牛込憲兵をして、常時下士官一上等兵一の身辺護衛を付して警戒に当らせていた。この憲兵は渡辺家に宿泊し総監他出のときは必ずその一名を随行護衛に任ぜしめていた。
 さて、二月二十六日朝、斎藤内大臣私邸を襲うた歩三〔歩兵第三連隊〕坂井直〈ナオシ〉中隊の一部約三十名は、五時十五分頃軍用トラックに乗り赤坂離宮前を出発し、降りしきる雪をついて杉並区荻窪二〇一三の渡辺教育総監私邸に向った。指揮官は歩三高橋太郎少尉と砲工学校学生安田優〈ユタカ〉砲兵少尉であった。
 この朝大将邸ではいつも早起きのすず子夫人は、すでに寝床をはなれていた。けたたましく鳴るベルの音に夫人は、咄嗟におこる胸さわぎを押えながら電話室に飛び込んだ。電話は牛込憲兵分隊からだった。
「大至急佐川伍長をお呼び下さい」
 夫人は長い廊下をつっ走るように表二階に寝ていた佐川をおこした。
 夫人はこの頃の夫の憂鬱な日常が何よりも心配だった。夫に対する危険は夫人も同じようにうけとっていた。毎日毎日がうっとうしいことの連続だった。夫は何もいわないが、この先、いつどんなことが起るかもしれないと思うと不安で不安でたまらなかった。そうした心の迷いのためか、時々見かけない男が家の前をうろついていたこともあったし、また洗濯物が何者かに故意に持ち去られたこともあった、不吉の予感は重苦しく夫人をおおいつぶしていた。
 早い憲兵隊の電話に胸をつくものがあったが、長年の習慣でお役所の秘密を盗み聞きするようなことはできない。わざと電話室をはなれていた。佐川伍長はねまき姿で電話にかかっていたが、何もいわないで慌てて自室へかけ戻った。あるいは自分の気の迷いか、独りの取越苦労だったかと夫人は思い直していた。
 だが、牛込憲兵分隊からの急報は重大なものだった。
「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の厥起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」
 伍長は、とうとう来るものが来たと思った。寝衣のままではどうにもしようがない。急いで自室に戻った彼は、同僚の上等兵をたたきおこし、自ら軍服を着込んで武装もした。その時だった。表門のところでトラックのきしる音がしたと同時に、下車、ガヤガヤと兵のざわめきがおこった。咄嗟に彼は階下に降りた、とたんに車から降りた兵隊逮は、表玄関に殺到してきた。ダダダン軽機の乱射、すぐ憲兵はこれに応戦した。
 玄関からの突入は困難とみた安田少尉は裏門に廻った。そこには、すず子夫人が気丈にも頑張っていた。
「貴方がたは何ものですか」
「婦人に用はない、大将の居間はどこか」
 安田を先頭にして十数名の一団は、夫人をつきとばして室内に闖入〈チンニュウ〉した。階下十畳の間にいた渡辺大将は、用意の拳銃を握りしめて廊下に出るや、この先頭群に火蓋〈ヒブタ〉を切った。だが、多勢に無勢、大将は押されてまた居間に戻った。十畳の間に乱入した兵たちは、大将めがけて乱射した。大将は身に十数弾をうけて倒れた。兵隊は倒れた大将の後頭部を斬撃した。止めのつもりなのであろう。十畳の居間の壁、戸障子には無数の弾痕をとどめ、はげしい打合いのあとをしのばせていた。
 こうして乱戦すること五分、襲撃部隊は目的を達成して引上げた。国道に出たところ、前方にトラックに満載した憲兵部隊に出合った。すれ違いざま、お互いに打ち合ったが、間もなく離れてしまった。応援にかけつけた憲兵の指揮する補助憲兵の一隊だったが、僅かな時間差で救援には間に合わなかった。なお、この乱戦で護衛憲兵の上等兵は左足に貫通銃創をうけたが、佐川伍長は無傷だった。また、渡辺大将の射撃によって先頭をきっていた安田少尉は足に銃創をうけた。
 だが、この襲撃に護衛に任じていた憲兵には、いろいろ問題があった。たった二名の護衛兵力で、三十数名の襲撃部隊と戦って勝ち目のないことはわかりきっている。幸にも、渡辺邸は第二次襲撃であり、場所も都心からはなれた郊外にあった。牛込憲兵分隊の急報は、たとえ僅か二、三分でも時間的の予告があった筈である。なぜ、護衛憲兵は大将を安全の場所に逃避させることができなかったのだろうか、平素より護衛の任にあるものは、一対一の戦いではなくて集団兵力による急襲に際しての対策を樹てていなくてはならない。この場合、逸早く当人を安全地帯へ逃避させる工夫が必要だった。しかもこれは可能であったのである。夫人の後日話によると、長男夫妻がすぐ一、二軒どなりに世帯をもっていた。だから、牛込分隊の急報に憲兵は、
「奥さんすぐ閣下をお隣りへ移ってもらって下さい」
と電話口で呼べばよかった。たとえ、こんな恰好な家がなくても、邸を出ればよかった。その頃の荻窪の住宅街は、たて込んでいなかった。たいへん閑静な田園住宅だった。森あり林あり、何処にも、しばらくの間、身をかくすのに不自由はなかったのである。佐川伍長のうろたえは、この大切の一瞬の好機を失ってしまった。
 凡そ〈オヨソ〉、身辺護衛は、護衛者、被護衛者とその家族の三位一体でその安全が期せられるということである。この三者が万全の案をねり、しかも、その各々の対処に習熟しておくことが望ましい。これを卑怯といってはならない。みすみす殺されることを予期して漫然としていることは、自らの責任を知らざるもの、自分を大切にするものこそ、人々を大事にすることができるのであろう。
 渡辺大将は軍人だった。すでに陸軍大将、腕力や身体的挙措においては、加害者に弱いのは当然であるが、それでも毅然として拳銃をもって立ち向っている。三十数名の銃口の前に敢然と立ち向う勇気、それは数十年に亘る軍人としての修練の結果であろう。
 とも角も、この場合護衛憲兵には欠けるところがあった。事件が終ってから、これが憲兵部内の問題となった。護衛憲兵を辱職罪〈ジョクショクザイ〉で検挙せよとの声も強かった。牛込分隊長磯高麿〈イソ・タカマロ〉少佐は、自ら護衛憲兵を調査し事突を究明した。その結果は、辱職罪による軍法会議送致は保留されたが、両名とも行政処分に付せられ、先任者だった佐川伍長はその年、除隊を命ぜられ憲兵を去った。護衛勤務はきびしいものであった。

 昨日のコラムの【付記】にも書いたが、大谷敬二郎には、『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)という著書もある。そして、『昭和憲兵史』と『二・二六事件』とを比較すると、渡辺教育総監襲撃事件についての記述が、微妙に異なっている。
 そこで、『二・二六事件』のほうも紹介してみようと思うが、これは明後日。明日は、いったん話題を変える。

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