礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

護衛憲兵、渡辺邸表玄関で襲撃隊に応戦

2016-02-13 04:49:32 | コラムと名言

◎護衛憲兵、渡辺邸表玄関で襲撃隊に応戦

 昨日の続きである。二〇一六年二月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』同年三月号に、渡辺和子さんと保阪正康さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」と題する対談記録が載った。
 この対談における保阪正康さんの発言から、「渡辺錠太郎教育総監を守らなかった」二人の憲兵のうちのひとりが、「佐川伍長」であることを知った。
 対談記録を読んだ当日(一〇日)、グーグルで、「渡辺錠太郎 佐川伍長」を検索してみると、「歴史が眠る多磨霊園」というホームページの「渡邉錠太郎」という項目が、まずヒットした。
 多磨霊園にある墓石が写真で紹介されたあと、渡邉錠太郎の経歴等について、簡潔にして要を得た解説がある。墓石の右手前に「護国偉材」と書かれた碑があることなども紹介されている。次女の渡辺和子さんについても、短い言及がある。
 そのあと、【2.26事件と多磨霊園に眠る人物】という節があって、ここで、同事件で「殺害された人物は全て多磨霊園に眠っている」こと、同事件に関わった様々な人物が、この霊園で眠っていることなどを知ることができた。実に、参考になる(勉強になる)ホームページである。
 続いて、【渡邉錠太郎教育総監襲撃(2.26事件)】という節があり、ここに、「佐川伍長」の名前が出てくる。このあたりを、少し引用させていただきたいところだが、項目の最後に、「このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。」という注意があったので、控えなければならない。
 この節の末尾には、参考文献として、〈「図説 2・26事件」河出書房新社〉と〈帝国陸軍将軍総覧〉のふたつが挙げられていた。「図説 2・26事件」というのは、太平洋戦争研究会編・平塚柾緒著『図説 2・26事件』(河出書房新社、二〇〇三)のことである。「帝国陸軍将軍総覧」というのは、たぶん、雑誌『歴史と旅』の特別増刊号「帝国陸軍将軍総覧」(一九九〇年九月)のことであろう。
 翌一一日、地元の図書館に行って、まず、『図説 2・26事件』を閲覧してきた。「帝国陸軍将軍総覧」のほうは、あとまわし。
 以下、本日は、『図説 2・26事件』から、渡辺錠太郎襲撃関係の記述を紹介してみたい。

渡辺錠太郎教育総監襲撃
 襲撃隊に応戦した渡辺大将の最期
 四谷仲町で斎藤実内大臣を襲撃したのち、主力は他の決起部隊と合流するため陸軍省に向かったが、高橋太郎、安田優両少尉に率いられた約三十名の下士官兵はトラックで杉並の上荻窪に向かった。渡辺錠太郎教育総監を襲撃するためである。トラックには軽機関銃四挺、小銃約十挺が積まれている。
 渡辺教育総監襲撃の実質的責任者は安田少尉である。安田が荻窪の地理に詳しかったからだ。渡辺邸の住所は上荻窪二丁目十二番地。そして安田少尉が寄宿していた義兄宅は上荻窪二丁目九十七番地であった。安田少尉にとって渡辺教育総監は〝ご町内の皆さん"だったのである。事前に渡辺邸の様子や総監の寝ている部屋などを、さり気なく聞き込みをしていた安田らしい男も目撃されている。
 さて、四谷を出発した襲撃隊が渡辺邸に着いたのは午前七時前だった。襲撃班は二名の将校以下五、六名で、安田・高橋両少尉が先頭にたって表門を襲った。門はすぐに開いたが、玄関が開かない。軽機関銃を発射させた。発射したのは中島与兵衛上等兵である。その中島上等兵は書いている。
「数分たった頃、『裏口があいている』という連絡がきたので全員裏口に廻わり安田少尉が先頭を切って屋内に入った。我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
 安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、そこに夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、『あなた方は何のためにきたのですか、用事があるなら何故玄関から入らないのですか』と大声をあげた。
 夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。しかしその様子で大体察しがついた。その奥の部屋に居るらしい。いや、いる筈である。そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。正しく総監であった。その部屋は八畳ぐらいの寝室で、総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
 ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、相手が一人のため瞬く間に決着がつき高橋少尉が布団の上から軍刀で止どめを刺して引きあげた。この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位だったと思う」(『郷土兵』〔『二・二六事件と郷土兵』を指す〕)
 渡辺総監は「後頭部ソノ他全身ニ銃創、切創等十数個ノ創傷」(判決文)を受けて即死した。
 ところで、襲撃隊が踏み込んだとき、総監私邸には二人の護衛憲兵が泊まり込んでいた。伍長と上等兵である。大谷敬二郎著『昭和憲兵史』によれば、この憲兵伍長に牛込憲兵分隊から「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた、鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起〈ケッキ〉だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」という緊急電話が入っていた。
「伍長は、とうとう来るものが来たと思った。寝衣のままではどうにもしようもない。急いで自室に戻った彼は、同僚の上等兵をたたきおこし、自ら軍服を着込んで武装もした。その時だった。表門のところでトラックのきしる音がしたと同時に、下車、ガヤガヤと兵のざわめきがおこった。咄嵯に彼は階下に降りた、とたんに車から降りた兵隊達は、表玄関に殺到してきた。ダダダン軽機の乱射、すぐ憲兵はこれに応戦した」(前掲書〔『昭和憲兵史』を指す〕)
 この憲兵の応戦で安田少尉は右大腿部に貫通銃創を負い、分隊長の木部正義伍長も同じく右大腿に盲管銃創を負ったが、ともに命に別条はなかった。

 これを読んで、これまで知らなかった事実を、いくつか知った。やはり、こうしたことは、みずから図書館に赴いて調べなければならない。ブログ読者から、ご教示があるかもしれないなどと期待していた自分の甘さを猛省した。
 さて、これまで知らなかった事実というのは、第一に、早朝の電話は、「牛込憲兵分隊」からのものであったという事実。第二に、渡辺教育総監が、裏口から侵入してきた襲撃隊に向かって、拳銃で応戦したという事実。第三に、護衛憲兵が、表玄関に殺到した襲撃隊に向かって応戦し、襲撃隊に負傷者も出ているという事実である。
 しかし、正確なところは、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)によって確認する必要がある。
 なお、右の『図説 2・26事件』の文章を読んで、明らかに不自然な記述があることに気づいたが(後述)、この点についても、『昭和憲兵史』、『二・二六事件と郷土兵』に当たった上で、考えてみようと思った。【この話、続く】

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