礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

渡辺邸に襲撃部隊が到着した時刻は?

2016-02-17 04:07:33 | コラムと名言

◎渡辺邸に襲撃部隊が到着した時刻は?

 話を「二・二六事件」に戻す。一昨日、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)から、渡辺錠太郎教育総監襲撃事件の部分を引用した。
 本日は、大谷敬二郎『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)から、同襲撃事件の部分を引用してみる(一八~一九ページ)。

 渡辺大将暴徒と戦う
 その朝、荻窪の渡辺邸ではすず子夫人がいつものように家人に先んじて寝床を離れていた。この数日来何かしら気味の悪いものがひしひしと感ぜられる。家の干物〈ホシモノ〉がなくなったり、ついぞ見かけぬ迂散臭い〈ウサンクサイ〉男が屋敷のまわりをうろうろしているのを見かけたこともある。主人は何事もいわないがいろいろな脅迫状もまい込んでいるらしい。宅には憲兵さんが二人も寝泊りしていてくれるので幾分は心強いものがあるが、それでも不安で不安でたまらない。――けたたましく電話のベルが鳴った。
「もしもし、渡辺閣下のお宅ですか、牛込憲兵分隊ですが急用ですから佐川伍長をすぐ呼んで下さい」
 こんなに早く何事だろう。何かおこったのではなかろうか、でも憲兵隊のお役所向きのことを聞くわけにもいかない。夫人は廊下を走るようにして玄関二階に寝泊りしている憲兵をおこしに行った。
「憲兵隊から至急のお電語です」
 佐川伍長は蒲団をはねのけるや寝衣のままで電話室にとび込んだ。
「今払暁、在京青年将校が部隊を率いて首相官邸、斎藤内大臣邸、鈴木待従長邸などを急襲し、陸軍省にも大部隊が占拠している。あるいは、大将邸を襲うかも知れない。十分に警戒するよう、すぐ応援憲兵が送られるはずだ、しっかりやれ」
 分隊当直下士官からの連絡だった。佐川伍長はいよいよ来たなと覚悟をきめた。落ちついて腕の時計を見ると六時十分前だった。寝衣のままではどうにもならない。彼は小走りで居室に戻り、部下の上等兵をたたきおこしながら急いで軍服と着がえて武装を整えていた。途端に白動車の音が表門の方で聞こえた。来たなと思うとすぐ拳銃に装填【ソウテン】した。自動車は前で停まった。〝下車〟どやどやと軍靴の音が雷の上を走る。
 玄関の扉がはげしく叩かれる。憲兵は暴徒の闖入を食いとめようと、玄関を内から固めていた。ダンダン、ダダン――機銃の打ち込みだ。憲兵も拳銃をもって応戦した。
 さて、この渡辺邸襲撃隊は、すでに今暁斎藤邸を襲撃した坂井〔直〕部隊の一隊であった。午前五時二十分頃、鈴木〔ママ。高橋太郎の誤記か〕、安田〔優〕両少尉の指揮する下士官兵三十名は赤坂離宮前において市川野重七〔野戦重砲第七連隊〕の田中勝中尉の差し向けた自動貨車〔トラック〕によって渡辺邸を襲ったのである。
 彼らの一隊は正面玄関よりの進入困難と見るや、一部を残して大部分は裏庭に回った。そして安田少尉を先頭に雨戸を機銃の掃射で破壊し屋内になだれ込んだ。すず子夫人は雄々しくもこれを阻止しようとして彼らの前に立ちふさがった。だが若い兵隊たちは殺気だっていた。夫人をつきとばして群をなして室内になだれ込んだ。大将は変を知ってかねて用意の拳銃を手にして階下十畳の寝室から廊下に出て彼らに立ち向かった。だが漸次押されてもとの寝室に退った〈サガッタ〉。これを追う彼らは軽機をぶち込んで一瞬に大将を倒してしまった。
 すべて一瞬の出来事だった。玄関に暴徒と対戦していた憲兵は大将の危急に間に合わなかった。憲兵上等兵は右足に貫通銃創をうけたが佐川伍長は無疵【むきず】だった。こうして襲撃隊はその目的を達し六時半頃引きあげたが、途中牛込分隊からの応援憲兵と国道上で遭遇し、彼我車上において銃戦を交えたが、襲撃隊は瞬時にして立ち去り陸軍省付近に走った。
 なお、渡辺大将は身に機銃弾十数発をうけ、また、その後頭部は三個所の切創をうけていた。まことに無惨な最期であった。

 これによれば、すず子夫人が電話を取った時刻は不明だが、佐川伍長が電話を終えた時刻は、午前五時五〇分だったという。
 高橋・安田両少尉が指揮する「下士官兵三十名」が、赤坂離宮前でトラックに乗車したのが、午前五時二〇分ごろ。それから、荻窪の渡辺邸に到着するまで、どのくらいの時間を要したかハッキリしないが、引き揚げた時刻(午前六時三〇分ごろ)から逆算すると、襲撃部隊は、午前六時〇〇分から六時一〇分の間に、渡辺邸に到着していたことになるのではなかろうか。
 これらの時刻は、あくまで、大谷敬二郎『二・二六事件』の記述を信用した上での話である。
 ところで、不思議なことに、同じ著者の『昭和憲兵史』では、佐川伍長が急電を受けた時刻、襲撃部隊が引き揚げた時刻について言及がない。「時刻」に関して触れているのは、次の一箇所のみである。

 さて、二月二十六日朝、斎藤内大臣私邸を襲うた歩三坂井直中隊の一部約三十名は、五時十五分頃軍用トラックに乗り赤坂離宮前を出発し、降りしきる雪をついて杉並区荻窪二〇一三の渡辺教育総監私邸に向った。指揮官は歩三高橋太郎少尉と砲工学校学生安田優砲兵少尉であった。

『二・二六事件』では、赤坂離宮前を出発したのは、午前五時二〇分ごろとなっている。その差は五分にすぎないが、どちらかと言えば、午前五時二〇分ごろと考えたほうがよかろう。なぜなら、斎藤内大臣邸の襲撃開始は午前五時〇〇分とされており(後述)、これが、一〇分ほどで目的を達したとしても、渡辺邸襲撃隊を招集し、それを出発させるまでには、斎藤邸襲撃開始から、最低二〇分は要したと見るべきだからである。
 もうひとつ不思議なのは、『昭和憲兵史』では、佐川伍長のとった措置に対して、批判的な視点が見られるのに対し、『二・二六事件』のほうには、そうした視点が全く見られないということである。
 このことは、私見では、『二・二六事件』において、著者の大谷敬二郎が、引き揚げた時刻を午前「六時半頃」としていることと関わっている。つまり、大谷は、襲撃部隊の到着時刻および撤収時刻を意図的に繰り上げ、そうすることによって、護衛憲兵が、急電を受けてから、「一時間程度」、何らの措置もとらなかったという事実を隠蔽しようとしたのではないか。この「一時間程度」の根拠については、次回。

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