礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲

2016-02-24 06:28:55 | コラムと名言

◎緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲

 今月二〇日のコラム「廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表」の続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の二月二四日、二五日、および二五日における著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一六三~一六七ページ)。

 二月二十四日
 午後一時から翼賛会〔大政翼賛会〕で、翼壮〔大日本翼賛壮年団〕全国団長会議が開かれた。翼壮問題が議会で問題化した後、はじめて、緒方〔竹虎〕新会長の下に開かれた会議である。
 緒方団長の告辞(註)が終はり、次の議事に入つたころ、団員らしい青年一名がツーと緒方団長の左背に近寄つた。団長と二言、三言、言葉を交はしたと見る間、その男はいきなり匕首〈アイクチ〉を抜き緒方団長の左脇腹を背面から刺した。力余つたのか、刺すまでに、至らなかつたのか、アツと思ふ間に緒方団長は椅子もろとも前面に倒れた。一瞬の出来事である。会場の団員は総立ちになつたが、兇漢はその場で警視庁巡査、憲兵隊員らにとり囲まれ難なく逮捕された。見ると緒方団長は左首後頭部に裂傷を負つてゐる。椅子を元の席に返し、団員を制止して緒方団長は会議の続行を宣した。一時騒然となつた会場もそれで落付き、議事は再び続行された。
 その青年が、警視庁で自供したところによると、赤誠会員、帝都翼壮団員、豊淵忠八郎で、年は二十五歳、朝鮮人である。帝都翼壮或は赤誠会にアヂられたものか、緒方兼任団長〔緒方団長は大政翼賛会副総裁と兼任〕が翼壮を即時解体するものと誤信した。この日の翼壮団長会議に潜入して緒方団長を刺せば兼任団長問題は片付き翼壮の解体も阻止出来ると思つたのである。犯人はやる積りで来たが緒方団長の告辞を聞いてゐると、自分の考へが間違つてゐるやうにも思へ、これならばと気が進まなかつた。一時、兇行をためらつたけれども、その後の議事の進行で、やつぱり、やらうと思ひ直し、緒方団長に面談を強要した。団長の背後から意見書を手渡し、読んでくれ、といつたところ団長は、今、会議中だから後にしてもらひたい、といつた。それで、こと面倒だと、即座に刺した。団長が身体をかはしたので、椅子もろとも顛倒した。と自白した。犯人が非常に興奮してゐるため、背後関係などはなほ判明しない。団長を刺しそれによつて、日本の指導者層の反省を求めるなどとも犯人は口走つてゐる。
(註)緒方団長の告辞
……国体に対する自覚こそは無比かつ無上の戦力である。……全国百四十万の翼壮団員は夙にこの意を体して黙々として地域、職域に敢闘しつつあるが、重ねて茲にこれを強調し志士的精神を以て実践奮闘、戦局が要請する諸多の活動に挺身せんことを熱望する。……我々は先づこの時この際虚心坦懐に厳正なる自己反省を遂げたい。第一は団又は団体の行動に独善的な点があつてはならぬといふことである。我々は最も謙虚な態度を以て運動を進めて行きたいと思ふ。……第二は所謂街頭運動を戒めることである。運動の主流は一見派手な街頭にあるのでなくて目立たない国民の日常生活のうちにある。……第三に他の諸団体の運動に対しその伝統と実績に敬意を表し互に相携へて進むの態度あるべきことである。……今こそ一人の力によつて国の興廃が岐れる〈ワカレル〉。翼壮の責務たるや重大といはねばならぬ……。
 二月二十五日
 早朝八時、警戒警報たちまち空襲警報となつた。珍らしい大雪の中、艦載機とB29の混合空襲である。大宮御所〈オオミヤゴショ〉、主馬寮〈シュメリョウ〉にも投弾、神田方面に大火が発生した。
 都心の風景は眞に凄愴たるものがある。霏々たる〈ヒヒタル〉粉雪、雪空を蔽ふ黒煙、その暗澹たる空の彼方は、猛火のためであらうか、ほのかに紅に染まつてゐる。
 米軍は欧洲戦場で対独空襲を行つたと同様の手段に出て来た。悪天候を利用する空襲である。今日は我方の邀撃〈ヨウゲキ〉戦果がなかつた。硫黄島戦終末に伴つて、本土空襲の激化が予想される。
【一行アキ】
 午後、緒方国務相は天機奉伺のため参内記帳した。その帰り、坂下門から、深雪を踏んで歩いて来る小磯〔国昭〕総理に出会つた。降り積る肩の雪を払つて「大変なことになりましたな」と一言、人の好い顔付を見せて、総理は御車寄せの方に向つた。
 二月二十六日
 情報局での今日の定例、各社編輯責任者会議は各社政経部長会議と合同で開かれた。陸軍から真田軍務局長が出席して戦況を説明したが、さきの行政協議会席上に於ける参謀本部宮崎第一部長の報告と同じく、本土決戦を強調したものであつた。本土決戦論はかくて陸軍から政府、与論へと滲透されてゐる。

 緒方竹虎は、背後から兇漢に刺されようとしたとき、体をかわして事なきを得た。「左首後頭部に裂傷を負つてゐる」とあるが、これは、椅子もろとも倒れたときの傷であろう。その直後、椅子を戻して、会議の続行を宣したとあるが、これらはいずれも、これは並の度量でできることではない。ウィキペディアによれば、緒方は剣道の達人で、中学生時代(福岡の修猷館)、すでに小野派一刀流の免許皆伝を受けていたという。
 一九四五年(昭和二〇)二月二五日朝、ついに、皇居にも空襲の被害が及んだ。この日、午後、緒方竹虎は、「天機奉伺」のため、皇居に出かけている。前日、暗殺未遂事件に遭遇していたが、何らの動揺もなかったのごとくである(左首後頭部の「裂傷」は、どうなったのだろうか)。
 帰路、緒方は、小磯首相とすれちがった。首相曰く、「大変なことになりましたな」。もちろん、これは、皇居にまで空襲の被害が及んだことを言おうとしたのである。

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